それを他人事のように聞き流しながら、復一は関西から届いた蘭鋳の番いに冬越しの用意をしてやっていた。菰を厚く巻いてやるプールの中へ、差し込む薄日に短い鰭と尾を忙しく動かすと薄墨の肌からあたたかい金爛の光が眼を射て、不恰好なほどにも丸く肥えて愛くるしい魚の胴が遅々として進む。復一は生ける精分を対象に感じ、死灰の空漠を自分に感じ、何だか自分が二つに分れたもののように想えて面白い気がした。復一は久し振りに声を挙げて笑った。すると宗十郎が背中を叩いて云った。
「びっくりするじゃないか。気狂いみたいな笑い方をして、いくら暢気なおれでも、ひやりとしたよ」
年の暮も詰ってから真佐子に二番目の女の子が生れたという話で、復一は崖上の中祠堂に真佐子の姿を見ずに年も越え、梅の咲く頃に、彼女の姿を始めて見た。また子を産んで、水を更えた後の藻の色のように彼女の美はますます澄明と絢爛を加えた。復一が研究室に額にして飾っておく神魚華鬘の感じにさえ、彼女は近づいたと思った。今日は真佐子は午後から女詩人の藤村女史とロマネスクの休亭に来ていた。二人の女は熱心に話し合っている。枯骨瓢々となった復一も、さすがに彼女等が何を話すか探りたかった。夕方近くあかこを取ることを装って、復一はこそこそと崖の途中の汚水の溜りまで登って、そこで蹲った。彼は三十前なのに大分老い晒した人のような身体つきや動作になっていた。二人の婦人が大分前から話しつづけていた問題だったらしい。けれど復一のところまでははっきり聞えて来なかった。実はそこで藤村女史と真佐子との間に交されている会話の要点はこんなことなのである……真佐子が部屋をロココに装飾し更えようと提議するのに藤村女史は苦り切った間らしいものを置いて、
「四五年前にあなたがバロックに凝ったさえ、わたしは内心あんまり人工的過ぎると思って賛成しなかったのよ。まして、ロココに進むなんて一層人工的ですよ。趣味として滅亡の一歩前の美じゃなくって」
「でも、どうしてもそうしたくって仕方がないのよ」
「真佐子さん、あなたは変ってるわね」
「そうかしら。あたしはあなたがいつかわたしのことおっしゃったように、実際、蒼空と雲を眺めていて、それが海と島に思えると云った性質でしょうね」
復一はそっと庭へ降りて来て、目だたぬ様に軒伝いに夕暮近い研究室へ入った。復一はそこの粗末な椅子によってじっと眼を瞑った。彼は近頃ほとんど真佐子と直接逢ってはいない。今日のように真佐子が中祠堂に友人と連れ立って来ても子供や夫と来てもほとんどそこで云う真佐子達の会話は聞き取れない。だが復一は遠くからでも近頃の真佐子のけはいを感じて、今は自分に托した金魚の事さえ真佐子は忘れているかも知れない、真佐子はますます非現実的な美女に気化して行くようで儚ない哀感が沁々と湧くのであった。
蘭鋳から根本的に交媒を始め出した復一はおよその骨組の金魚を作るのに三年かかった。それから改めて、年々の失敗へと出立した。
「日暮れて道遠し」
復一は目的違いの金魚が出来ると、こう云った。しかし、ただ云うだけで、何の感傷も持たなかった。ただ、いよいよ生きながら白骨化して行く自分を感じて、これではいけないとたとえ遠くからでも無理にも真佐子を眺めて敵愾心やら嫉妬やら、憎みやらを絞り出すことによって、意力にバウンドをつけた。
古池には出来損じの名金魚がかなり溜った。復一が売ることを絶対に嫌うので、宗十郎夫婦は、ぶつぶつ云いながら崖下の古池へ捨てるように餌をやっていた。宗十郎夫婦は苦笑してこの池を金魚の姥捨て場だといっていた。
それからまた失敗の十年の月日が経った。崖の上下に多少の推移があった。鼎造は死んで、養子が崖邸の主人となり、極めて事業を切り縮めて踏襲した。主人となった夫は真佐子という美妻があるに拘らず、狆の様な小間使に手をつけて、妾同様にしているという噂が伝わった。婿の代になって崖の上からの研究費は断たれたので、復一は全く孤立無援の研究家となった。
宗十郎は死んで一人か二人しか弟子のない荻江節教授の道路口の小門の札も外された。
真佐子は相変らず、ときどきロマネスクの休亭に姿を見せた。現実の推移はいくらか癖づいた彼女の眉の顰め方に魅力を増すに役立つばかりだ。いよいよ中年近い美人として冴え返って行く。
昭和七年の晩秋に京浜に大暴風雨があって、東京市内は坪当り三石一斗の雨量に、谷窪の大溝も溢れ出し、せっかく、仕立て上げた種金魚の片魚を流してしまった。
同じく十年の中秋の豪雨は坪当り一石三斗で、この時もほとんど流しかけた。
そんなことで、次の年々からは秋になると、復一は神経を焦立てていた。ちょっとした低気圧にも疳を昂ぶらせて、夜もおろおろ寝られなかった。だいぶ前から不眠症にかかって催眠剤を摂らねば寝付きの悪くなっていた彼は、秋近の夜の眠のためには、いよいよ薬を強めねばならなかった。
その夜は別に低気圧の予告もなかったのだが、夜中から始めてぼつぼつ降り出した。復一は秋口だけに、「さあ、ことだ」とベッドの中で脅えながら、何度も起き上ろうとしたが、意識が朦朧として、身体もまるで痺れているようだった。雨声が激しくなると、びくりとするが、その神経の脅えは薬力に和められて、かえって、すぐその後は眠気を深めさせる。復一はベッドに仰向けに両肘を突っ張り、起き上ろうとする姿勢のまま、口と眼を半開きにしてしばらく鼾をかいていた。ようやく薬力が薄らいで、復一が起き上れたのは、明け方近くだった。
雨は止んで空の雲行は早かった。鉛色の谷窪の天地に木々は濡れ傘のように重く搾まって、白い雫をふしだらに垂らしていた。崖肌は黒く湿って、またその中に水を浸み出す砂の層が大きな横縞になっていた。崖端のロマネスクの休亭は古城塞のように視覚から遠ざかって、これ一つ周囲と調子外れに堅いものに見えた。
七つ八つの金魚は静まり返って、藻や太藺が風の狼藉の跡に踏みしだかれていた。耳に立つ音としては水の雫の滴る音がするばかりで、他に何の異状もないように思われた。魯鈍無情の鴉の声が、道路傍の住家の屋根の上に明け方の薄霧を綻ばして過ぎた。
大溝の水は増したが、溢れるほどでもなく、ふだんのせせらぎはなみなみと充ちた水勢に大まかな流れとなって、かえって間が抜けていた。
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