日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
岡本かの子全集 |
冬樹社 |
1975(昭和49)年発行 |
遅い朝日が白み初めた。
木琴入りの時計が午前七時を打つ。ヴァルコンの扉が開く。
「フランスの貴族でアメリカ女の金持と政策結婚をした始めての人間はわしだつたのさ。」
さう云ひながらボニ侯爵は軽騎兵の服を型取つた古い部屋着のまま中庭の雪へ下りて行つた。雪は深かつた。もう止んでゐた。
「それからアメリカとフランスとの間にそれが流行となつて活動女優のグロリア・スワンソンまでがラ・ファレイズ侯爵と結婚するやうになつたのさ。」
侯爵はそこで体を屈めた。指で雪を掬ひ上げてぢつと見詰めた。それから手首を外側へしなはせると雪片は払ふまでもなく落ちた。
「実際フランスの貴族といふものは世界中で一番完成した人間だらう。その証拠にはあらゆる理解と才能を備へてゐてたつた一つ働くことが出来ないことだ。歴史を見ても判る。その階級として最高の完成に達した人間はみなこの通りだ。」
そこにロココ風の隠れ家式の小亭がある。侯爵は枯蔦をひいて廂の雪を落した。家のなかに寝てゐた薄闇が匂ひもののやうに大気へ潤染んで散る。腰嵌めの葡萄蔓の金唐草に朝の光がまぶしく射す。侯爵は座板に腰掛けずにそのまま入口の柱に凭れた。背中が羅紗地を距ててニンフの浮彫にさはる。
「その人間は美しく滅びるよりほかあるまい。完成を味ひつつ消去るよりほかはあるまい。Le monde se meurt. Le monde est mort.(地球は自殺する。地球は死である。)まつたくわたし達にはうつてつけの言葉だ。だが、世間にはまた働く貴族といふ者があるにはある。五ヶ国語を話してトーマス・クックの案内人を勤める伊太利男爵もあれば刺繍とピアノを教へる嫁入学校を拵へて一儲けする波蘭伯爵もある。しかし、それは地球の自殺の仕損じと同じものだ。結局灰滅は時期の問題だ。」
侯爵はここで少し笑つた。フォウブルグ・サン・ジ※[#「小書き片仮名ヱ」、203-14]ルマンの丈の高い屋敷町に取籠められたこの庭でたつた一人がどんなに笑ふとしたところで周囲の朝寝を妨げはしない。まして侯爵の笑ひは淡々として水に落ちる雫のやうだ。波紋もさう遠くへ送る力は無い。
「そこで金だ。滅びる支度の金だ。いのちを享楽のしめ木にかけ、いのちを消費の火に燃す支度の金だ。アンナは金持だつた。瑪瑙の万年筆で小切手を落書のやうに書いた。アンナのほかのことには心を惹かれなかつたが小切手を書く速さに心を惹かれた。結婚期限は五年ではいかゞ。『侯爵夫人』をあなたの帽子の鳥毛に使つてみてはいかが。この申出が果してフランス貴族の恥辱であらうか。働くことはフランス貴族の恥辱だが貸すことは名誉だ。わたしはわたしのタイトルを五年期限で賃貸することを申出た。
それはフォンテンブローの森へ団体で遠乗りした帰りだつた。二人が仲間から遅れて別荘町を外れかかつた時だつた。道端の垣にリラの花が枝垂れてゐた。わたしの申出を聴いた時の彼女の返事を今でも覚えてゐる。彼女は右手を後鞍に廻してまともにわたしを振り向いて云つた。『承知よ。そしてしあはせにもあなたは様子もよし――』
わたしの滅びの支度は出来た。わたしの祖先伝来であつてそしてわたし一代で使ひつくすべきあらゆる才能とあらゆる教養とに点火する時が来た。わたしは躊躇しなかつた。ボア・ド・ブウロニュ街の薔薇いろの大理石の館、人知れぬロアル河べりの蘆の中の城、ニースの浪に繋ぐ快走船、縞の外套を着た競馬の馬、その他の数々の芸術品を彼女とわたしとはいのちを消費する享楽の道づれとして用意した。人はわたしのこれ等の準備を見て或ひは月並の贅沢であると笑ふかも知れない。だが月並の表面を行かないでこそ/\贅沢の裏へ抜けるといふことはわれ/\の執らないところである。いはゆる粋人がすることである。粋人にはなりたくないものだ。粋人といふものは贅沢の情夫ではあつても贅沢の正妻ではあり得ない。彼等は贅沢と正式に結婚する費用と時間と無駄を惜しむ。われわれは惜まない。月並そのものがいかにわれわれの趣味に対して無益であり徒労であると十分承知しながら、黙つてそれをやる。月並は遊びに奉仕する人の一度は払ふべき税だ。基礎教育だ。われわれは遊びに対して速成科を望まない。速成科といふものは働いて急いで金を儲けようとする思想の人間が起した後の教育法だ。たぶんあの産業改革が発明した殺風景の中の一つだらう。」
ふはりと隣家の破風を掠めて鴎が一つ浮いて出た。青み初めた空から太陽がわづかに赤い鱗を振り落した。まじめな朝が若い暁と交代する。
セーヌの鴎はやつぱり身体の中心を河へ置いて来たといふ格好で戻つて行くのをすねるやうに庭の池が睨み上げる。石楠花の雪が一ばんさきに雫になりかけた。
侯爵は鴎の影がなくなつたのでまた安心して樺色の実に嘴を入れ出した小鵯に眼をやりながら言葉を続ける。
「五年間はアンナの金でアンナと一緒に、そして次の六年間は訣れた後のわたしのためにアンナがわたしにくれた金で、わたしはわたしを遺憾なく燃した。惚れるべき女優には花束を持つて惚れに行つた。騙さるべき踊り子には指環を抜くがままに抜かした。シャンパンは葡萄畑を買ひ取つて自園の酒をこしらへた。スヰスから生きた山鱒を運ばして客に眼の前で料理して馳走した。一度変つた象棋をさしたことがある。それは象棋盤の上へ駒の代りに女を並べさしたことだ。もちろん駒が大きいから象棋盤も特別誂へだ。わたしが首尾よく敵陣に攻め入つた時に、女達は歩調を取りながら勇んで奏楽に合せてマルセエズを唄つてくれた。わたしは涙がこぼれた。わたしの生活にはめつたにこぼさない涙だ。何の涙だらうか。わたしの涙は人が泣きさうな時にはめつたにこぼれないで何でも無いやうな時に不意にこぼれて来る。その時の駒の女の一人が今ブヱイの通りの塗物屋の女房に片づいて黒くなつて働いてゐる。ここからは近いのでわたしは何ごころなくそれを見に行く。栄華に対する未練では無い、ただ見るものとして眼に柔いからだ。」
小鵯も飛んで行つて仕舞つた。日のあたたかみで淡雪の上つらがつぶやく音を立てながら溶け始めた。侯爵の背中にニンフの浮彫が喰ひ込み過ぎた。彼はそこではじめて腰板に腰を下す。
「俗謡作家のピヱール・ヴ※[#「小書き片仮名ヱ」、206-13]ベルが怒つたことがあつて劇作家のモウリス・ロスタンに決闘を申込んだ。話すほどのことでも無いつまらぬ原因でだ。しかし、ロスタンは振向きもしなかつた。――時代を間違へるな。馬鹿はよせ――この返事でたちまち決闘は流れて仕舞つた。おそらく巴里で決闘といふものが本気に口にされたのはこれが最後になるだらうといふ評判だつた。ところがわたしはこの最後にもう一つの最後を附け加へた。しかも実行でだ。
『ピストルか、剣か、二つに一つ。そして、コーヒーは一つ。』
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