世界紀行文学全集 第七巻 ドイツ編 |
修道社 |
1959(昭和34)年8月20日 |
1959(昭和34)年8月20日 |
1959(昭和34)年8月20日 |
伯林カイザー街の古い大アパートに棲んで居た冬のことです。外には雪が降りに降っていました。内では天井に大煙突の抜けているストーヴでどんどん薪をくべていました。電車の地響と自動車の笛の音ばかりで、街には犬も声を立てて居ない、積雪に静まり返った真昼時でした。玄関の扉をはげしく叩く音――この降るのに誰がまあ、」と思いながら扉を開くと、どやどやと三人ばかり入って来たのは青年、壮年、老年を混ぜて三人の労働者達でした。
――わたし達、室内電線を修繕しに来ました。」
にこやかなものです。だしぬけなので一寸驚いた私も、直ぐ気を取り直して奥の方へ案内しました。私は伯林へ来るなり(私が伯林へはいったのは、その夏の始めでした)伯林の労働者に好感を持ったのでした。彼等の多くは実に無邪気で明るい。トラックの上にかたまって乗っている労働者達が異国人の私達に笑いかけながら手を振って通り過ぎる情景などに幾度接したかわかりませんでした。で、機会のある毎に私達は、この勤労生活を善意に受けている可憐な人々に好意を見せ、かりにも他国人らしい警戒の素振りなど見せたことはありませんでした。その労働者達の服装も一見むさぐるしいが、よく見ればやはり独逸人の克明な清潔さがはっきり見えます。――即ち彼等の妻や娘らによって、よく洗濯されてあり、よく継ぎはぎされてあります。
電線修繕の仕事が終りました。外はまだどんどん雪の降っているのが窓から見えます。労働者達は私が毛皮の敷物をすすめると素直にその上へ坐り、ストーヴにあたり始めました。生憎二三日来風邪をひいて居て女中は欠勤して居りました。主人はずっと向うの部屋で日本の新聞へ送る画を描き耽って居りました。私は一人でお茶を沸かして彼等にすすめました。
――煙草をあげましょうか、日本のたばこ。」
と私は主人の居る方へ敷島でも採りに行こうかと立ちかかりました。するとそのなかの壮年の方が
――煙草はいりません。その代り日本のお嬢さん(西洋人には東洋人の年齢がわかりにくいのです)あなた日本の歌を唱って聴かせて下さい。」
――日本でも歌をうたいますかね、お嬢さん。」
と老人が如何にももの軟らかに尋ねる。私は坐り直して彼等の申出を直ぐ聞き届けてやりました。私はみんなに眼を瞑って居て貰って、カチューシャを声を顫わせない日本流に唱った。すると青年の方が、それは露西亜風だと言った。流石音楽国の独逸人だと感心しました。それから私は今度は純日本の歌だと証明して置いて「どんと、どんとどんと、濤乗り越えて―」を唱った。すると壮年の方はまた言いました。
――それはお嬢さん、男の学生風の歌ですね。私のお望みするのは、日本の女の……つまりお嬢さん方が平生おうたいになる歌です。」
ああそうかと、私は心にうなずいて今度は尚々、単純な声調で、
さくら、さくら、弥生の空は、見渡す限り。かすみか雲か、においぞ出ずる。いざや、いざや、見に行かん。
と唄って聞かせた。彼等は嬉んで立上った。何という上品で甘やかなメロデーだと賞めそやしました。「仲間にも話して聞かせる」と御礼を言いながら工事道具を肩にかけた。そしてひとしく雪のどんどん降りしきる窓の外に眼をやりながら玄関の扉の方へ出て行った。と、
今迄無口だった青年が立ちどまって更めて私に懇願の眼を向けました。
――切手を、日本の郵便切手を一枚下さい。世界中のを集めています」
と言うのでありました。激しい労働生活で節くれ立った彼の愛すべき掌へ、私は故国から来た親愛なる手紙の封書の切手を何枚もはがして乗せてやりました。
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