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老主の一時期(ろうしゅのいちじき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 8:18:52  点击:  切换到繁體中文


 宗右衛門は軽い眩暈めまいを感じて眼を閉ぢた。何か哀願するやうなお辻の声が何処どこかでした。それから、また、閉ぢたまぶたの裏にまざ/\と二人の娘のびっこ姿が描かれるのであつた。宗右衛門は首をひとつ強く振つて、それをかき消さうとするのであつたが、かえつて場面を廻転したいまはしいシーンが、はつきりとあとへ描き出されるのであつた。やはりお辻の棺がまだ寺へ来ぬまへのことであつた。いよ/\家の奥座敷から、それを出さうとする時であつた。幾度も人のすくない時を見計らつてはお辻の死床に名残なごりをおしみに来た二人の娘が、最後にそろつて庭を隔てた離れから出て来た。その時は如何いかはばからうにも人は棺の前後にあふれ、座敷の上下に渦をなしてゐた。低声ではあつたが、今まで何となくざわざわしてゐた人々の声が、にわかに静まつた。宗右衛門もふと奥庭の奥深くへ眼をやつた。白無垢しろむくのお小夜とお里が、今、花のまばらなくちなしの陰から出てつはぶきに取り囲まれた筑波井つくばいの側に立ち現はれたところである。若い屈強な下婢かひが二人左右に――姉も妹もせ形ながら人並より高い背丈を、二人の下婢の肩にかけた両手の力で危ふく支へてわずかに自由の残る片足を覚束おぼつかなげに運ばせて来る。黒紋付を着たい老婢が一人、小婢を一人したがへて、あとから静かに付き添つて来る、……やがて薄い涙で曇つた宗右衛門の眼に、拡大されて映つた二人の娘の姿が、静まり返つた人々の間を通つて、お辻の寝棺の傍に近づいた。宗右衛門はあわてゝ立ち上つた。そして棺に高い台をかふやうに急いで命じた。人々も娘達も呆気あっけにとられた。宗右衛門は娘を其処そこへ座らせまいとしたのであつた。座ればその下半身は、曲らぬ片足を投げ出したまゝの浅ましい異様なもののうづくまりになるからである。棺は丁度、娘達の胸まで達した。あらためて娘達は棺に近づいた。姉も妹も並んで一所に額付ぬかづいた……二人の白羽二重の振袖ふりそでが、二人がなよやかな首を延べて身をかゞめようとするその拍子に、丸いの肩を滑つて、あだかも鶴の翼のやうに左右へ長く開いたのである……人々はこの清艶せいえんな有様に唾をんだ。娘達はそのまゝ黙つてしばらく泣いた。顔を上げた時、二人のほおから玉のやうな涙があふれ落ちた。御殿女中上りの老婢に粧装つくられる二人の厚化粧に似合つて高々とひ上げた黒髪の光や、秀でたまゆつやが今日は一点のべにをも施さない面立ちを一層品良く引きしめてゐる。とりわけ近頃うれひが添つてかえつてあでやかな妹娘の富士額ふじびたひが宗右衛門には心憎いほど悲しく眺められたのであつた。


「ごーん」と低い丸味を帯びた鐘の音が、本堂の隅々まで響いた。夢のさめたやうな宗右衛門の追想が打ち切られた。彼はあわてゝ眼を開いた。読経どきょうが始まらうとするのである。泰松寺の老師が、五六人の伴僧をしたがへて、しづ/\棺前に進み寄つた。宗右衛門は幾度も眼をしばだたいて老師のにび色の法衣をうしろから眺めた。老師の後頭部の薄い禿はげへ仏前の蝋燭ろうそくがちらちらとうつつた。宗右衛門はいつもならばひそかに得意の微笑をらすのである。老師は宗右衛門より三つ四つ年も若い。宗右衛門にはまだ白髪交しらがまじりでも禿はない。かなり名の知れた名僧でありながらいつも貧乏たらしいにび色の粗服で、何処どこかよぼよぼして見えるのが、無信心の宗右衛門にむしろ平常は滑稽こっけいにも思はれた。だが、今日の宗右衛門には老師のにび色姿が何となく尊く見える。
「不思議だな、俺も変つたわい」
 宗右衛門は腹の中で独り言つた。


 夏になつて二人の娘達はいよ/\美しかつた。片輪の身のあはれさが添つて、以前の美しさに一層清艶せいえんな陰影が添つた。が、今年もおそろひの派手な縮み浴衣ゆかたを着は着ても、最早もはやそのすそから玉のやうなかかとをこぼして蛍狩ほたるがりや庭のすずみには歩かなかつた。異様な醜いうづくまりをその下半身にかたちづくつて、二人は離れの居室にひつそりとしてゐた。退屈な悩ましい――しかしそれを口にはあまり出し合ひもせず、二人は美しいひたいの汗ばかりいてゐた。
「御覧あそばせな、今朝は紅が九つ、紫が六つ、絞りが四つと白が七つ、それから瑠璃るり色が……」
 老女が女によく磨いた真鍮しんちゅう耳盥みみだらい竹椽たけえんへ運ばせた。うてなからちぎり取られた紅、紫、瑠璃色、白、絞り咲きなどの朝顔の花が、幾十となくを抜いた小傘のやうに、たつぷり張つた耳盥の水面に浮んでゐる。この毎朝のたのしみを老女は若い頃の大名屋敷勤めの間に覚えた。
「あ、お旦那だんなが」
 小女が老婢ろうひの後で言つた。皆、水面に集まつてゐた眼をあげた。古いきびらを着た宗右衛門が母屋おもやへ通ふ庭の小径こみちをゆつくりと歩いて来る。
「お珍らしい」
 老女は顔をしわめて微笑した。
「まあ、お父様」
 おとなしいお小夜は、たゞうれしくなつかしかつた。にわかに居ずまひを直しにかゝつた。が、敏感なお里は何事か胸にこたへた。お里は、ぢつとしたまゝ黙つてゐた。前庭の一番大きな飛石の上に、宗右衛門は立つてさびしく微笑した。
「まあ、お珍らしい」
 老女はひたすら宗右衛門を座敷の方へ招じ入れようとした。
 今朝もまた、彼が見るごとに二人の娘の美しさは増して行つた。醜い下半部の反比例をますます上半身に現はすのではないか。皮肉の美しさを、ます/\宗右衛門は見せつけられる。美しい娘達の上半身を見る宗右衛門の苦痛は、醜い下半部を見る苦痛と変らなかつた。
 宗右衛門はこの苦痛の為めに、追々おいおい娘達の部屋を訪れなくなつたのであつた。母の無いのちの一層たよりない娘達をかえつて訪ねて来なくなつたのであつた。
「おとふ様、どう遊ばしました」
 お小夜が懐かしげに父親を仰いだ。
「どうも商売の方が忙しくてな。それにお母さんが亡くなつて、家の方もなにやかや……」
 ぢつと眼を伏せてゐるお里を見て、宗右衛門はだまつてしまつた。
「おう、朝顔が綺麗きれいだな」
 その耳盥みみだらいから少し視線を上げれば、そこにはお小夜の異様な脚部――宗右衛門はぞつとして、逆に老女の顔を見上げた。
「どうだな、二人とも毎日元気かな」
 宗右衛門は四日前の夕方、こゝを訪ねたきりであつた。娘達が忙しいお辻の手から育ての侍女の手に移つてこゝの離れみ始めて十何年間、朝夕二回の屋敷へくさ帰るさ、必ず宗右衛門はこの部屋へ立ち寄つた。時には夜ふけて寝酒の微酔でやつて来る時さへあつたのに、江戸への出入も店の商売もとかく怠り勝ちになつたといふ此頃このごろの忙しさとは何であるか、老女には判りねた。
「お旦那だんなが、このごろ、泰松寺へしげ/\行かれる」
 と店の者から、ちらと聞いたが、それにしても娘達に疎遠してまで、妻女の墓参にばかり行かれるとはうけとれなかつた。
「旦那様、泰松寺にまた、御普請でも始まりますか」
「いや何にもない」
 宗右衛門は何故なぜかあはてゝ老女の言葉を消した。
「お父様、お掛け遊ばせ」
 お小夜は小女に、麻の座布団をとらしてすゝめた。
「あゝ、ありがたう、かまはずにゐてれ、わしは直ぐまた出かけなけりやならない」
 宗右衛門が庭に面して縁端の座布団へすわつた時、始めて父親を見上げたお里の鋭い視線を横顔に感じた――
(何もかもお里は勘付かんづいてゐる)

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