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食魔(しょくま)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 7:49:55  点击:  切换到繁體中文


 あの大きな童女のような女をして眼をみはらせ、五感からけ入れる人の世の満足以上のものを彼女をして無邪気に味い得しめたなら料理それ自身の手柄だ。自分なんかの存在はどうだってよい。彼はその気持から、夫人が好きだといった、季節外れのかにを解したり、一口蕎麦そばを松江風にねたりして、献立に加えた。ふと幼いとき、夜泣きして、かんの虫の好く、宝来豆ほうらいまめというものを欲しがったとき老僧の父がとぼとぼと夜半の町へ出て買って来て呉れたときの気持をおもい出した。鼈四郎は捏ね板へ涙のしずくを落すまいとして顔を反向けた。所詮しょせん、料理というものはいたわりなのであろうか。そして労りごころを十二分に発揮できる料理の相手は、白痴か、子供なのではあるまいか。
 しかし鼈四郎は夫人が通客であった場合を予想し、もしその眼で見られても恥しからぬよう、坂本の諸子川の諸子魚もろことか、鞍馬の山椒皮からかわなども、逸早いちはやく取寄せて、食品中に備えた。
 夫人は、大事そうに、感謝しながら食べ始めた。「この子附けなますの美しいこと」「このえびいも肌目きめこまかく煮えてますこと」それから唇にから揚の油が浮くようになってからは、ただ「おいしいわ」「おいしいわ」というだけで、専心にべ進んで行く。鼈四郎は、再び首尾はいかがと張り詰めていたものが食品の皿が片付けられる毎に、ずしんずしんと減って、気の衰えをさえ感ずるのだった。
 夫人も健啖けんたんだったが、画家の良人はより健啖だった。みな残りなく食べ終り、煎茶茶椀せんちゃぢゃわんを取上げながらいった。「ご馳走ちそうさまでした。御主人に申すが、この方が、よっぽど、あんたの芸術だね」そして夫人の方に向い、それを皮肉でなく、好感を持つ批評として主人に受取らせるよう夫人の註解ちゅうかいした相槌あいづちを求めるような笑い方をしていた。夫人も微笑したが、声音こわね生真面目きまじめだった。「わたくしも、警句でなく、ほんとにそう思いますわ。立派な芸術ですわ。」
 鼈四郎は図星にめたと思うと同時に、ぎくりとなった。彼はいかにふだん幅広い口を利こうと、衷心では料理より、琴棋書画に位があって、先生と呼ばれるに相応ふさわしい高級の芸種であるとする世間月並の常識をみしようもない。その高きものを前日は味とされ、今日低きものに於て芸術たることを認められた。天分か、教養か、どちらにしろ、もはや自分の生涯の止めを刺された気がした。この上、何をかいおうぞ。
 加茂川は、やや水嵩みずかさ増して、ささ濁りの流勢は河原の上を八千岐やちまたに分れ下へ落ちて行く、蛇籠じゃかごに阻まれる花あくたの渚の緑の色取りは昔に変りはないけれども、魚は少くなったかして、あさる子供の姿も見えない。堤の芽出し柳の煙れるこずえに春なかばの空は晴れみ曇りみしている。
 しばらく沈黙の座に聞澄している淙々そうそうとした川音は、座をそのままなつかしい国へ押し移す。鼈四郎べつしろうは、この川下の対岸に在って大竹原で家棟は隠れ見えないけれども、まさしくこの世に一人残っている母親のことを思い出す。女餓鬼めがきの官女のような母親はそこで食味に執しながら、一人息子が何でもよいたつきの業を得て帰って来るのを待っている。しばらく家へは帰らないが、拓本職人の親方の老人は相変らず、小学校の運動会を漁り歩き遊戯をする児童たちのいたいけな姿に老いの迫るを忘れようと努めているであろうか。
 鼈四郎は、笑いに紛らしながら、幼時、母子二人の夕餉ゆうげの菜のために、この河原で小魚をすくい帰った話をした。「いままで、ずいぶん、いろいろなうまいものも食いましたが、いま考えてみると、あのとき母が煮てれた雑魚ざこの味ほどうまいと思ったものに食い当りません」それから彼は、きょう、料理中に感じたことも含めて、「すると、味と芸術の違いはいたわりがあると、無いとの相違でしょうかしら」といった。
 これにき夫人は早速に答えず、先ず彼等が外遊中、巴里パリの名料理店フォイヨで得た経験を話した。その料理店の食堂は、扉の合せ目も床の敷ものも物音立てぬよう軟い絨氈じゅうたんや毛織物で用意された。色も刺激を抜いてある。天井や卓上の燭光も調節してある。総ては食味に集中すべく心が配られてある。給仕人はイゴとか男性とかいういかついものは取除かれた品よくさらされた老人たちで、いずれはこの道で身を滅した人間であろう、今は人が快楽することによって自分も快楽するという自他移心の術に達してるように見ゆる。食事は聖餐せいさんのような厳かさと、ランデブウのようなしめやかさで執り行われて行く。今やテーブルの前には、はつ夏の澄める空を映すかのような薄浅黄色のスープが置かれてある。いつの間に近寄って来たか給仕の老人は輪切りにした牛骨の載れる皿を銀盤で捧げて立っている。老人は客が食指を動し来る呼吸につぼを合せ、ちょっと目礼してさじで骨の中から髄を掬い上げた。汁の真中へ大切に滑り浮す。それは乙女の娘生きしょうのこころを玉に凝らしたかのよう、ぶよぶよ透けるが中にいささか青春のうるみによどんでいる。それは和食の鯛の眼肉のあつものにでも当る料理なのであろうか。老人は恭しく一礼して数歩退いて控えた。いかに満足に客がこの天の美漿びしょうい取るか、成功を祈るかのよう敬虔けいけんに控えている。もちろん料理は精製されてある。サービスは満点である。以下デザートを終えるまでのコースにも、何一つ不足と思えるものもなく、いわゆる善尽し、美尽しで、感嘆の中に食事を終えたことである。
「しかしそれでいて、私どもにはあとで、めこくられて、扱いまわされたという、後口に少し嫌なものが残されました。」
「面と向って、お褒めするのも気まりが悪うございますから、あんまり申しませんが、そういっちゃ何ですが、今日の御料理には、ちぐはぐのところがございますけれど、まことというものが徹しているような気がいたしました。」
 意表な批評が夫人の口から次々に出て来るものである。料理に向ってまことなぞという言葉を使ったのを鼈四郎はかつて聞いたことはない。そして、まことまごころ、こういうものは彼が生れや、生い立ちによるねた心からその呼名さえ耳にすることに反感を持って来た。自分がもしそれを持ったなら、まるで、変り羽毛の雛鳥ひなどりのように、それを持たない世間から寄ってたかって突きいじめられてしまうではないか。弱きものよなんじの名こそ、まこと。自分にそういうものをみし、強くあらんがための芸術、偽りに堪えて慰まんための芸術ではないか。歌人の芸術家だけに旧臭ふるくさ否味いやみなことをいう。道徳かぶれの女学生でもいいそうな芸術批評。歯牙しがに懸けるには足りない。
 鼈四郎はこう思って来ると夫妻の権威は眼中に無くなって、肩肘かたひじがむくむくと平常通り聳立そびえたって来るのを覚えた。「はははは、まこと料理ですかな」
 車が迎えに来て、夫妻はいとまを告げた。鼈四郎はこれからどちらへとくと、夫妻は壬生寺みぶでらへおまいりして、壬生狂言の見物にと答えた。鼈四郎は揶揄やゆして「善男善女の慰安には持って来いですね」というと、ちょっとまゆひそめた夫人は「あれをあなたは、そうおとりになりますの、私たちは、あの狂言のでんがんでんがんという単調な鳴物を地獄の音楽でも聞きに行くように思って参りますのよ」というと、良人おっとの画家も、実は鼈四郎の語気に気が付いていてしゃくに触ったらしく「君おれたちは、善男善女でもこれで地獄は一遍たっぷり通って来た人間たちだよ。だが極楽もあまり永く場塞ばふさぎしては済まないと思って、また地獄を見付けに歩るいているところだ。そう甘くは見なさるなよ」とたしなめた。夫人はその良人の肘をひいて「こんな美しい青年をとがめ立するもんじゃありませんわ。人間の芸術品が壊れますわ」自分のいったことを興がるのか、わっわと笑って車の中へけ込んだ。
 鼈四郎はその後一度もこの夫妻に会わないが、彼の生涯に取ってこの春の二回の面会は通り魔のようなものだった。折角設計して来た自分らしい楼閣を不逞ふていの風がさらい取った感じが深い芸術なるものを通して何かあるとは感づかせられた。しかし今更、宗教などという黴臭かびくさいと思われるものに関る気はないし、そうかといって、夫人のいったまこととかまごころとかいうものを突き詰めて行くのは、安道学らしくて身慄みぶるいが出るほど、怖気おぞけが振えた。結局、安心立命するものをとらえさえしたらいいのだろう。死の外にそれがあるか。必ず来て総てが帳消しされる死、この退ぴきならないものへ落付きどころを置き、その上での生きてるうちが花という気持で、せいぜい好きなことに殉じて行ったなら、そこに出て来る表現に味とか芸術とかのわかれの議論は立つまい。「いざとなれば死にさえすればいいのだ」鼈四郎は幼い時分からつらい場合、不如意な場合には逃れずさまよい込み、片息をついたこの無可有の世界の観念を、青年の頭脳でしかと積極的に思想にまとめ上げたつもりでいる。これを裏書するように檜垣の主人の死が目前に見本を示した。
 檜垣の主人は一年ほどまえから左のうしろくびがんが出はじめた。始めは痛みもなかった。ちょっと悪性のものだから切らん方がよいという医師の意見と処法に従ってレントゲンなどかけていたが。癌は一時小さくなって、また前よりれを増した。とうとう痛みが来るようになった。医者も隠し切れなくなったか肺臓癌はいぞうがんがここに吹出したものだと宣告した。これを聞いても檜垣の主人は驚かなかった。「したいと思ったことでできなかったこともあるが、まあ人にくらべたらずいぶんした方だろう」「この辺で節季の勘定を済すかな」笑いながらそういった。それから身の上の精算に取りかかった。店を人に譲り総ての貸借関係を果すと、少しばかり余裕の金が残った。「僕はにぎやかなところで死にたい」彼はそれをもって京極の裏店に引越した。美しい看護婦と、気に入りのモデルの娘を定まった死期までの間の常傭じょうやといにして、そこで彼は彼の自らいう「天才の死」の営みにかかった。
 売り惜んだ彼が最後に気に入りの蒐集品しゅうしゅうひんで部屋の中を飾った。それでも狭い部屋の中は一ぱいで猶太人ユダヤじんの古物商の小店ほどはあった。
 彼はその部屋の中に彼が用いつけの天蓋附てんがいつきのベッドを据えた。もちろんにせものであろうが、彼はこれを南北戦争時分にアメリカへ流浪した西班牙スペイン王属出の吟遊詩人が用いたものだといっていた。柱にラテン文字で詩は彫付けてあるにはあった。彼はそこで起上って画を描き続けた。
 がんはときどき激しく痛み出した。服用の鎮痛剤ぐらいでは利かなかった。彼は医者に強請せがんで麻痺薬まひやくを注射して貰う。身体が弱るからとてなかなかしてれない。全身、蒼黒あおぐろくなりその上、やせさらばう骨のくぼみの皮膚にはうす紫のくままで、漂い出した中年過ぎの男は嵩張かさばったうしろくびこぶに背をくぐめられ侏儒しゅじゅにして餓鬼のようである。夏の最中さなかのこととて彼は裸でいるので、その見苦しさは覆うところなく人目を寒気立した。痛みが襲って来ると彼はその姿でベッドの上で※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがき苦しむ。全身に水を浴びたよう脂汗をにじみ出し長身の細い肢体をねじらし擦り合せ、甲斐かいない痛みをき取ろうとするさまは、蛇が難産をしているところかなぞのように想像される。いくら認め合った親友でも、鼈四郎べつしろうは友の苦しみを看護みとることは好まなかった。
 苦しみなぞというものは自分一人のものだけでさえ手にあまっている。殊に不快ということは人間の感覚にみ付き易いものだ。芸術家には毒だ。避けられるだけ避けたい。そこで鼈四郎は檜垣の病主人に苦悶くもんが始まる、と、すーっと病居を抜け出て、茶を飲んで来るか、しゃべって来るのであった。だが病友は許さなくなった。「なんだ意気地のない。しっかり見とれ、かく成り果てるとまた痛快なもんじゃから――」息をあえがせながらいった。
 鼈四郎は、手を痛いほど握り締め、自分も全身に脂汗をにじみ出させて、見ることに堪えていた。死はおそろしくはないが、死へ行くまでの過程に嫌なものがあるという考えがちらりと念頭をかすめて過ぎた。だがそういうことは病主人が苦悶を深め行くにつれかえって消えて行った。あまりのいたましさにしびれてぽかんとなってしまった鼈四郎の脳底に違ったものが映り出した。見よ、そこにうごめくものは、もはやそれは生物ではない。埃及エジプトのカタコンブから掘出した死蝋しろうであるのか、西蔵チベット洞窟どうくつから運び出した乾酪かんらく屍体したいであるのか、永くいのちの息吹きを絶った一つの物質である。しかも何やら律動しているところは、現代にわからない巧妙繊細な機械仕掛けが仕込まれた古代人形のようでもある。蒼黒くくすんだ古代人形はほぼ一定の律動をもって動く、くねくね、きゅーっぎゅっと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いて、もくんと伸び上る。くずおれて、そして絶息するようにふーむと※(「口+奄」、第3水準1-15-6)く。同じ事が何度も繰返される。モデル娘は惨ましさに泣きかけた顔をおかしさでゆがみ返させられ、妙な顔になってそでから半分のぞかしている。看護婦は少し怒りを帯びた深刻な顔をして団扇うちわあおいでいる。
 鼈四郎は気付いた。病友はこの苦しみの絶頂にあって遊ぼうとしているのだ。彼は痛みに対抗しようとする肉体の自らなる※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)きに、必死とリズムを与えて踊りに慥えているのだ。そうすることが少しでも病痛の紛らかしになるのか、それとも友だちの、ふだんいう「絶倫の芸術」を自分に見せようため骨を折っているのか。病友はまた踊る、くねくね、ぎゅーっ、きゅ、もくんもくんそして頽れ絶息するようにふーむと※(「口+奄」、第3水準1-15-6)く。それは回教徒の祈祷きとうの姿に擬しつつ実は、聞えて来る活動館の安価な楽隊の音に合わせているのだった。
 鼈四郎が、なおおどろいたことは、病友は、そうしながら向う側の壁に姿見鏡を立てかけさせ、自分の悲惨な踊りを、自ら映しみて効果を味っていることだった。映像を引立たせる背景のため、鏡の縁の中に自分の姿と共に映し入るよう、青い壁絨とつぼに夏花までベッドの傍に用意してあるのだった。鼈四郎に何か常識的な怒りが燃えた。「病人に何だって、こんなばかなことをさしとくのだ」鼈四郎はモデルの娘に当った。モデル娘は「だって、こちらがおっしゃるんですもの」と不服そうにいった。病友はつまらぬとがめ立をするなとたしなめる眼付をした。

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