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母子叙情(ぼしじょじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 8:12:25  点击:  切换到繁體中文



  ほうほうほけきょの
  うぐいすよ、うぐいすよ
  たまたま都へ上るとて上るとて
  梅の小枝で昼寝して昼寝して
  赤坂奴(やっこ)の夢を見た夢を見た。

 かの女はこういうことは案外器用であった。手首からすぐ丸い掌がつき、掌から申訳ばかりの蘆(あし)の芽のような指先が出ているかの女のこどものような手が、意外に翩翻(へんぽん)と翻(ひるがえ)って、唄(うた)につれ毬をつき弾ませ、毬を手の甲に受け留める手際は、西洋人には珍しいに違いなかった。
「オオ! 曲芸(シルク)!」
 彼等は厳粛な顔をしてかの女のつく手を瞠(みい)った。
 かの女はまた、毬をつき毬唄を唄っている間に、ふと、こんなことを思い泛(うか)べた。毬一つ買ってやれず、むす子を遊ばせ兼ねたむかし、そして、むす子が二十になって、今むす子とその友達のために毬唄をうたう自分。憎い運命、いじらしい運命、そしてまたいつのときにかこの子のために毬をつかれることやら――恐らく、これが最後でもあろうか。すると、声がだんだん曇って来て、涙を見せまいとするかの女の顔が自然とうつ向いて来た。
 むす子は軽く角笛に唇を宛(あ)て、かの女を見守っていた。
 女たちが代って覚束(おぼつか)なく毬をつき習ううち、夜は白々と明けて来た。窓越しにマロニエの街路樹の影が、銀灰色の暁の街の空気から徐々に浮き出して来た。
 室内の人工の灯りが徐々に流れ込んで、部屋を浸す暁の光線と中和すると、妙に精の抜けた白茶けた超現実の世界に器物や光景を彩り、人々は影を失った鉛の片(きれ)のようにひらぺたく見える。
 かの女は今ここに集まった男女が遊び女であれ、やくざ男であれ、自分の巴里(パリ)を去った後に、むす子の名を呼びかけて呉(く)れるものは、これ等の人々であるのを想(おも)えば、なつかしさが込み上げて来る。かの女は儚(はかな)い幻影に生ける意志を注ぎ込むような必死な眼差(まなざ)しで、これ等の人々を見渡した。


 或る夜のかの女――今夜もかの女は逸作と銀座に来てモナミのテーブルに坐(すわ)っていたが、三四十分で椅子(いす)から立ち上った。
「さあ、行きましょう。外が大ぶ賑(にぎ)やかになりましたわ」
 逸作は黙って笑いながら、かの女のだらしなく忘れて行く化粧鞄を取って後に従(つ)いて出た。
 瞬き盛りの銀座のネオンは、電車通の狭谷を取り籠(こ)めて四方から咲き下す崖(がけ)の花畑のようだ。また、谷に人を追い込めて、脅かし誑(たぶら)かす妖精群のようにも見えた。
 目をつけるとその一人一人に特色があって、そしてまた、特にこれが華やかとも思えない男女が、むらな雨雲のように押し合って塊ったり、意味なく途切れたりしつつ、大体の上では、町並の側と車道の側との二流れに分れて、さらさらと擦れ違って行く。すると、それがいかにも歓(よろこ)びに溢(あふ)れ、青春を持て剰(あま)している食後の夜の町のプロムナードの人種になって、特に銀座以外には見られぬ人種になって、上品で綺羅(きら)びやかな長蛇のような帯陣をなして流れて行く。
「やあ」
「よう!」
「うまくやってる」
「どうしたん?」
「しばらく」
 きれぎれに投げ散らされるブールヴァル言葉が、足音のざわめきにタクトされつつ、しきりなしに乱れ飛ぶ。扇屋、食料品店、毛皮店、組紐屋(くみひもや)、化粧品屋、額縁店等々の店頭の灯が人通りを燦めかせつつ、ときどきの人の絶え間に、さっとペーヴメントの上へ剰り水のように投げ出される。
 いつか、人混の中へ織り込まれていたかの女は、前後の動きの中に入って却(かえ)って落着いた。「藻掻(もが)いてもしようがない。随(つ)いて行くまでだ」都会人に取って人混は運命のような支配力を持っていた。薄靄(うすもや)を生海苔(なまのり)のように町の空に引き伸して高い星を明滅させている暖かい東南風が一吹き強く頬(ほお)に感ずると、かの女は、新橋際まで行ってそこから車に乗り、早く家へ帰り度(た)いというさっきからの気持は、人ごとのように縁の遠いものとなり、くるりと京橋の方へ向き直り、風の流れに送られて、群衆の方向に逆いながらまたそろそろ歩き出した。
 思考力をすっかり内部へ追い込んでしまったあとの、放漫なかの女の皮膚は、単純に反射的になっていて、湿気(しっけ)た風を真向きに顔へ当てることを嫌う理由だけでも、かの女にこんな動き方をさせた。
 本能そのもののようにデリケートで、しかし根強い力で動くかの女の無批判な行動を、逸作はふだんから好奇の眼で眺め、なるべく妨げないようにしていた。それで、かの女の転回を注意深く眼で追いながら、柳の根方でポケットから煙草(たばこ)を取り出して火を喫(す)いつけ、それから游(およ)ぐ子を監視する水泳教師のように、微笑を泛べながら二三間後を離れて随いて行った。
 無意志で歩いているかの女も、さすがにときどきは人に肩を衝(つ)かれ、またぱったり出会って同じ除(よ)け方をして立竦(たちすく)み合う逆コースを、だんだん煩わしく感じて来た。いつか左側の店並の往きの人の流れに織り込まれていた。すると同じ頃合いに、逆コースから順コースの人込みに移ったらしい学生の後姿が五六のまばらの人を距(へだ)てて、かの女の眼の前にぽっかり新しく泛んだ。
「あっ、一郎」
 かの女は危く叫びそうになって、屹(きっ)と心を引締めると、身体の中で全神経が酢を浴びたような気持がした。次に咽喉(のど)の辺から下頬が赫(あか)くなった。
 何とむす子の一郎によく似た青年だろう。小柄でいながら確(しっか)りした肉付の背中を持っていて、稍々(やや)左肩を聳(そび)やかし、細(ほっ)そりした頸(くび)から顔をうつ向き加減に前へ少し乗り出させながら、とっとと歩いて行く。無造作に冠(かぶ)った学生帽のうしろから少しはみ出た素直な子供ぽい盆の窪(くぼ)の垂毛まで、一郎に何とよく似た青年だろう。すると、もう、むす子特有のしなやかで熱いあの体温までが、サージの服地にふれたら直(す)ぐにも感じられるように思われた。
 かの女の神経は、嘘(うそ)と知りつつ、自由で寛闊(かんかつ)になり、そしてわくわくとのぼせて行った。
「パパ、一郎が……ううん、あの男の児が……そっくりなの一郎に……パパ……」
「うん、うん」
「あの子にすこし、随いてって好い?」
「うん」
「パパも来て……」
「うん」
 かの女は忙しく逸作に馳け寄ってこういう間も、眼は少年の後姿から離さず、また忙しく逸作から離れ、逸作より早足に少年の跡を追った。
 美術学校の帰りにむす子は友達と、ときどきモナミへ来て、元気な画論なぞした。そして出て行ったあと、偶然すぐかの女たちがそこへ入って行くと、馴染(なじみ)のボーイは急いで言った。
「坊ちゃんが、坊ちゃんが、いますぐ、出て行かれました。間に合いますよ」
 むす子の気配が移ったように、ボーイ達も明るく元気な声を出した。
 格別呼び返すほどのことも無いと思いながら、やっぱりかの女は駆けて往来へ出て見る。友達と簡単な挨拶(あいさつ)を交して、とっとと家路へ急ぐ、むす子の後姿が向うに見えた。かの女はあわてて呼び返した。
 むす子は表通りの人中で家の者に会うと、ちょっと気まりの悪い顔をして、ろくな挨拶もしなかった。それでいて、なつかしそうな眼つきをちらりと見せた。
 わけて彼女と人中で会うのは苦手らしかった。かの女の方もどうかしてか、とても気まり悪かった。それで、「へへん」と田舎娘のような笑い方をして、まじまじむす子を見入っていると、むす子は眼を外らし、唇の笑いを歯で噛(か)んでいった。
「また、羽織を曲げて着てますね。だらしのない」
 これがかの女に対する肉親の情の示し方だった。
 むす子はかの女と連れ立って歩くときに、ときどき焦(じ)れて「遅いなあ、僕先へ行きますよ」と、とっとと歩いて行く。そして十間ばかり先で佇(たたず)んで知らん顔で待ち受けていた。
 むす子は稍々(やや)内足で学生靴を逞(たくま)しくペーヴメントに擦(こす)り叩(たた)きながら、とっとと足ののろい母親を置いて行く。ラッパズボンの後襞(うしろひだ)が小憎らしい。それは内股から外股へ踏み運ぶ脚につれて、互い違いに太いズボン口へ向けて削(そ)ぎ下った。
「薄情、馬鹿、生意気、恩知らず――」
 こんな悪たれを胸の中に沸き立たせながら、小走りになってむす子を追いかけて行くとき、かの女の焦(いら)だたしくも不思議に嬉(うれ)しい気持。
 今一二間先に行く青年の足は、それほどの速さではないが、やはりかの女がときどき小走りを加えて歩かなければ、すぐ距離は延びそうだった。そして小走りの速度がむす子を追うときのピッチと同じほどになると、不思議にむす子を追うときの焦々した嬉しさがこみ上げて来て、かの女は眼に薄い涙を浮べた。
 かの女は感覚に誑(たぶらか)されていると知りつつも、青年のあとを追いながら明るい淋しい楽しい気持になるのをどうにも仕様がなかった。
 その青年は、むす子が熱心に覗(のぞ)くであろう筈(はず)の新しい縞柄(しまがら)が飾ってある洋服地店のショウウインドウや、新古典の図案の電気器具の並んでいるショウウインドウは気にもかけずに、さっさと行き過ぎた。その代り食物屋の軒電灯の集まっている暗い路地の人影を気にしたり、カフェの入口の棕梠竹(しゅろだけ)を無慈悲に毟(むし)り取ったりした。それがどうやら田舎臭い感じを与えて、かの女に失望の影をさしかけた。高い暗い建物の下を通るときは、青年はやや立ち止って一々敵対するように見上げた。横町を越す度毎に、人の塊と一緒に待ち合して通らず、一人ゆっくり横柄に自動車のヘッドライトの中を歩いて自動車の警笛を焦立たせた。かの女はその度に、
「よして呉(く)れればいいに、野蛮な」
と胸で呟(つぶや)き、そしてそのあとに、一郎とわざと口に出して呟いた。その人でない俤(おもかげ)をその人として夢みて行き度(た)い願いは、なかなか絶ち難い。
 左右の電車線路を眺め渡して、越すときだけ彼女を庇(かば)うように片手を背後に添えていた逸作は、かの女がまるで夢遊病者のようになって「似てるのよ、あの子一郎に似てるのよ」などと呟きながら、どこまでも青年のあとに随(つ)き、なおも銀座東側の夜店の並ぶ雑沓(ざっとう)の人混へ紛れ入って行くのを見て、「少し諄(くど)い」と思った。しかし「珍しい女だ」とも思った。そして、かの女のこのロマン性によればこそ、随分億劫(おっくう)な世界一周も一緒にやり通し、だんだん人生に残り惜しいものも無くなったような経験も見聞も重ねて、今はどっちへ行ってもよいような身軽な気持だ。それに較(くら)べて、いつまでも処女性を持ち、いつになっても感情のまま驀地(まっしぐら)に行くかの女の姿を見ると、何となく人生の水先案内のようにも感じられた。そこでまた柳の根方に片足かけ、やおら二本目の煙草(たばこ)を喫(す)ってから、見残した芝居の幕のあとを見届ける気持で、半町ほど距(へだた)った人混の中のかの女を追った。
 銀座の西側に較(くら)べて東側の歩道は、東京の下町の匂(にお)いが強かった。柳の青い幹に電灯の導線をくねらせて並んで出ている夜店が、縁日らしいくだけた感じを与えた。込み合う雑沓の人々も、角袖(かくそで)の外套(がいとう)や手柄(てがら)をかけた日本髷(にほんまげ)や下町風の男女が、目立って交っていた。
 人混を縫って歩きながら夜店の側に立ち止ったり、青年の進み方は不規則で乱調子になって来た。そして銀座の散歩も、もう歩き足り、見物し足りた気怠(けだ)るさを、落した肩と引きずる靴の足元に見せはじめた。けれども青年はもっと散歩の興味を続け、又は、より以上の興味を求め度いらしく、ズボンのポケットへ突込んだ両手で上着をぐっとこね上げ、粗暴で悠々した態度で、街を漁(あさ)り進んだ。
 歩き方が乱調子になって来た青年の姿を見失うまいとして、かの女は嫌でも青年に近く随いて歩かねばならなかった。そして人だかりのしている夜店は意地になっても見落すまいとして、行き過ぎたのを小戻りさえする青年の近くにうろうろする洋装で童顔のかの女が、青年にだんだん意識されて来た。青年は行人を顧みるような素振りを装いながら、かの女の人柄や風態を見計うことを度々繰り返すようになった。
 離れて彼女を援護して行く逸作の方が、先に青年の企(たくら)みある行動を気取って、おかしいなと思った。しかし、かの女はすっかり青年の擬装の態度に欺かれて、人事のようにすましてただ立ち止っていた。たまたま閃(ひらめ)きかける青年の眼差(まなざ)しに自分の眼がぶつかると、見つけられてはならないと、あわてて後方へ歩き返した。
 青年のまともの顔が見られる度に、かの女は一剥(ひとは)ぎずつ夢を剥がれて行った。それはむす子とは全然面影の型の違った美青年だった。蒸気(むしけ)の陽気に暑がって阿弥陀(あみだ)冠(かぶ)りに抜き上げた帽子の高庇(たかびさし)の下から、青年の丸い広い額が現われ出すと、むす子に似た高い顎骨(あごぼね)も、やや削げた頬肉(ほおにく)も、つんもりした細く丸い顎も、忽(たちま)ち額の下へかっちり纏(まとま)ってしまって、セントヘレナのナポレオンを蕾(つぼみ)にしたような駿敏(しゅんびん)な顔になった。張って青味のさした両眼に、ムリロの描いた少女のような色っぽい露が溜(たま)っていた。今は唇さえ熱く赤々と感じられて来た。
「なんという間違いをしたものだろう」
 むす子に対する憧れが突然思いもかけぬ胸の中の別の個所から厳粛というほどの真率さでもって突き上げてきた。そしてその感情と、この眼の前の媚(なまめ)かしい青年に対する感覚だけの快さとが心の中に触れ合うと、まるで神経が感電したようにじりり[#「じりり」に傍点]と震え痺(しび)れ、石灰の中へ投げ飛ばされたような、白く爛(ただ)れた自己嫌悪に陥った。
 かの女は目も眩(くら)むほど不快の気持に堪えて歩いて行くと、やがて二つの感情はどうやら、おのおのの持場持場に納まり、沖の遠鳴りのような、ただうら悲しい、なつかしい遣瀬(やるせ)なさが、再びかの女を宙の夢に浮かして群衆の中を歩かした。
 ぱらぱらと雨が降り出して来た。町角の街頭画家は脚立をしまいかけていた。いや、雨気はもっと前から落ちて居たのかも知れない。用意のいい夜店はかなり店をしまって、往来の人もまばらに急ぎ足になっていた。
 灯という灯はどれも白蝋(はくろう)のヴェールをかけ、ネオンの色明りは遠い空でにじみ流れていた。
 今度は青年の方から距離を調子取って行くので、かの女は青年にはぐれもせず、濡(ぬ)れて電車線路の強く光る尾張町を再び渡った。
 慾も得もない。ただ、寂しい気持に取り残され度くない。ただそれだけの熱情にひかれて、かの女は青年のあとについて行った。後姿だけを、むす子と思いなつかしんで行くことだ。美青年に用はない。
 新橋際まで来て、そこの電車路を西側に渡った。かの女は殆(ほとん)どびしょ濡(ぬ)れに近くなりながら、急に逸作の方を振り向くと、いつもの通り少しも動ぜぬ足どりで、雨のなかを自分のあとから従(つ)いて来る。その端麗な顔立ちが、雨にうっすりと濡れ、街の火に光って一層引締って見える。彼女は非常な我儘(わがまま)をしたあとのような済まない気持になりながら、ペーヴメントの角に靴の踵(かかと)を立てて、逸作の近づいて来るのを待つつもりでいると、もう行き過ぎて見えなくなったと思った青年が、角の建物の陰から出て来てかの女にそっと立ち寄って来た。そして不手際にいった。
「僕に御用でしたら、どこかで御話伺いましょう」
 かの女は呆(あき)れて眼を見張った。まだ子供子供している青年の可愛気(かわいげ)な顔を見た。青年は伏目になって、しかし、意地強い恥しげな微笑を洩(もら)した。かの女は何と云い返そうかと、息を詰めた途端に、急に得体も知れない怯(おび)えが来た。
 かの女は「パパ!」といって折よく来た逸作の傍へ馳け寄った。


 あなたはO・K夫人でいらっしゃいましょう。僕は一昨夜あなたに銀座であとをつけられた青年です。僕は初め、何故女の人が僕について来るのかと不思議だったのです。それが更に世に名高いO・K夫人らしいのに驚き、最後にあれだけでお別れして仕舞うのが惜しくて堪(たま)らなくなったはずみ[#「はずみ」に傍点]で、思わず言葉をおかけしました。するとあなたは恰(あたか)も不良青年にでもおびやかされた御様子で、逸作先生(僕はあの方があなたの御主人で画家丘崎逸作先生だと直(す)ぐ判りました)の方へお逃げになりました。僕には何もかも不思議なのです。しかもあなたがお逃げになったあと、僕は一人で家へ帰りながら、どうしてもまたあなたにお目にかかりたくて仕方がなくなり、今でもその気持で一ぱいです。僕はあなたが有名な女流作家であるからとか、年長の美しい婦人に興味を持つとか、単なるそんな意味ばかりではなし、何故あなたのような方が、あの晩、あんな態度で僕をおつけになり、最後に僕を不良青年かなぞのように恐れてお逃げになったか、その意味が伺い度(た)いのです。
 こんな意味の手紙。これは銀座でそのことがあって一日おいて来た、あのナポレオン型の美青年からの手紙であった。かの女はその手紙に対してどういう返事を出して好いか判らなかった。何となく懐しいような、馬鹿らしいような、煩わしいような恥らわしい自己嫌悪にさえかかって、そのまま手紙を二三日放って置いた。
 いくらか習わされた良家的の字には違いないが、生来の強い我(が)が躾(しつけ)の外へはみ出していて、それが却(かえ)って清新な怜悧(れいり)さを表わしているといった字体で、それ以後五六本の手紙がかの女に来た。字劃(じかく)や点を平気で増減していて、青年期へ入ったばかりの年齢の現代の若ものに有り勝ちな、漢字に対する無頓着(むとんちゃく)さを現わしていたが、しかし、憐(あわ)れに幼稚なところもあった。名前は春日規矩男と書いてあった。
 書面の要求は初めの手紙と同じ意味へ、返事のないのに焦(じ)れた為か、もっと迫った気持の追加が出来て、銀座で接触したのを機縁として、唯(ただ)むやみにもう一度かの女に会い度いという意慾の単独性が、露骨に現われて来ていた。
 文筆を執ることを職業として、しじゅう名前を活字で世間へ曝(さ)らしているかの女は、よくいろいろな男女から面会請求の手紙を受取る。それ等を一々気にしていては切りがない――と、かの女は狡(ずる)く気持の逃避を保っていた。けれども青年の手紙の一つより一つへと、だんだんかの女の心が惹(ひ)かれてはいた。かの女はあの夜の自分の無暗な感情的な行為に自己嫌悪をしきりに感じるのであるけれど、実際は普通の面会請求者と違って、これはかの女の自分からアクチーヴに出た行為の当然な結果として、かの女としてもこの手紙の返事を書くべき十分の責任はある。かの女はやがてそこに気づくと、青年に対する負債らしいものを果す義務を感じた。けれども、それはやや感情的に青年に惹かれて来ているかの女の自分に対する申訳であって、なにもかの女がほんとうに出し度くない返事なら出さなくて宜い、本当に逢(あ)い度くないなら逢わなくても好いものをと、かの女の良心への恥しさを青年に対する義務にかこつけようとするのを意地悪く邪魔する心があり、かの女はまた幾日か兎角(とかく)しつつ愚図愚図していた。するとまた或日来た青年の手紙は強請的な哀願にしおれて、むしろかの女の未練やら逡巡(しゅんじゅん)やらのむしゃむしゃした感情を一まとめにかき集めて、あわや根こそぎ持ち去って行きそうな切迫をかの女に感じさせた。それが何故かかの女を歯切れの悪い忿懣(ふんまん)の情へ駆り立てた。 
「馬鹿にしてる。一ぺんだけ返事を出してよく云って聞かしてやりましょうか」
 縺(もつ)れ出しては切りのないかの女の性質を知っている逸作は言下に云った。
「考えものだな。君は自分のむす子に向ける感情だけでも沢山だ。けどこないだ[#「こないだ」に傍点]の晩は君の方から働きかけたんだから逢ってやっても好いわけさね」
 彼女は結局どうしようもなかった。こだわったまま妙な方面へ忿懣を飛ばした。――少くともかかる葛藤(かっとう)を母に惹起(じゃっき)させる愛憐(あいれん)至苦のむす子が恨めて仕方がなかった。何も知らずに巴里(パリ)の朝に穏かに顔を洗っているであろうむす子が口惜しく、いじらしく、恨めしくて仕方なかった。 
 半月ばかりたった。かの女はあまり青年の手紙が跡絶(とだ)えたので、もうあれが最後だったのかと思って、時々取り返しのつかぬ愛惜を感じ、その自分がまた卑怯(ひきょう)至極(しごく)に思われて、ますます自己嫌悪におちいっているところへ、ひょっこりとまた手紙が来た。
「僕だけでお目にかかれないとなれば、僕の母にも逢ってやって下さい。僕等は親子二人であなたから教えて頂き度いことがあるんです。頼みます」
 この手紙には今までと違って、何か別に撃たれるところのものがあった。それに遠く行き去った愛惜物が突然また再現したような喜悦に似た感情が、今度は今迄のすべての気持を反撥(はんぱつ)し、極々単純に、直ぐにも逢う約束をかの女にさせようとした。逸作も青年の手紙を一瞥(いちべつ)して、
「じゃまあ逢って見るさ。字の性質(たち)も悪くないな」
 急にかの女の眼底に、銀座の夜に見たむす子であり、美しい若ものである小ナポレオンの姿が、靉靆朦朧(あいたいもうろう)と魅力を帯びて泛(うか)び出して来た。かの女はその時、かの女の母性の陰からかの女の女性の顔が覗(のぞ)き出たようではっとした。だが、さっさと面会を約束する手紙を青年に書きながら、そんな気持にこだわるのも何故かかの女は面倒だった。
 フリジヤがあっさり挿されたかの女の瀟洒(しょうしゃ)とした応接間で、春日規矩男にかの女は逢った。かの女の手紙の着いた翌晩、武蔵野の家から、規矩男は訪ねて来たのであった。部屋には大きい瓦斯(ガス)ストーヴがもはやとうに火の働きを閉されて、コバルト色の刺繍(ししゅう)をした小布を冠(かぶ)されていた。かの女が倫敦(ロンドン)から買って帰ったベルベットのソファは、一つ一つの肘(ひじ)に金線の房がついていた。スプリングの深いクッションへ規矩男は鷹揚(おうよう)な腰の掛け方をした。今夜規矩男は上質の薩摩絣(さつまがすり)の羽織と着物を対に着ていた。柄が二十二の規矩男にしては渋好みで、それを襯衣(シャツ)も着ずにきちんと襟元を引締めて着ている恰好(かっこう)は、西洋の美青年が日本着物を着ているように粋(いき)で、上品で、素朴に見えた。かの女は断髪を一筋も縮らせない素直な撫(な)でつけにして、コバルト色の縮緬(ちりめん)の羽織を着ている。――何という静かな単純な気持――そこには逢わない前のややこしい面倒な気持は微塵(みじん)も浮んで来なかった。一人の怜悧(れいり)な意志を持つ青年と、年上の情感を美しく湛(たた)えた知識婦人と――対談のうちに婦人は時々母性型となり、青年はいくらかその婦人のむす子型となり――心たのしいあたたかな春の夜。そうした夜が三四日おきに三四度続くうち、かの女は銀座で規矩男のあとをつけた理由を規矩男に知らせ、また次のような規矩男の身の上をも聞き知った。
 外交官にしては直情径行に過ぎ、議論の多い規矩男の父の春日越後は、自然上司や儕輩(さいはい)たちに好かれなかった。駐在の勤務国としてはあまり国際関係に重要でない国々へばかり廻(まわ)されていた。
 任務が暇なので、越後は生来好きであった酒にいよいよ耽(ふけ)ったが、彼はよく勉強もした。彼は駐在地の在留民と平民的に交際(つきあ)ったので、その方の評判はよかった。国際外交上では極地の果に等しい小国にいながら、目を世界の形勢に放って、いつも豊富な意見を蓄えていた。求められれば遠慮なくそれを故国の知識階級へ向けて発表した。この点ジャーナリストから重宝がられた。任官上の不満は、彼の表現を往々に激越な口調のものにした。
 国々を転々して、万年公使の綽名(あだな)がついた頃、名誉大使に進級の形式の下に彼は官吏を辞めさせられた。二三の新聞雑誌が彼のために遺憾の意を表した。他のものは、彼もさすがにもう頭が古いと評した。
 彼は覚悟していたらしく、特に不平を越してどうのこうのする気配もなかった。それよりも、予(かね)て意中に蓄えていた人生の理想を果し始めにかかった。
「人生の本ものを味わわなくちゃ」
 これが父の死ぬまで口に絶やさなかった箴銘(しんめい)の言葉でしたと、規矩男は苦笑した。

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