昭和文学全集 第5巻 |
小学館 |
1986(昭和61)年12月1日 |
岡本かの子全集 |
冬樹社 |
1974(昭和49)年~1978(昭和53)年 |
白梅の咲く頃となると、葉子はどうも麻川荘之介氏を想(おも)い出していけない。いけないというのは嫌という意味ではない。むしろ懐しまれるものを当面に見られなくなった愛惜のこころが催されてこまるという意味である。わが国大正期の文壇に輝いた文学者麻川荘之介氏が自殺してからもはや八ヶ年は過ぎた。
白梅と麻川荘之介氏が、何故葉子の心のなかで相関聯(あいかんれん)しているのか、麻川氏と葉子の最後の邂逅(かいこう)が、葉子が熱海へ梅を観(み)に行った途上であった為めか、あるいは、麻川氏の秀麗な痩躯(そうく)長身を白梅が聯想(れんそう)させるのか、または麻川氏の心性の或る部分が清澄で白梅に似ているとでもいうためか――だが、葉子が麻川氏を想い出すいとぐちは白梅の頃であり乍(なが)ら結局葉子がふかく麻川氏を想うとき場所は鎌倉で季節は夏の最中となる。葉子達一家は、麻川荘之介氏の自殺する五年前のひと夏、鎌倉雪の下のホテルH屋に麻川氏と同宿して避暑して居た。
大正十二年七月中旬の或日、好晴の炎天下に鎌倉雪の下、長谷(はせ)、扇(おうぎ)ヶ谷(やつ)辺を葉子は良人(おっと)と良人の友と一緒に朝から歩き廻(まわ)って居た。七月下旬から八月へかけて一家が避暑する貸家を探す為めであった。光る鉄道線路を越えたり、群る向日葵(ひまわり)を処々の別荘の庭先に眺めたり、小松林や海岸の一端に出逢(であ)ったりして尋ね廻ったが、思い通りの家が見つからなかった。結局葉子の良人の友人は葉子達をH屋の一棟へ案内した。H屋は京都を本店にし、東京を支店にし、そのまた支店で別荘のような料亭を鎌倉に建てたのであったが商売不振の為め今年は母屋を交ぜた三棟四棟を避暑客の貸間に当て、京都風の手軽料理で、若主人夫婦がその賄に当ろうと云うのであった。
母屋に近い藤棚のついた二間打ち抜きの部屋と一番端(はず)れの神楽堂(かぐらどう)のような建て前の棟はもう借手がついていた。真中の極(ごく)普通な割り合いに上品な一棟が、まだあいていたのを葉子達は借りることに極(き)めた。どの棟の部屋もみな一側面は同じ芝生の広庭に面し、一側面は凡(すべ)て廊下で連絡していた。
決めて帰りがけに葉子達は神楽堂の方の借主をどんな人達かと聞いて見た。五六人取り交ぜたブルジョアの坊ちゃんで、若いサラリーマンや大学生達だとの事、それから藤棚の方はと聞いた時、
「麻川荘之介さん、あの文士の。」
H屋の若主人は(好いお連れ様で)と云わんばかりにやや同業者の葉子達の方を見た。
「ほう。」
葉子の良人は無心のように云ったが、葉子はいくらか胸にこたえ[#「こたえ」に傍点]てはっとした。
麻川荘之介と云えば、その頃、葉子より年こそ二つ三つ上でしか無かったが、葉子にはかなり眩(まぶ)しい様な小説道の大家であった。葉子のはっとしたのは、葉子の稚純な小説崇拝性が、その時すでに麻川氏に直面したような即感をうけた為めでもあったろうが、ほかにいくらか内在している根拠もあった。
葉子の良人戯画家坂本は、元来、政治家や一般社会性の戯画ばかり描いて居たが、その前年文学世界という純文芸雑誌から頼まれて、文壇戯画を描き始めて居た。文壇の事に晦(くら)い坂本はその雑誌記者で新進作家川田氏に材料を貰い、それを坂本一流の瓢逸(ひょういつ)また鋭犀(えいさい)に戯画化して一年近くも連載した。これは文壇の現象としてはかなり唐突だったので、文人諸家は驚異に近く瞠目(どうもく)したし、読者側ではどよめき[#「どよめき」に傍点]立って好奇心を動かし続けた。なかで麻川氏の戯画化に使われた材料は麻川氏近来の秘事に近いもの――それももちろん川田氏から提供された材料だった。文壇に晦かった坂本が、さして秘事とも思わず取扱った材料は、麻川氏にとっての痛事だったとあとで坂本に云う人がかなりあった。
「そりゃあ気の毒だったな。川田君も一寸(ちょっと)つむじ曲りだから先輩に対する自分のうっぷん散しでもあったかな、いくらか。」
とその材料を持って来た川田氏への心理批判も交って坂本は苦笑した。
その後短歌から転じて小説をつくり始めた葉子がその処女作を麻川氏の友人喜久井氏に始めて見て貰うことを頼んだ。だが喜久井氏はその時、文壇的な或る事業劃策中(かくさくちゅう)だったので、友人麻川荘之介に見てお貰いなさいと葉子に勧めた。
葉子は早速麻川氏に手紙を書いたが、その返事がいつまでたっても来なかった。葉子は今迄ひと[#「ひと」に傍点]に返事の必要の手紙を出して返事を貰わなかった覚えが無かったので、いくらか消気(しょげ)てすこし怨みがましい心持になって居た処へ、ある人がそれに就(つ)いて、
「あの人は、坂本さんの戯画の材料をあなたから出てるとでも思ってるか知れませんよ。そして用心深いから身辺を用心する為めにあなたを敬遠しちまったのかも知れませんよ。」
と葉子に云った。そう云われれば葉子は坂本より文壇に近いわけである。けれど文壇的社交家でない葉子は文学雑誌記者であり新進小説家としての川田氏が提供する程の尖鋭的(せんえいてき)な材料など持ち合わし得べくもなかったのだ。葉子はますます味気ない気持ちになったが麻川氏がもしそういう用心をするならそれも当然な気がしたし、それやこれやで小説をひとに見て貰う気などはいつか無くなって居た。
葉子という女性は、時によっては非常に執念深く私情に駆られるが、時によってはまるで別人のように公平で淡白な性質も持って居る。麻川氏とのいきさつも理解がつくといつかさっぱりと、葉子の心に打ち切られて仕舞った。ところがそのすこしあと、葉子は全然別な角度から麻川氏を見かけた。それは或夜、大変混雑な文学者会が、某洋食店楼上で催され麻川氏もその一端に居た。淡い色金紗(いろきんしゃ)の羽織がきちんと身に合い、手首のしまったきびきびした才人めいた風采(ふうさい)が聡明(そうめい)そうに秀でた額にかかる黒髪と共にその辺の空気を高貴に緊密にして居た。がさつな、だらしない風をした沢山の文人のなかに、そういう麻川氏を見て葉子はこころにすがすがしく思い乍(なが)ら、ふと、麻川氏の傍に嬌然(きょうぜん)として居るX夫人を見出した。そして麻川氏がX夫人に対する態度を何気なく見て居ると、葉子はだんだん不愉快になって来た。麻川氏はX夫人に向って、お客が芸者に対するような態度をとり始めた。葉子はそこで倫理的に一人の妻帯男が一人のマダムに対する不真面目(ふまじめ)な態度を批判して不愉快になったのでは無い。(ましてX夫人は兼(かね)てから文人達の会合等に一種の遊興的気分を撒(ま)いて歩く有閑婦人だった。善良な婦人で葉子はむしろ好感を持っては居るがからかわれて惜しい婦人とは思って居なかった。)麻川氏を惜しむこころ、麻川氏の佳麗な文章や優秀な風采、したたるような新進の気鋭をもって美の観賞を誤って居るようなもどかしさを葉子は感じたからである。しかし、現在見るところのX夫人は葉子の眼にも全く美しかった。デリケートな顔立ちのつくりに似合う浅い頭髪のウェーブ、しなやかな肩に質のこまかな縮緬(ちりめん)の着物と羽織を調和させ、細く長めに曳(ひ)いた眉をやや昂(あ)げて嬌然として居るX夫人――だが、葉子はX夫人のつい先日迄を知って居た。黄色い皮膚、薄い下り眉毛(まゆげ)、今はもとの眉毛を剃(そ)ったあとに墨で美しく曳いた眉毛の下のすこし腫(はれ)ぽったい瞼(まぶた)のなかにうるみを見せて似合って居ても、もとの眉毛に対応して居た時はただありきたりの垂れ眼であった。今こそウェーブの額髪で隠れているが、ほんとうはこの間までまるだしの抜け上ったおかみさん[#「おかみさん」に傍点]額がその下にかくれている筈(はず)だ――葉子はその、先日までのX夫人を長年見て来たので、今日同じ夫人が、がらりと変った化粧法で作り上げた美容を見せられても、重ね絵のようについ先日までのX夫人の本当の容貌(ようぼう)が出て来て、現在のX夫人に見る美感の邪魔をする。それにもかかわらず麻川氏が変貌(へんぼう)以後のX夫人に、葉子より先に葉子の欠席した前回のこの会で遇(あ)い、それが麻川氏とX夫人との初対面であった為めか、ひどくこの夫人の美貌(びぼう)を激賞したということが、文壇の或方面で喧(やかま)しく、今日も麻川氏はこの夫人を観(み)る為めに、この会へ来たとさえ、葉子の耳のあたりの誰彼が囁(ささや)き合って居る。葉子の女性の幼稚な英雄崇拝観念が、自分の肯(がえ)んじ切れない対照に自分の尊敬する芸術家が、その審美眼を誤まって居る、というもどかしさで不愉快になったのだ。と云って、幾度見返しても現在のX夫人はまったく美しい。変なもどかしさだ。葉子は麻川氏と一緒に、X夫人の美を讃嘆(さんたん)して居ながら、何かにせもの[#「にせもの」に傍点]を随喜して居るような、自分を、麻川氏を、馬鹿にしてやり度(た)いような、と云って馬鹿に出来ないような、あいまいな不愉快に妙に心持ちをはぐらかされた。
こんな気持ちを葉子はその当時、或る雑誌からもとめられた「近時随感」のなかに書いた。もちろん当事者の名まえなど決して書かずただ一種変った自分の心理を叙述する材料としてかなり経緯(けいい)をはっきり書いた。(それを麻川氏が読んだか読まないか葉子は当時気にもとめなかったが、矢張り読んで居たことを一ヶ月間H屋に同宿して居るうちの麻川氏との交際で判(わか)った。)
とにかく、こんな前提は、いよいよとなると葉子の心から一掃されて、葉子にはただ崇拝する文学者麻川荘之介氏と同宿するという突然な事実ばかりが歴然と現前して来るのであった。その後の事を語る順序として葉子の鎌倉日記のうち多く麻川氏を書いて居る部分を摘出する。
某日。――麻川氏は私達より三四日後れ昨夜東京から越して来た。今朝早くから支那更紗(しなさらさ)(そんなものがあるかないか、だが麻川氏が前々年支那へ遊んだことからの聯想(れんそう)である。)のような藍色模様(あいいろもよう)の広袖浴衣(ひろそでゆかた)を着た麻川氏が、部屋を出たり入ったりして居る。着物も帯も氏の痩躯長身にぴったり合っている。氏が東京から越して来ると共に隣の部屋の床の間に、くすんで青味がかった小さな壺(つぼ)が、置かれたよう(私の錯覚かしら)な気がする。宿の主人が置いたのか、氏が持って来たのか、花は挿して無いし今後も挿さないような気がする。
某日。――麻川氏の太いバスの声が度々笑う。隣の棟に居て氏のノドボトケの慄(ふる)えるのを感じる。太いが、バスだが、尖鋭な神経線を束ねて筏(いかだ)にしそれをぶん流す河のような声だ。
某日。――主人が東京から来たので、麻川氏はこちらの部屋へ挨拶(あいさつ)に来た。庭続きの芝生の上を、草履で一歩一歩いんぎんに踏み坊ちゃんのような番頭さんのような一人の男を連れて居た。浅いぬれ縁に麻川氏は両手をばさりと置いて叮嚀(ていねい)にお辞儀をした。仕つけの好い子供のようなお辞儀だ。お辞儀のリズムにつれて長髪が颯(さっ)と額にかかるのを氏は一々掻(か)き上げる。一芸に達した男同志――それにいくらか気持のふくみもあるような――初対面を私は名優の舞台の顔合せを見るように黙って見て居た。
某日。――朝、洗面所で麻川氏に逢(あ)う。「僕、昨夜、向日葵(ひまわり)の夢を見ました。暁方(あけがた)までずっと見つづけましたよ。」と冷水につけた手で顔をごしごし擦(こす)り乍(なが)ら氏は私に云う。「それで今朝、頭が痛くありませんか。」私は何故だか氏に、こんなことを聞いて仕舞った。「ほおう。まるでゴッホの問答みたいですな。」麻川氏はこう云って、タオルで顔を拭(ふ)き終えて私の顔を正面から見た。眼が少し血走って居る。氏は「は、」と一つ声を句切って、「ではまた午後、………昼前は原稿を書きます。」と云って叮嚀(ていねい)にお辞儀をして部屋に入って行った。
午後わあわあと大声を立てる若い女が麻川氏の部屋へ来たようだ。夕方、恰好(かっこう)の好い中背の若い女の洋装姿が麻川氏の部屋から出て庭芝を踏んで帰るのを見かけた。横顔が少し下品だが西洋の活動女優のような線を見せた。「大川宗三郎君(作者註、大川氏は麻川氏の先輩で、その頃有名な耽美派(たんびは)作家とも悪徳派作家とも呼ばれて居た。)の妻君の妹ですよ。赫子ってお転婆さんですよ。」と藤棚の下で麻川氏が云った。番頭さんのような若い男が縁側で私の顔をうかがって居る。掃除した煙草盆(たばこぼん)を座敷に持って来たH屋譜代の婆やお駒さんは開けっぱなしの声で「へへえ、あれが大川さん御自慢の妹さんですか。」麻川氏は苦っぽく微笑して云った「別に自慢でも無いだろうが、細君より気軽に何処へでも連れて行ける女だからな。」「奥さんは日本風の顔立ちのおとなしい美人でしょう、妹さんは違いますね。」と私。麻川氏の番頭さんは云う「奥さんのような美人も好きだし、赫子さんのようなのも好きだし。」麻川氏「つまり、釈迦(しゃか)に拝し、キリストに拝し……。」「マホメットには誰がなる……ですかな。」と麻川氏の番頭さん。麻川氏「莫迦(ばか)。彼自身は飽(あく)まで厳粛なんだぞ。」
某日。――二三日前、画家のK氏が東京から来て麻川氏の部屋のメンバーになった。噂(うわさ)によれば夏目漱石先生が津田青楓氏を師友として居た以上K氏と麻川氏は親愛して居るのだそうだ。K氏は、頭を丸刈にしたこっくりした壮年期に入ったばかりの人、吃々(きつきつ)として多く語らず、東洋的なロマンチストらしい眼を伏せ勝ちにして居る。隻脚(せっきゃく)――だがその不自由さも今はK氏の詩情や憂愁を自らいたわる生活形態と一致させたやや自己満足の諦念(ていねん)にまで落ちつけたかに見うけられる。けれども、矢張り逃避の世界が、K氏をめぐって漠然と感じられる。それで麻川氏の性格や好みがますますK氏に傾倒して行くことも察せられる。それからすこしつき合って居るうちに、部厚なこっくりしたK氏の体格のどこかに落ちつきくさったそして非常にデリケートな神経が根を保っている。麻川氏は自分の屹々(きつきつ)した神経の尖端(せんたん)を傷めないK氏の外廓形態の感触に安心してK氏のなか味のデリカな神経に触接し得る適宜さでK氏をますます愛好して居るのではあるまいか。
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