赫子と麻川氏は馬車で海岸に行くことを、何故か性急に私達の部屋へ来て勧めて止まない。私はやや唐突に感じ、少し迷惑にも思った。それに昨夜来徹夜の仕事に疲れてこれから寝に就(つ)こうとする主人をも急(せ)き立てて連れ出そうとするのでなおさら迷惑の度を増したが、とにかく隣人の交際として行くことにした。道々も漠然として居る私達側に引き換え、何か非常に海岸に目指すもののある期待に赫子も麻川氏も弾んで居るらしく見える。長谷(はせ)の海岸に着いた。一しきり人出の減った海は何処か空の一隅の薄曇りの影さえ濃やかな波の一つ一つの陰に畳んでしっとりと穏かだった。だが、私は何かその静穏な海の状態に陰険な打ち潜んだ気配を感じて、やや憎みさえ覚えた。今日は海へはいり度(た)く無いな、と思った。(はいったとて私はどうせろくに泳げないのだけれど)徹夜の仕事を続け睡眠不足に疲労した主人はなお入れ度くないと思った。
赫子は私のそんな思わくなどに頓着(とんちゃく)なく、ずんずん私を促し立てて私を婦人更衣場へ連れ込んだ。同様に男子更衣場へは麻川氏が主人を連れて行った。私は赫子の裸を始めて見た――真白だ。馬鈴薯の皮を剥(む)いた白さだ。何という簡単な白さ。魅力の無い白さ。私は茲(ここ)でも赫子に一つ失望した。茲でもというのは、私は大分以前から赫子に失望し始めて居たからであった。何故、一々、失望するほど、赫子に注意を私は払うのか。赫子の義兄大川宗三郎氏の陰影の深い耽美的(たんびてき)作品に傾倒して居た私が大川氏の愛玩(あいがん)すると評判高い赫子に多くの価値を置こうとするからだった。始め私は磨きの好い靴の先や洋装の裾(すそ)のひらめきや、ずばずばしたもの云いに赫子を快活なフラッパーな文化的モダンガールだと思って好奇心を持った。だが、それらの表面的なものに馴れて、珍らしさを感じなくなった中頃から、私は赫子を、平凡で常識的な世帯持ちの好い街のおかみさんのようなたち[#「たち」に傍点]の女であることが判った。彼女の人前でする一見奇抜相ないろいろな言動の中に実は何もかも、打算して振舞って居る分別がまざまざ見えすいて来た。この女は大川氏の猟奇癖に知ってか或いは知らずにかいつの間にか乗って仕舞って、その表皮がいつか奇矯に偽造され、文壇の見せ物になって居るに過ぎない。赫子は好い旦那(だんな)さんを早く見付けて好いおかみさんになりなさい。と私の好奇心は失望し乍(なが)らも私の女性としての実質が好意をもって心ひそかに赫子にそう云って居た。処がまた追々日がたつに従って私は赫子がやはりありきたりの女性の誰でもと同じように一寸(ちょっと)した言葉の間の負けず気や周囲の同性の身なりのほんのつまらない動静にまで皮肉や陰口で意地悪くこせこせするのを見聞するようになり、もはや赫子という女に全然興味を無くして仕舞って居た。だが、着物にかくれていた赫子の肉体的魅力に私はまださほどの不信を持って居なかったのだけれど……。
海水着一つになった赫子は、例の虚勢を声に張り上げて、海へ飛び込んだ。水泳もひどく得意のように話して居たが、これもまた甚だ平凡な泳ぎ方だ。それでもかなり達者に一丁程麻川氏と並んで岸を離れて行った。私は二人の遠ざかったのを見て主人の傍へ行った。「半月程まえ茲の海で心臓麻痺(しんぞうまひ)を起して死んだ人があるんですって。」私がこういう真意を主人は知って居た。若いうちの深酒で主人は心臓を弱くして居る。水泳は、ずっと前から自分でも禁じて居る。今日にかぎって泳ぐわけも無いのだが赫子も麻川氏も先刻からむしろ主人を先頭に泳がせ度い気配(けは)いが見える。それにもかかわらず、主人は岸近くで私と一緒にわずかに波乗り位して居るだけだった。「おーうい」と赫子はかなりの高波の間から手招ぎをした。少し離れた処で麻川氏も「泳ぎませんか坂本さん。」赫子「駄目、泳がなくっては、坂本さん。」赫子は当然自分達に続いて泳いで来るべき筈(はず)の坂本が岸に居るのが不本意だとでもいうような様子である。「僕あ駄目。」と主人が手を振ると「駄目ってこと無いわよ。」と赫子。「泳ぎましょう、行きましょうよ、沖へ。」と麻川氏。「いらっしゃい。」「いらっしゃいったら。」といよいよ異常な熱心で主人を誘致しようとする二人。それでも主人は笑って居て岸から離れようとはしない。誘い疲れて断念した赫子と麻川氏は誘うのを止めて、ほんの一廻(ひとまわ)りその辺を泳いだだけで直(す)ぐ岸へ帰って来た。「どうしても泳ぎませんかね、坂本さん。」と二人はまだ執拗(しつよう)に主人に云うので「ああ、今日は嫌だ。」と主人も少しむっとしたように云った。麻川氏はさも失望したように、「駄目だなあ、折角誘って来たのに。」赫子はもうすっかり不機嫌を顔に出して「ふん。」と横向いたなり、さっさと更衣場の方へ足を向けた。「君達、僕に構わずにゆっくり泳いだら好いじゃ無いか。」主人が云うと麻川氏は「つまんないからもう帰りましょう。」と矢張り麻川氏もさっさと更衣場の方へ行って仕舞った。従妹(いとこ)一人は無頓着に独りで、あちこち波を掻(か)き廻して居たが、あんまり早い一行の帰り支度に吃驚(びっく)りして波から上ってきた。馬車が待たせてあった。長谷からH屋まで電車もある。平生は誰でも電車へ乗る。それを帰りの馬車まで待たせてある。私は、いよいよ何事かの計劃(けいかく)のもとに今日の「海水浴場行」が企てられたものと直覚した。丁度、主人は更衣場の傍でA社のK部長に逢(あ)い、K氏の別荘へ来て居るT氏に逢う為め同行したので私は従妹と一緒にすすま無い馬車の同乗をして赫子や麻川氏と帰途に就いた。果して一丁程馬車が動くと赫子が口を歪(ゆが)め、私には顔の側方を向け、而も一番私に云う強い語気で「ふん、あれでも神伝流の免許皆伝か。」麻川氏「くどく云うなよ。」赫子「だってとうとう瞞(だま)されちゃった。」私は判った。昨日の午後、水泳の話が麻川氏の部屋で出たその時、私と赫子との説が何かで一寸行き違った。思い上っていつも座中の最得位を占めて居なければならない赫子が面白く無さそうな顔付きだった。そのあとの話の都合で私は主人が少年時代隅田川の河童党(かっぱとう)で神伝流の免許を受けて居ることを云った。だが、それをまた何のために馬車まで雇って実験する必要があるのだろう。たとえば今日泳がなくても主人の免許を受けたことは飽迄(あくまで)も事実であるのに、浅はかな人達よ。何とでも思うが好い。と私はぐっと、息を詰めて堪えて居た。赫子は、云うだけは云ったが、折角の計劃が無になったいまいましさを紛らす為めか傍若無人にたてつづけの鼻唄(はなうた)。麻川氏は私と同じ無言で、しかし、何かしきりに考えめぐらして居る様子だったが、突然、私の絽縮緬(ろちりめん)の単衣(ひとえ)の袖(そで)を撮(つま)んで「X女史にこんな模様は似合うな。」(X女史はX夫人だ、氏は自分とX夫人と世間が噂(うわさ)をして居るのを知らないらしい。)と決定的に云った。私は話題が変ったので先刻からの不愉快な気持ちが一寸くつろいで「あの方には無地でこの色(小豆色)だけなのが好いでしょうね。」と云った。すると麻川氏の顔に見る見る冷笑が湧(わ)いた。「あなたの主張はそうですかなあ――あなた、あの人の衣裳(いしょう)持ちにヤキモチ焼いて居ませんか。」終りの一句(これは普通の目鼻を持って居る同志が面と向って云い合う言葉では無い。氏は気違いじゃないかな。と私は咄嗟(とっさ)の場合思った)は、私、従妹、をむしろ吃驚させて氏の顔に眼を集めさせた。処が、以外にも氏の顔には、今が今、自分の口から出た言葉に吃驚(びっくり)し狼狽(ろうばい)して居る色が私達の吃驚以上に認められた。
H屋の部屋へ帰っても私は、石でも喰(く)ったように黙りこくって、従妹(いとこ)にさえ口を利く気持になれなかった。主人が間もなくあとから帰って来て「麻川君があすこんとこ(私達の部屋と氏の部屋との境いの露地。)へ籐椅子(とういす)を持って来て腰かけてたよ。」と何気なく話したので従妹は急に勢い込んで帰りの馬車の情況を主人に話し「あの人、自分が大変なこと云っちゃったので私達が部屋でどんなに怒って話し合ってるか聞き耳たててたんでしょう。あの人よく立ち聞きする人ですもの。ヤキモチと云えばあの人こそ……いつかお姉様が、久野さんや喜久井さんのこと麻川さんの前で褒めたら、それはそれは不愉快な顔して喜久井さんや久野さんの悪口随分云ったじゃ無いの、あの人こそヤキモチヤキだわ。」私もそれに思い当った。が従妹があまりはきはき云って仕舞ったので、気持がいくらか晴れたせいか、不思議と心の底の方から麻川氏への理解がほのかに湧(わ)いて来た。「そのくせ、充分友達思いなんだけどね。」すると主人が例のゆっくりした調子で云った。「そうだよ。ああいう性分なんだよ。ふだん冷静に見せてるけど時々末梢神経(まっしょうしんけい)でひねくれるのさ。君にだって悪意があるわけじゃ無いんだけど……。」従妹「そうよ。あの人お姉様ととてもお話も合うし仲よしなんだけど、赫子なんかに取り込められるとふとその気になるんだわ。」私もほぼ判っては居るのだけれど今頃になって涙が出て仕方がない。主人「とにかくあの人の神経にゃ君が噛(か)み切れないんだよ。そうかって君って人にはどうも無関心になり切れないらしいな。ああいった性分の人には……それで焦(じ)れてついいろんなことを云ったり仕たりしちまうんだな。」
この時、途中、馬車から自分の宿へ降りて行った赫子がまた麻川氏の部屋へ来たらしい高声が聞えた。従妹が一寸(ちょっと)顔色を変えたのを主人は眼で制した。そして煙草(たばこ)に火をつけてから云った。「どうだい。一たん東京へ引き上げちゃあ。そして九月になってみんな帰っちまってからまた来るとしちゃ。」
葉子はこの日記の終った大正十二年八月下旬以来、昭和二年春まで、足かけ五年も麻川荘之介氏に逢(あ)わなかった。昭和二年の早春、葉子は、一寸した病後の気持で、熱海の梅林が見度(みた)くなり、良人(おっと)と、新橋駅から汽車に乗った。すると真向いのシートからつと立ち上って「やあ!」と懐しげに声を掛けたのは麻川荘之介氏であった。何という変り方! 葉子の記憶にあるかぎりの鎌倉時代の麻川氏は、何処か齲(むしば)んだ黝(うずくろ)さはあってもまだまだ秀麗だった麻川氏が、今は額が細長く丸く禿(は)げ上り、老婆のように皺(しわ)んだ頬(ほお)を硬(こわ)ばらせた、奇貌(きぼう)を浮かして、それでも服装だけは昔のままの身だしなみで、竹骨の張った凧紙(たこがみ)のようにしゃんと上衣を肩に張りつけた様子は、車内の人々の注目をさえひいて居る。葉子は、麻川氏の病弱を絶えず噂(うわさ)には聞いて居たが、斯(こ)うまで氏をさいなみ果した病魔の所業に今更ふかく驚ろかされた。病気はやはり支那旅行以来のものが執拗(しつよう)に氏から離れないものらしい。だが、つくづく見れば、今の異形の氏の奥から、歴然と昔の麻川氏の俤(おもかげ)は見えて来る。葉子は、その俤を鎌倉で別れて以来、日がたつにつれどれ程懐しんで居たか知れない。葉子の鎌倉日記に書いた氏との葛藤(かっとう)、氏の病的や異常が却(かえ)って葉子に氏をなつかしく思わせるのは何と皮肉であろう。だが、人が或る勝景を旅する、その当時は難路のけわしさに旅愁ばかりが身にこたえるが、日を経ればその旅愁は却ってその勝景への追憶を深からしめる陰影となる。これが或る一時期に麻川荘之介氏という優れた文学者に葉子が真実接触した追憶の例証とも云えよう。
「私ずっと前から、お逢いし度(た)かったのです。」
五年の歳月が、葉子を率直にはっきりしたものの云える女にして居た。
「僕も。」
氏の声はまた何という心の傷手から滲(にじ)み出した切実な声になったことだろう。
「鎌倉時代に、私はもっと素直な気持で、あなたにおつき合いすれば好かったと思ってました。」
「僕も。」
「ゆっくりお打ち合せして、近いうちにお目にかかりましょうね。」
「是非そうして下さい。旅からお帰りなったら、お宅へいつ頃伺って好いか、お知らせ下さい。是非。」
それから葉子の良人坂本とも氏はさも懐しげに話して居た。話のうちに氏が時々立てる昔のままの豪快笑いが変り果てた現在の氏の異形から出て来るのが一種妖怪的(ようかいてき)な傷ましさを葉子に感じさせた。
汽車が氏の転地先○○駅迄進んだ時、氏は誰かと一緒にシートから立ち上った。誰か直(す)ぐ忘れて仕舞った程葉子は氏にばかり心を奪われて居た。氏は立ち際に「あなたが二度目に××誌に書かれた僕の批判はまったく当って居ます有難かった。」と云った。それは鎌倉以後三四年たった時分葉子が××誌から書かされたもので「麻川氏はその本性、稀(まれ)に見る稚純の士であり乍(なが)ら、作風のみは大人君子の風格を学び備えて居る為めにその二者の間隙(かんげき)や撞着矛盾(どうちゃくむじゅん)が接触する者に誤解を与える。」こんな意味のものだった。葉子がより多く氏を理解して来たと自信を持ち出した頃のものだった。
汽車から降りてはっきりした早春の外光の中に立った氏の姿を葉子は更に傷ましく見た。思わず眼をそむけた。頭半分も後退した髪の毛の生え際から、ふらふらと延び上った弱々しい長髪が、氏の下駄穿(ば)きの足踏みのリズムに従い一たん空に浮いて、またへたへたと禿げ上った額の半分ばかりを撫(な)で廻(ま)わす。
「あ、オバ○!」
不意の声をたてたのは反対側の車窓から氏を見た子供であった。葉子は暗然として息を呑(の)んだ。
「すっかり、やられたんだな。」
葉子の良人も独言のように云ったきり黙って居た。
その日の夕刻、熱海梅林の鶴(つる)の金網前に葉子は停って居た。前年、この渓流に添って豊に張られた金網のなかに雌雄並んで豪華な姿を見せて居たのが、今は素立ちのたった一羽、梅花を渡るうすら冷たい夕風に色褪(いろあ)せた丹頂の毛をそよがせ蒼冥(そうめい)として昏(く)れる前面の山々を淋しげに見上げて居る。私は果無(はかな)げな一羽の鶴の様子を観(み)て居るうちに途中の汽車で別れた麻川氏が、しきりに想(おも)われるのであった。「この鶴も、病んではかない運命の岸を辿(たど)るか。」こんな感傷に葉子は引き入れられて悄然(しょうぜん)とした。
その年七月、麻川氏は自殺した。葉子は世人と一緒に驚愕(きょうがく)した。世人は氏の自殺に対して、病苦、家庭苦、芸術苦、恋愛苦或いはもっと漠然とした透徹した氏の人生観、一つ一つ別の理由をあて嵌(は)めた。葉子もまた……だが、葉子には或いはその全てが氏の自殺の原因であるようにも思えた。
その後世間が氏の自殺に対する驚愕から遠ざかって行っても葉子の死に対する関心は時を経てますます深くなるばかりである。とりわけ氏と最後に逢った早春白梅の咲く頃ともなれば……そしてまた年毎に七八月の鎌倉を想い追懐の念を増すばかりである。
また画家K氏のT誌に寄せた文章に依(よ)れば、麻川氏はその晩年の日記に葉子を氏の知れる婦人のなかの誰より懐しく聡明(そうめい)なる者としてさえ書いて居る。それが葉子の思いを一層切実にさせるというのは葉子は熱海への汽車中、氏に約した会見を果さなかった、氏と約した通り氏に遇(あ)い氏が仮りにも知れる婦人の中より選び信じ懐かしんで呉(く)れた自分が、鎌倉時代よりもずっと明るく寛闊(かんかつ)に健康になった心象の幾分かを氏に投じ得たなら、あるいは生前の氏の運命の左右に幾分か役立ち、あるいは氏の生死の時期や方向にも何等かの異動や変化が無かったかも期し難いと氏の死後八九年経た今でもなお深く悔い惜しみ嘆くからである。これを葉子という一女性の徒(いたず)らなる感傷の言葉とのみ読む人々よ、あながちに笑い去り給うな。
底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年~1978(昭和53)年
入力:阿部良子
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2001年4月3日公開
2003年5月25日修正
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