なんといふ趣のある招待の言葉だらう。そして決闘以外にこの言葉を生かして使ふ途は無い。フランスに於ては言葉が先に生れて事実はあとを追馳けることが往々ある。ちやうど作者が台詞を先に思ひついてそれを言はせるために人間をあとからこしらへるやうなものだ。それほどフランスの言葉は処女受胎性を持つてゐる。事象の夫の世話を藉りずにどし/\表現の世継ぎを生むからである。この説明と関係があるかどうか知らんがわたしはかね/″\わたしの国の決闘の言葉の美しさに魅入られてゐた。一度はぜひ使つて見たいと思つてゐた。この言葉に二重の軽蔑の美しさがあつた。一つは敵の勇気に対して、一つは自分のいのちに対して――。そしてこの軽蔑の美しさほどわれ/\滅びる青い血の人種の好みに適ふものは無い。またこの言葉に軽蔑の礼儀を持つてゐる。
さいはひそこに争ひが出来た。事件は貴婦人に就いてだ。今になつて考へて見るとわたしの前にヴ※[#「小書き片仮名ヱ」、206-11]ベルとロスタンの事件が無かつたらわたしはそれを決行まで運ばせなかつたかも知れない。なぜなら相手は黒ん坊だつたからだ。だが前の二人の事件は次のやうな理由でわたしを動かした。ロスタンの『時代を間違へるな、ばかは止せ。』といふ言葉がわたしを動かした。一たいわたしの血管には弁膜が無いらしい。それでよくわたしの血は他人の血の流れと反対になる。ロスタンは言つた『時代を間違へるな。』わたしは云はう『時代を間違へよう。』ロスタンは云つた『ばかは止せ。』わたしはいはう『馬鹿こそせよ。』
彼等が決闘を未遂に終らせたことはとりも直さずわたしに決闘を仕遂げさすことであつた。黒ん坊との決闘は貴族の恥辱だらう。だが彼を措いて誰が今日決闘の相手になんぞなつてくれよう。この期をはづしてはまたとわたしの生涯にあの美しい招待の言葉を生かす機があらうか。
ジャンチリイの崩れた城壁の蔭でわたしは黒ん坊と向き合つた。彼は名のある力業師だつた。彼はゴムのやうな肉体を抱へてゐた。それによつて巴里の貴婦人達は歯を楽しまされ始めてゐた。
歯による恋愛――彼はそれを西南の竜舌蘭の蔭から巴里へ移入した。
青い血と黒い血とは剣を持つて睨み合つた。その頃、青い血を駆逐する社会上の敵は黄色の血の流れる成上り者だつた。だが巴里の客間で青い血の人気を奪ひつゝあるものはこの黒い血の連中だつた。わたしは彼を同族の公敵と認めた。わたしの剣に力が籠る。
いくら剣法を知らない力業師であるにしてもああもたやすく彼がわたしに負けるとは思はなかつた。太刀の二当、三当もしないうちに彼の黒い横頬が赤く笑つた。彼は剣を投げ出して『感謝に堪へませぬ。』と云つた。
秘密は直ぐに判つた。彼はわたしとの決闘を看板にしてヨーロッパを興行し廻るのだつた。辻のビラには『ボニ侯爵』の名前が、彼の名前より大きく刷られてあつた。
わたしは負けた。やつぱり時代に負けたのだつた。」
サン・ジ※[#「小書き片仮名ヱ」、209-4]ルマン・デ・プレの鐘が鳴つた。巴里の寺のなかでも古いこの寺の鐘は、水へ砂金を流し込むやうに大気の底を底をと慕つて響いた。響くよりすぐ染みついた。淡雪は水になつた。窓々の扉が開く。頬張つて朝のパンを食ふ平凡な午前九時が来て太陽はレデー・メードになる。侯爵は立上つて一九三一年の冬に身震ひした。
「まだアンナと一緒にゐた時なのでこの事件からしばらく官憲を憚つてアンナと亜米利加に渡つた。すぐ飽きた。侯爵を珍しがり裏から表からしつこく見ようとするこの国の上流社会はうるさいばかりでなくわたしの心の皮膚を荒した。わたしは心の皮膚を大事にする。前侯爵夫人の名とヴァン・ドンゲンが描いたわたしの肖像をアンナに残してわたしはとう/\亜米利加から巴里へ帰つた。久しぶりで巴里へ帰り着いたとき例のめつたにこぼれないわたしの涙が出た。わたしの滅びの最後を待ちうけてゐてくれる所は巴里よりほかに無い筈だつた。アンナとはポトマック河べりの散歩の途中で別れたのだ。
『さやうなら、ではその傘を頂戴。』
これがアンナが訣れる最後に私に云つた言葉だつた。わたしは脇の下に挟んだ彼女の七色織の日傘の畳目にキッスして彼女に返した。彼女は威勢よくその日傘を拡げると手を愛想に振りながら待たしてあつたモーター・ボートに乗つた。浪が揺れた。それきりわたしは彼女に会はない。噂によるとちかごろ彼女は欧羅巴の小国のプランセスの位置を狙つてゐるさうだ。これがこのごろ金のある亜米利加女の発達した慾望ださうだ。
わたしは芸術を愛した。ずゐぶん芸術家を保護した。しかし、いくら世辞ですすめられても素人のくせに俳優を指揮したり俳優の本読みするやうな猪口才な真似は決してしなかつた。それといふのもわたしに一つの自信があつたからだ。わたしはさういふことを勧める人にかう答へた。『わたしも立派な芸術を持つてゐますよ。とてもあなた方にお出来になりますまい。それは消費の芸術といふものです。』するとその人は余儀なささうにうなづくのであつた。しかし、なほうなづきかねた人にはわたしはかう説明した。『わたしは金のある十一年間に一さい偶然の力を藉りずにほぼ見込みどほりわたしの運命を表現しました。たぶんわたしはリアリズムの大家でせう。酔はずに零落の途を見詰めて来た勇気の点に於てね。』ここまで言ひ切れば大概の人は返す言葉が無かつた。
事実、わたしは滅びる目的に成功してこの古い由緒ある家も、愛する広い庭も完全に人手に渡つてゐる。わたしに残つてゐるものはグレー・ハウンドの犬一疋と紋章旗だけだ。わたしの肉体とても婦人の病気以外には殆どあらゆる病の餌食として与へてしまつたと云つても宜い。わたしの待つた消滅の薫りが馥郁としてわたしの骨に匂ひ出した。わたしは生涯働かなかつたといふことを思ひ出に漂ふ空無の海に紫の海月となつて泳ぎ出るのだ。完成された階級にただ一つ残つた必至の垣を今こそ躍り越えるのだ。日よ、月よ、森よ、化粧の女よ。さらば――わけて、アンナと巴里にはよろしく――。」
つひに張り詰めたボニ侯爵の声はのんびり日常生活と番ひ始めた巴里の昼まへの時間に対して調和が取れなかつた。けれどもその声があまりに真剣なので自殺でもするのかと思へばさうはしなかつた。彼は朝の気分の宜い時に毎日かうして遺言の練習をするのであつた。彼は犬小屋できゆう/\鳴いてゐるグレー・ハウンドを引出してちよつとブラシュをかけ、それからそれを連れて牛乳を買ひに街へ出た。彼の足は蓮根のやうに細つてゐるがまだ歩調はしつかりして居る。庭門をくぐるとき彼は思ひ出したやうにまた云つた。
「フランス貴族といつても本物と擬ひとあることを弁へて貰ひたいものだ。一つはわれ/\のやうな由緒ある正銘の貴族だが、一つはナポレオンがむやみに製造した田舎貴族だ。こいつらの先祖は百姓か職人だからその子孫も握手して見れば判る。掌に胼胝の痕が遺つてゐるさ。」
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「小書き片仮名ヱ」 |
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203-14、206-13、206-11、209-4 |
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