三度に一度の願いが叶って医者に注射をして貰ったときには病友は上機嫌で、へらりへらり笑った。食慾を催して鼈四郎に何を作れかにを作れと命じた。
葱とチーズを壺焼にしたスープ・ア・ロニオンとか、牛舌のハヤシライスだとか、莢隠元のベリグレット・ソースのサラダとか、彼がふだん好んだものを註文したので鼈四郎は慥え易かった。しかし家鴨の血を絞ってその血で家鴨の肉を煮る料理とか、大鰻をぶつ切りにして酢入りのゼリーで寄る料理とかは鼈四郎は始めてで、ベッドの上から病友に差図されながらもなかなか加減は難しかった。家鴨の血をアルコールランプにかけた料理盤で掻き混ぜてみると上品なしる粉ほどの濃さや粘りとなった。これを塩胡椒し、家鴨の肉の截片を入れてちょっと煮込んで食べるのだが、鼈四郎は味見をしてみるのに血生臭いことはなかった。巴里の有名な鴨料理店の家の芸の一つでまず凝った贅沢料理に属するものだと病友はいった。鰻の寄せものは伊太利移民の貧民街などで辻売している食品で、下層階級の食べものだといった。うまいものではなかった。病友はそれらの食品にまつわる思い出でも楽しむのか、慥えてやってもろくに食べもしないで、しかし次々にふらふらと思い出しては註文した。鴨のない時期に、鴨に似た若い家鴨を探したり、夏長けて莢は硬ばってしまった中からしなやかな莢隠元を求めたり鼈四郎は、走り廻った。病友はまたずっと溯った幼時の思い出を懐しもうとするのか、フライパンで文字焼を焼かせたり、炮烙で焼芋を作らせたりした。
これ等を鼈四郎は、病友が一期の名残りと思えばこそ奔走しても望みを叶えさしてやるのだが、病友はこれ等を娯しみ終りまだ薬の気が切れずに上機嫌の続く場合に、鼈四郎を遊び相手に労すのにはさすがの鼈四郎も、病友が憎くなった。病友は鼈四郎にうしろ頸に脹れ上って今は毬が覗いているほどになっている癌の瘤へ、油絵の具で人の顔を描けというのである。「誰か友だちを呼んで見せて、人面疽が出来たと巫山戯てやろう」鼈四郎が辞んでも彼は訊入れなかった。鼈四郎は渋々筆を執った。繃帯を除くとレントゲンの光線焦けと塗り薬とで鰐皮色になっている堆いものの中には執拗な反人間の意志の固りが秘められているように思われる。内側からしんの繁凝が円味を支え保ち、そしてその上に程よい張度の肉と皮膚が覆っている腫物は、鋭いメスをぐさと刺し立てたい衝動と、その意地張った凝り固りには、ひょぐって揶揄してやるより外に術はないという感じを与えられる。腫物の皮膚に油絵の具のつきはよかった。彼は絵の具を介して筆尖でこの怪物の面を押し擦るタッチのうちに病友がいかにこの腫物を憎んだか。そして憎み剰った末が、悪戯ごころに気持をはぐらかさねばならないわけが判るような気がした。「思い切り、人間の、苦痛というものをばかにした顔に描いてやれ、腫物とは見えない人の顔に」彼は、人の顔らしく地塗りをし、隈取りをし鼻、口、眼と描き入れかけた。病友はここまで歯を食い縛って我慢していたが、「た た た た た た」といって身体をすさらせた。彼はいった。「さすがに堪らん、もう、ええ、あとはたれか痛みの無くなった死骸になってから描き足して呉れ」それゆえ、腫物の上に描いた人の顔は瞳は一方しか入れられずに、しかも、ずっている。鼈四郎は病友がいった通り、彼が死んでからも顔を描き上げようとはしなかった。隻眼を眇にして睨みながら哄笑している模造人面疽の顔は、ずった偶然によって却って意味を深めたように思えた。人生の不如意を、諸行無常を眺めやる人間の顔として、なんで、この上、一点の描き足しを附け加える必要があろう。
鼈四郎は病友の屍体の肩尖に大きく覗いている未完成の顔をつくづく見瞠り「よし」と独りいって、屍体を棺に納め、共に焼いてしまったことであった。
病友に痛みの去る暇なく、注射は続いた。流動物しか摂れなくなって、彼はベッドに横わり胸を喘ぐだけとなった。鼈四郎は、それが夜店の膃肭獣売りの看板である膃肭獣の乾物に似ているので、人間も変れば変るものだと思うだけとなった。病友は口から入れるものは絶ち、苦痛も無くなってしまったらしい。医者は臨終は近いと告げた。看護婦もモデルの娘も涙の眼をしょぼしょぼさせながら帰り支度の始末を始め出した。病友は朦々として眠っているのか覚めているのか判らない場合が多い。けれども咽頭奥で呟くような声がしているので鼈四郎が耳を近付けてみると、唄を唄っているのだった。病友がこういう唄を唄ったことを一度も鼈四郎は聞いたことはなかった。覚束ない節を強いて聞分けてみると、それは子守唄だった。「ねんころりよ、ねんころりねんころり」
鼈四郎の顔が自分に近付いたのを知って病友は努めて笑った。そして喘ぎ喘ぎいう文句の意味を理解に綴ってみるとこういうのだった。「どこを見渡してもさっぱりしてしまって、まるで、何にもない。いくら探しても遺身の品におまえにやるものが見付からないので困った。そうそう伯母さんが東京に一人いる。これは無くならないでまだある。遠方にうすくぼんやり見える。これをおまえにやる。こりゃいいもんだ。やるからおまえの伯母さんにしなさい。」
病友は死んだ。店の旧取引先か遊び仲間の知友以外に京都には身寄りらしいものは一人も無かった。東京の伯母なるものに問合すと、年老いてることでもあり葬儀万端然るべくという返事なので鼈四郎は、主に立って取仕切り野辺の煙りにしたことであった。
その遺骨を携えて鼈四郎は東京に出て来た。東京生れの檜垣の主人はもはや無縁同様にはなっているようなものの菩提寺と墓地は赤坂青山辺に在った。戸主のことではあり、ともかく、骨は菩提寺の墓に埋めて欲しいという伯母の希望から運んで来たのであったが、鼈四郎は東京のその伯母の下町の家に落付き、埋葬も終えて、序にこの巨都も見物して京都に帰ろうとする一ヶ月あまりの間に、鼈四郎はもう伯母の擒となっていた。
この伯母は、女学校の割烹教師上りで、草創時代の女学校とてその他家政に属する課目は何くれとなく教えていた。時代後れとなって学校を退かされてもこれが却って身過ぎの便りとなり、下町の娘たちを引受けて嫁入り前の躾をする私塾を開いていた。伯母も身うちには薄倖の女で、良人には早く死に訣れ、四人ほどの子供もだんだん欠けて行き、末の子の婚期に入ったほどの娘が一人残って、塾の雑事を賄っていた。貧血性のおとなしい女で、伯母に叱られては使い廻され、塾の生徒の娘たちからは姉さんと呼ばれながら少しばかにされている気味があった。何かいわれると、おどおどしているような娘だった。
伯母はむかし幼年で孤児となった甥の檜垣の主人を引取り少年の頃まで、自分の子供の中に加えて育てたのであったが、以後檜垣の主人は家を飛出し、外国までも浮浪い歩るいて音信不通であったこの甥に対し、何の愛憎も消え失せているといった。しかし、このまま捨置くことなら檜垣の家は後嗣絶えることになるといった。
甥の檜垣の家が宗家で、伯母はその家より出て分家へ嫁に行ったものである。伯母はいった、自分の家は廃家しても関わぬ、しかし檜垣の宗家だけは名目だけでも取留めたい。そこで相談である。もし「それほど嫌でなかったら――」自分の娘を娶って呉れて、できた子供の一人を檜垣の家に与え、家の名跡だけで復興さして貰い度い。さすれば自分に取っては宗家への孝行となるし、あなたにしても親友への厚い志となる。「第一、貰って頂き度い娘は、檜垣に取ってたった一人の従兄弟女である。これも何かのご縁ではあるまいか。」
始めこの話を伯母から切出されたときに鼈四郎は一笑に附した。あの々として芸術三昧に飛揚して没せた親友の、音楽が済み去ったあとで余情だけは残るもののその木地は実は空間であると同じような妙味のある片付き方で終った。その病友の生涯と死に対し、伯母の提言はあまりに月並な世俗の義理である。どう矧ぎ合わしても病友の生涯の継ぎ伸ばしにはならない。伯母のいう末の娘とて自分に取り何の魅力もない。「そんなことをいったって――」鼈四郎はひょんな表情をして片手で頭を抱えるだけてあったが、伯母の説得は間がな隙がな弛まなかった。「あなたも東京で身を立てなさい。東京はいいところですよ」といって、鼈四郎の才能を鑑検し、急ぎ蛍雪館はじめ三四の有力な家にも小使い取りの職仕を紹介してこの方面でも鼈四郎を引留める錨を結びつけた。伯母は蛍雪館が下町に在った時分姉娘のお千代を塾で引受けて仕込んだ関係から蛍雪とは昵懇の間柄であった。
何という無抵抗無性格な女であろうか。鼈四郎は伯母の末の娘で檜垣の主人の従姉妹に当るこの逸子という女の、その意味での非凡さにもやがて搦め捕られてしまった。鼈四郎のような生活の些末の事にまで、タイラントの棘が突出ている人間に取り、性抜きの薄綿のような女は却って引懸り包まれ易い危険があったのだった。鼈四郎の世間に対する不如意の気持から来る八つ当りは、横暴ないい付けとなって手近かのものへ落ち下る。彼女はいつもびっくりした愁い顔で「はいはい」といい、中腰駈足でその用を足そうと努める。自分の卑屈な役割は一度も顧ることなしに、また次の申付けをおどおどしながら待受けているさまは、鼈四郎には自分が電気を響かせるようで軽蔑しながら気持がよいようになった。世を詛い剰って、意地悪く吐出す罵倒や嘲笑の鋒尖を彼女は全身に刺し込まれても、ただ情無く我慢するだけ、苦鳴の声さえ聞取られるのに憶している。肌目がこまかいだけが取得の、無味で冷たく弱々しい哀愁、焦れもできない馬鹿正直さ加減。一方、伯母は薄笑いしながら説得の手を緩めない。鼈四郎としては「何の」と思いながら、逸子が必要な身の廻りのものとなった。結婚同様の関係を結んでしまった。ずるずるべったりに伯母の望む如く、鼈四郎は、東京居住の人間となり逸子を妻と呼ぶことにしてしまった。そして檜垣の主人が死ぬ前に譫言にいった「伯母をおまえにやる。おまえの伯母にしろ」といった言葉が筋書通りになった不思議さを、ときどき想い見るのであった。
京都に一人残っている生みの母親、青年近くまで養ってくれた拓本の老職人のことも心にかからないことはないけれども、鼈四郎の現在のような境遇には、彼等との関係はもとからの因縁が深いだけに、それを考えに上すことは苦しかった。この撥ぜ開けた巨都の中で一旗揚げる慾望に燃え盛って来た鼈四郎に取り、親友でこそあれ、他人の伯母さんを伯母さんと呼ぶぐらいの親身さが抜き差しができて責任が軽かった。責任感が軽くて世話をして呉れる老女は便利だった。しかし生きてるうちは好みに殉じ死に向ってはこれを遊戯視して、一切を即興詩のように過したかに見えた檜垣の主人が譫言の無意識でただ一筋、世俗的な糸をこの世に曳き遺し、それを友だちの自分に絡みつけて行って、しかもその糸が案外、生あたたかく意味あり気なのを考えるのは嫌だった。
伯母が世話をして呉れた下町の三四の有力な家の中で、鼈四郎は蛍雪館の主人に一ばん深く取入ってしまった。
蛍雪館の主人は、江戸っ子漢学者で、少壮の頃は、当時の新思想家に違いなかった。講演や文章でかなり鳴した。油布の支那服なぞ着て、大陸政策の会合なぞへも出た。彼の説は時代遅れとなり妻の変死も原因して彼は公的のものと一切関係を断ち、売れそうな漢字辞典や、受験本を書いて独力で出版販売した。当ったその金で彼は家作や地所を買入れ、その他にも貨殖の道を講じた。彼は小富豪になった。
彼は鰥で暮していた。姉のお千代に塾をひかしてから主婦の役をさせ、妹のお絹は寵愛物にしていた。蛍雪の性癖も手伝い、この学商の家庭には檜垣の伯母のようなもの以外出入りの人物は極めて少かった。新来とはいえ蛍雪に取って鼈四郎は手に負えない清新な怪物であった。琴棋書画等趣味の事にかけては大概のことの話相手になれると同時に、その話振りは思わず熱意をもって蛍雪を乗り出させるほど、話の局所局所に、逆説的な弾機を仕掛けて、相手の気分にバウンドをつけた。中でも食味については鼈四郎は、実際に食品を作って彼の造詣を証拠立てた。偏屈人に対しては妙に心理洞察のカンのある彼は、食道楽であるこの中老紳士の舌を、その方面から暗んじてしまって、嗜慾をピアノの鍵板のように操った。鰥暮しで暇のある蛍雪は身体の中で脂肪が燃えでもするようにフウフウ息を吐きながら、一日中炎天の下に旅行用のヘルメットを冠って植木鉢の植木を剪り嘖んだり、飼ものに凝ったり、猟奇的な蒐集物に浮身をしたりした。時には自分になまじい物質的な利得ばかりを与えながら昔日の尊敬を忘れ去り、学商呼ばわりする世情を、気狂いのようになって悲憤慷慨することもある。そんな不平の反動も混って蛍雪の喰べものへの執し方が激しくなった。
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