ちくま日本文学全集 岡本かの子 |
筑摩書房 |
1992(平成4)年2月20日 |
1992(平成4)年2月20日初版 |
一
京都の嵐山の前を流れる大堰川には、雅びた渡月橋が架っています。その橋の東詰に臨川寺という寺があります。夢窓国師が中興の開山で、開山堂に国師の像が安置してあります。寺の前がすぐ大堰川の流で「梵鐘は清波を潜って翠巒に響く」という涼しい詩偈そのままの境域であります。
開山より何代目か経って、室町時代も末、この寺に三要という僧が住持をしていました。
禅寺では食事のとき、施餓鬼のため飯を一箸ずつ鉢からわきへ取除けておく。これを生飯と言うが、臨川寺ではこの生飯を川へ捨てる習慣になっていました。すると渡月橋上下六町の間、殺生禁断になっている川中では、平常から集り棲んでいた魚類が寄って来て生飯を喰べます。毎日の事ですから、魚の方ですっかり承知していて、寺の食事の鐘が鳴るともう前の淵へ集って来て待っています。
淵の魚へ食後の生飯を持って行って投げ与える役は、沙弥の昭青年でありました。年は十八。元は公卿の出ですが、子供の時から三要の手元に引取られて、坐禅学問を勉強しながら、高貴の客があるときには接待の給仕に出ます。髪はまだ下さないで、金襴、染絹の衣、腺病質のたちと見え、透き通るばかり青白い肌に、切り込み過ぎたかのようなはっきりした眼鼻立ち、男性的な鋭い美しさを持つ青年でした。寺へ引き取られたこどもの時分から、魚に餌をやりつけているので、魚の主なものは見覚えてしまい、友だちか兄弟のように馴染んでしまっていました。
五月のある日、しぶしぶ雨が降る昼でした。淵の魚はさぞ待っているだろうと、昭青年は網代笠を傘の代りにして淵へ生飯を持って行きました。川はすっかり霧で隠れて、やや晴れた方の空に亀山、小倉山の松の梢だけが墨絵になってにじみ出ていました。昭青年がいま水際に降りる岩石の階段に片足を下ろしかけたとき、その石の蔭になっている岸と水際との間の渚に、薄紅の色の一かたまりが横たわっているのが眼に入りました。瞳を凝らしてよく見ると、それが女の冠るかつぎであることが判り、それを冠ったまま、娘が一人倒れているのが判りました。昭青年は急いで川砂利の上へ飛び下り、娘の傍へ駈け寄って、抱き起しながら
「どうしたのですか」
と訊くと、娘は力無い声で、昨日から食事をしないので饑えに疲れ、水でも一口飲もうと、やっと渚まで来たが、いつの間にか気が遠くなってしまったというのでした。
「それじゃ、幸い、ここに鯉にやる生飯があります。これでもおあがりなさい」
鉢を差し出してやると、娘は嬉しそうに食べ、水を掬って来て飲ませると、娘はやっと元気を恢復した様子、そこで娘の身元ばなしが始まりました。
応仁の乱は細川勝元、山名宗全の両頭目の死によって一時、中央では小康を得たようなものの、戦禍はかえって四方へ撒き散された形となって、今度は地方地方で小競合いが始まりました。そこで細川方の領将も、山名方の領将も国元の様子が心配なので取る物も取りあえず京都から引返すという有様。
ここに細川方の幕僚で丹波を領している細川下野守教春も、その数に洩れず、急いで国元へ引返して行きました。教春の一人娘早百合姫は三年前、京都の戦禍がやや鎮まっていたとき、京都滞陣の父の館に呼び寄せられ、まだ十四歳の少女であったが、以来日々、茶の湯、学問、舞、鼓など師匠を取って勉強していました。今年十七の春父が急いで国元へ引返す際、彼はすぐに騒ぎを打ち鎮めて京へ帰れる見込みで、留守の館には姫の従者として男女一人ずつ残しておきました。もっとも生活費は剰るほど充分残して行きました。
ところが、それからだんだん国元の様子が父に不利になって来て、近頃ではまるっきり音沙汰もありません。噂には一族郎党、ほとんど全滅だとの事です。すると、早百合姫に附添っていた家来の男女は、薄情なもので、両人諜し合せ、館も人手に売渡し、金目のものは残らず浚ってどこかへ逃亡してしまいました。
父の行方の心配、都に小娘一人住みの危うさ、とうとう姫も決心して国元へ帰ろうとほとんど路銀も持たずただ一人、この街道を踏み出して来たのでした。しかし、旅支度さえ充分でない上にすぐと悪漢達に追いかけられたりして、姫は全く不安と饑えとで、疲れ果ててしまったのでした。
姫は言い終ってさめざめと泣きました。
「せっかく、救けて頂いたようなものの、行先の覚束なさ、途中の難儀、もう一足も踏み出す勇気はございません。いっそこの川へ身を投げて死にとうございます」
またさめざめと泣き続けます。昭青年はこれを聴いて腸を掻き毟られるような思いをしました。そして、彼女を救う一番いい方法は、寺へ頼んでしばらく国元の様子の判るまで置いてもらうことだと思いましたが、乱世の慣わし、同じような悲運な事情で寺へ泣付いて来る者がたくさんあって、それをいちいち受容れていたのでは寺が堪りません。まして女人の身、いっそう都合が悪いのです。寺で断られるのは知れ切ったこと。しかたなく昭青年は言いました。
「まあ、生きておいでなさい。どうにかなりましょう。食事は私が粗末ながら運んで来ますから、しばらくこの辺のどこかに忍んでおいでなさい。人に見付からぬように」
昭青年だとて、先にあてがあるわけではありませんが、差当って今の取り做し方としては、これ以外に無かったのでした。あたりを見廻すと、幸い、苫で四方を包んだ船がある。将軍が大堰川へ船遊びの際、伴船に使う屋根船で、めったに人の手に触れません。昭青年は苫を破り分けて早百合姫をその中へ入るよう促しました。
姫はさほど有難いとも思わぬ様子でしたが、それでも嫌とは言わず、船の中へ隠れました。そして言いました。
「淋しいから食事の時以外にもなるたけ、ちょいちょい訪ねて来て下さいましね」
二
寺の人達の間にこんな噂が出るようになりました。
「どうもこの頃、昭沙弥は、生飯をやると言っちゃ日に五六遍も、そわそわ川へ行く。あんまり鯉に馴染がつき過ぎて鯉に魅せられたのではないか」
「その癖、淵の鯉は、斎の鐘を聴いてもこの頃は集って来んようだ。わしは気を付けて行って見るが確かにそうだ」
「それは変だな」「変だ」「変だ」と噂し合うようになりました。それはそのはずです。せっかくの生飯も、昭青年は苫船の中の美しい姫にやってしまうので、淵の鯉は、いつも待ち呆けです。しまいには諦めて鯉達は斎の鐘に集らなくなりました。噂が耳に入るほど余計に昭青年は用心します。隙を覗い折を見ては苫船へ通います。その度に自分が貰った菓子、果物など、食べた振りをして袖に忍ばせ、姫にそっと持って行ってやります。そうこうするうち日も移って、梅雨もすっかり明けた真夏の頃となりました。
片方は十八の青年、片方は十七の乙女。二人は外界をみな敵にして秘密の中で出会うのです。自然と恋が芽生えて来たのも当然です。
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