新吉は窓に近く寄ってみた。雲一つなく暮れて行く空を刺していた黒い鉄骨のエッフェル塔は余りににべも無い。新吉はくるりと向き直って部屋の中を見た。友達のフェルナンドが設計して呉れたモダニズムの室内装飾具は素っ気ないマホガニーの荒削りの木地と白真鍮の鋭い角が漂う闇に知らん顔をして冷淡そのものを見るようだ。フェルナンドは若くて死んだアルザス人だ。夭逝した天才の仕事には何処か寂しいエゴイズムが閃めいているものだ。
新吉はこの部屋へ今にも訪ねて来る約束のリサに会い度くなってしまった。新吉は一応内懐の紙入れを調べて帽子を冠りドアーを開け放して来てから、椅子に腰掛けてリサを待ち受けた。いら/\した貧乏ゆすりが出た。そうしながらも新吉は残酷と思いながらしきりにおみちのおさな顔に白髪の生えた図を想像した。
家鴨料理のツール・ダルジャンでゆっくりした晩餐をとった後、新吉とリサとは直ぐ前のセーヌ河の河岸に沿って河下へ歩き出した。酔った新吉をリサは小児のようにいたわっていた。
リサは健康で牛のような女だった。新吉が彼女に逢ってから十年近くも経つのに彼女は相変らず遊び女を勤めている。リサに言わせると遊び女は母性的な彼女の性格には一番相応しい職業だといっている。彼女は巴里へ来たての外国人の男たちを何人となく巴里に馴染むまでに仕立て上げる。男達はそれまで彼女の厄介になると彼女から離れる。そしてもっと気の利いた面白い女へ移る。然し彼女はすこしも悪びれず男を離してやって、また次の初心な外国人を探し出す。離れてしまった男たちも時が経つとやっぱり彼女に懐しみを蘇えらせて来て彼女と交際うようになる。そのときは彼女をみんな「おばさん」と呼んでいる。彼女もそのときはおばさんの立前になっていろいろ親切に世話をやくのであった。
河堤の古本屋の箱屋台はすっかり黒い蓋をしめて、その背後に梢を見せている河岸の菩提樹の夕闇を細かく刻んだ葉は河上から風が来ると、飛び立つ遠い群鳥のように白い葉裏を見せて、ずっと河下まで風の筋通りにざわめきを見せて行く。ルーブル博物館を中心に肩を高低させている向う岸の建物の影は立昇る河霧にうっすり淡色の夕化粧を見せて空に美しい輪廊を際立たしている女の横顔のようだ。その空はまた一面に紫薔薇色の焔を挙げて深まろうとしている。闇を掻き乱そうとしている。黄、赤、青のネオンサインは街の中空へ「夏はドウヴィルへこそ」とアルファベットを綴っている。
――…………
――まあお聞き……。というわけでね。さっきから言ったようにね。巴里祭にはあたしが見つけてあげたその娘をぜひ一緒に連れてお歩るきなさい。」
リサはがっちりした腕で新吉の腕を自分の脇腹へ挟みつけながら言った。新吉はステッキも夏手袋も自分が引受けて持っている。
――…………
――いくら処女心が恋しいからといって、その昔のカテリイヌの面影を探しながらお祭りを見て歩るこうなんて、そりゃあんまり子供っぽい詩よ。そんなことであんたのようなすれっからしに初心な気持ちの芽が二度と生えると思って。」
新吉の酔って悪るく澄んだ頭をアレギザンドル橋のいかつい装飾とエッフェル塔の太い股を拡げた脚柱とが鈍重に圧迫する。新吉はそれらを見ないように、眼を伏せて言った。
――おい後生だから、もう一音階低い調子で話して呉れないか。その調子じゃ、たとえ成程とうなずきたいことも先に反感が起ってしまうよ。」
――あら。そんなにひどい神経になっているの。まるで死ぬ前のフェルナンドのようだわ。」
リサは闇の中に顔を近づけて覗き込みながら言った。さも哀れに堪えないように中年近い女の薄髭の生えた、厚身の唇が新吉の頬に迫って来たので新吉は顔を避けた。
――いよ/\もってあたしの探したあの娘をあなたのものにすることをお勧めするわ。何事も女で育って行く巴里では、たとえ女に中毒したものも、それを癒すにはやっぱり女よ。もしあたしがもう七ツ八ツ若かったらこんな手間暇は取らせませんのにね。」
リサは今しがた新吉に意見したのとはあべこべなことを平気で言った。二人はアレギザンドル橋を渡った。春秋に展覧会の開かれるグラン・パレーの入口は真黒く閉っていて、プチ・パレーの方に波蘭の工芸品展覧会の雪の山を描いたポスターが白い窓のように几帳面な間隔を置いて貼られてある。婆娑とした街路樹がかすかな露気を額にさしかけ、その下をランデ・ヴウの男女が燕のように閃いてすれ違う。新吉は七八年前、五色の野獣派の化粧をしてモンマルトルのペットだったリサを想い泛べた。がっちりした彼女の顔立ちにそれがよく似合った。当時彼女はあるキャフェで新吉からカテリイヌに対する悩みを聴いたとき新吉の鼻をつまんで言った。
――そんな恋はありきたりよ。愛なんかちっとも無い二人同志の間に技巧で恋を生んで行くのが新しい時代の恋愛よ。」
彼女が裸に矢飛白の金泥を塗って、ラパン・ア・ジルの酒場で踊り狂ったのは新吉の逢った二回目の巴里祭の夜であった。彼女は其の後だん/\奇嬌な態度を剥いで持ち前の母性的の素質を現して来たが、折角同棲した若いフェルナンドに死なれてから男に対して全く憐れみ一方の女となった。
――君もあの時分は元気だったなあ。」
そう言うと流石に彼女も悵然としたらしい様子のまゝしばらく黙った。二人は並木のシャン・ゼリゼーまで出たが闇一筋の道の両はずれに一方はコンコールドの広場に電飾を浴びて水晶の花さしのように光っている噴水を眺め、首を廻らして凱旋門通りの鱗のように立ち重なる宵の人出を見ると軽い調子になって彼女は言った。
――無理のようだがそうすると、あんた決めておしまいなさいね。きっと結果がいゝから。そしたらあたしその娘を巴里祭の日に、まったく自然のようにあなたに遇わせてあげますから。あなたは只その日お祭りを楽しむ町の青年になって、朝自分の家を出なさるだけでいゝのよ。」
そこでステッキと手袋を新吉に押しつけるとリサは簡単に、
――ボン、ソワール。」
と行きかけた。新吉が、
――ちょいと待って呉れ給え。国元の妻のことに就いてすこし話したいんだが。」
とあわてゝ言うと、リサは逞ましい腕を闇の中に振って指先を鳴らした。
――もう、あんたのことはみんなその娘に譲りましたよ。」
リサは男のように体を振り乍ら行って仕舞った。
明日の祭の用意に新吉も人並に表通りの窓枠へ支那提灯を釣り下げたり、飾紐で綾を取ったりしていると、下の鋪石からベッシェール夫人が呼んだ。
――結構。結構。巴里祭万歳。」
新吉は手を挙げて挨拶する。
――あなたのところに綺麗な国旗ありまして。若しなければ――。」
そう言いさして夫人は門の中へ消えたが、やがて階段を上って来て部屋の戸をノックする。
新吉が開けてやると、しとやかに入って来て、
――剰ったのがありますから貸してあげますよ。」
それから屈托そうに体をよじって椅子にかけて八角テーブルの上に片肘つきながら、新吉の作った店頭装飾の下絵の銅版刷りをまさぐる。壁の嵌め込み棚の中の和蘭皿の渋い釉薬を見る。箔押しの芭蕉布のカーテンを見る。だが瞳を移すその途中に、きっと、窓に身をかゞまして覚束なく働いている新吉の様子を油断なく覗っている。何か親密な話を切り出す機会を捉えようとじれているらしい。新吉はどたんと窓から飛下りて掌に握ったじゅう/\いう鳴声を夫人の鼻先に差出した。
――小さい雀の子。」
夫人は邪魔ものゝように三角の口を開けた子雀の毛の一つまみを握り取って煙草の吸殻入れの壺の中へ投げ込んでしまった。無雑作に銅版刷で蓋をする。
――おちついて、あなた、そこに暫らく坐って下さらない。」
新吉はちょっと左肩をよじって不平の表情をしてみたが名優サッシャ・ギトリーの早口なオペレットの台詞を真似て、
――マダムの言いつけとあらば、なんのいなやを申しましょうや。茨の椅子へなりと。」
と言ってきょとんと其所へ坐った。
――いよ/\明日巴里祭だというので、いやにはしゃいでいらっしゃるね。さぞお楽しみでしょうね。」
新吉はぎくっとした。情事に就いては彼女自身はもうすっかり投げているのに他人の情事に対する関心はまたあまりに執拗だ。それにリサと夫人とは古い知り合いだから、ひょっとしたらリサの自分に対する明日のたくらみでも感づいたのではないか。新吉は油断をせずにとぼけた。
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