日本の名随筆24 茶 |
作品社 |
1984(昭和59)年10月25日 |
1999(平成11)年7月10日第22刷 |
岡本かの子全集 第十二巻 |
冬樹社 |
1976(昭和51)年9月 |
それほど茶好きでなくとも、新茶には心ひかれる。
あの年寄りじみた、きつい苦みがないし、晴々しい匂ひがするし、茶といふよりも、若葉の雫を啜るといふ感じである。
色がいゝ。白磁の茶椀の半を満してゆらめく青湖の水。
さなりき、誘ふニンフも
誘はるゝ男妖精も共に髪ぞ青かりし
揺曳とした湯気の隙間から、茶椀の岸にさういふ美麗が見えるやうな気がする。
その茶椀を掌に享けて一口、二口、唇に触れては庭を眺める。実を付けた若楓の枝の下に池が在つて、底に透く陽光の水の宙に篦鮒が、昨年孵つた一寸ばかりの子鮒を四つほど従へて鰭を休めてゐる。このとき、身に合つた袷の上に、やゝ幅狭の博多帯が硬からず緩からず胸に締つてゐて呉れれば、他に何を望まう。しみ/″\日本の土に生れて日本の女であることが自分で味はれる。
西洋人の中で好んで日本の緑茶を飲むのはアメリカ人だが、必ず砂糖を入れて飲む。お話にならない。まして新茶の風味などは思ひもよらない。
およそ嗜好飲料は香料の悦びの外に、一種の客観性の心境を作らせる作用がある。世相が、まま、熱騰でなければ消沈に傾き易いときに、それに釣り込まれないやう、客観性を平衡に保つことは私たちに必要なことである。さればといつて、不経済、不健康ほどに嗜好飲料を摂るのも行き過ぎである。今や、天地爽麗の季に乗じて、新茶一椀の服涼は、忙中僅に許さるべき自然の贈りものではあるまいか。
煎茶道の中興の祖、上田秋成が書いてゐる「もう何も出来ぬ故、煎茶を飲んで死をきはめてゐるばかりだ」と。而も、それが何もかも、し尽した年齢七十五のときの秋成の言だから、茶には何処か余悠のあることが判る。
底本:「日本の名随筆24 茶」作品社
1984(昭和59)年10月25日第1刷発行
1999(平成11)年7月10日第22刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十二巻」冬樹社
1976(昭和51)年9月第1刷発行
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年12月4日作成
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