「ご紹介してもあなたには興味のないらしい人よ」
それは本当だと思った。自分の偶像であるこの女を欠き砕かない夫ならそれで充分としなければならない。その程度の夫なら、むしろ持っていてくれる方が、自分は安心するかも知れない。
「ときどきものを送って下さって有難う」
「これは湖のそばで出来た陶ものです」
復一は紙包を置いて立ち上った。
「まあ、お気の毒ね。復一さんが帰ってらして私も心強くなりますわよ」
復一は逢ってみれば平凡な彼女に力抜けを感じた。どうして自分が、あんな女に全生涯までも影響されるのかと、不思議に感じた。薄暗くなりかけの崖の道を下りかけていると、晩鶯が鳴き、山吹がほろほろと散った。復一はまたしてもこどもの時真佐子の浴せた顎の裏の桜の花びらを想い起し、思わずそこへ舌の尖をやった。何であろうと自分は彼女を愛しているのだ。その愛はあまりに惑って宙に浮いてしまってるのだ。今更、彼女に向けて露骨に投げかけられるものでもなし、さればと云って胸に秘め籠めて置くにも置かれなくなっている。やっぱり手慣れた生きものの金魚で彼女を作るより仕方がない。復一はそこからはるばる眼の下に見える谷窪の池を見下して、奇矯な勇気を奮い起した。
谷窪の家の庭にささやかながらも、コンクリート建ての研究室が出来、新式の飼育のプールが出来てみれば、復一には楽しくないこともなかった。彼は親類や友人づきあいもせず一心不乱に立て籠った。崖屋敷の人達にも研究を遂げる日までなるべく足を向けてもらわぬようそれとなく断っておいた。
「表面に埋もれて、髄のいのちに喰い込んで行く」
そういう実の入った感じが無いでもなかった。自分の愛人を自分の手で創造する……それはまたこの世に美しく生れ出る新らしい星だ……この事は世界の誰も知らないのだ。彼は寂しい狭い感慨に耽った。彼は郡山の古道具屋で見付けた「神魚華鬘之図」を額縁に入れて壁に釣りかけ、縁側に椅子を出して、そこから眺めた。初夏の風がそよそよと彼を吹いた。青葉の揮発性の匂いがした。ふと彼は湖畔の試験所に飼われてある中老美人のキャリコを新らしい飼手がうまく養っているかが気になった。
「あんな旧いものは見殺しにするほどの度胸がなければ、新しいものを創生する大業は仕了わせられるものではない。」
ついでにちらりと秀江の姿が浮んだ。
彼はわざとキャリコが粗腐病にかかって、身体が錆だらけになり、喘ぐことさえ出来なくなって水面に臭く浮いている姿を想像した。ついでにそれが秀江の姿でもあることを想像した。すると熱いものが脊髄の両側を駆け上って、喉元を切なく衝き上げて来る。彼は唇を噛んでそれを顎の辺で喰い止めた。
「おれは平気だ」と云った。
その歳は金魚の交媒には多少季遅れであり、まだ、プールの灰汁もよく脱けていないので、産卵は思いとどまり、復一は親魚の詮索にかかった。彼は東京中の飼育商や、素人飼育家を隈なく尋ねた。覗った魚は相手が手離さなかった。すると彼は毒口を吐いてその金魚を罵倒するのであった。
「復一ぐらい嫌な奴はない。あいつはタガメだ」
こういう評判が金魚家仲間に立った。タガメは金魚に取付くのに凶暴性を持つ害虫である。そんなことを云われながらも彼はどうやらこうやら、その姉妹魚の方をでも手に入れて来るのであった。彼の信じて立てた方針では、完成文化魚のキャリコとか秋錦とかにもう一つ異種の交媒の拍車をかけて理想魚を作るつもりだった。
翌年の花どきが来て、雄魚たちの胸鰭を中心に交尾期を現す追星が春の宵空のように潤った目を開いた。すると魚たちの「性」は、己に堪えないような素振りを魚たちにさせる。艦隊のように魚以上の堂々とした隊列で遊弋し、また闘鶏のように互いに瞬間を鋭く啄き合う。身体に燃えるぬめりを水で扱き取ろうとして異様に翻り、翻り、翻る。意志に礙って肉情はほとんどその方へ融通してしまった木人のような復一はこれを見るとどうやらほんのり世の中にいろ気を感じ、珍らしく独りでぶらぶら六本木の夜町へ散歩に出たり、晩飯の膳にビールを一本註文したりするのだった。
それを運んで来た養母のお常は
「あたしたちももう隠居したのだから、早くお前さんにお嫁さんを貰って、本当の楽をしたいものだね」世間並に結婚を督促した。
「僕の家内は金魚ですよ」
酔いに紛れて、そういう人事には楔をうっておくつもりで、復一はこういうと、養母は
「まさか――おまえさんはいったい子供のときから金魚は大して好きでなかったはずだよ」と云った。
養父の宗十郎はこの頃擡頭した古典復活の気運に唆られて、再び荻江節の師匠に戻りたがり、四十年振りだという述懐を前触れにして三味線のばちを取り上げた。
荻江節
松はつらいとな、人ごとに、皆いは根の松よ。おおまだ歳若な、ああ姫小松。なんぼ花ある、梅、桃、桜。一木ざかりの八重一重……。
復一にはうまいのかまずいのか判らなかったが、連翹の花を距てた母屋から聴えるのびやかな皺嗄声を聴くと、執着の流れを覚束なく棹さす一個の人間がしみじみ憐れに思えた。
養父はふだん相変らず、駄金魚を牧草のように作っていたが、出来たものは鼎造の商会が買上げてくれるので販売は骨折らずに済んだ。だが
「とても廉く仕切るので、素人の商売人には敵わないよ。復一、お前は鼎造に気に入っているのだから、代りにたんまりふんだくれ」
と宗十郎はこぼしていった。そして多額の研究費を復一の代理になって鼎造から取って来て痛快がっていた。
復一は親達が何を云っても黙って聞き流しながらせっせとプールの水を更えた。別々に置いてある雄魚と雌魚とをそっといっしょにしてやった。それから湖のもくもくから遥々採って来た柳のひげ根の消毒したものを大事そうに縄に挟んで沈めた。
空は濃青に澄み澱んで、小鳥は陽の光を水飴のように翼や背中に粘らしている朝があった。縁側から空気の中に手を差出してみたり、頬を突き出してみたりした復一は、やがて
「風もない。よし――」といった。
日覆いの葭簾を三分ほどめくって、覗く隙間を慥えて待っていると、列を作った三匹の雄魚は順々に海戦の衝角突撃のようにして、一匹の雌魚を、柳のひげ根の束の中へ追い込もうとしている。雌は避けられるだけは避けて、免れようとする。なぜであろうか。処女の恥辱のためであろうか。生物は本来、性の独立をいとおしむためか。それともかえって雄を誘うコケットリーか。ついに免れ切れなくなって、雌魚は柳のひげ根に美しい小粒の真珠のような産卵を撒き散らして逃げて行く。雄魚等は勝利の腹を閃めかして一つ一つの産卵に電撃を与える。
気がついてみると、復一は両肘を蹲んだ膝頭につけて、確く握り合せた両手の指の節を更に口にあててきつく噛みつつ、衷心から祈っているのであった。いかにささやかなものでも生がこの世に取り出されるということはおろそかには済まされぬことだ。復一のように厭人症にかかっているものには、生むものが人間に遠ざかった生物であるほど緊密な衝動を受けるのであった。まして、危惧を懐いていた異種の金魚と金魚が、復一のエゴイスチックの目的のために、協同して生を取り出してくれるということは、復一にはどんなに感謝しても足りない気がした。
休養のために、雌魚と雄魚とを別々に離した。そして滋養を与えるために白身の軽い肴を煮ていると、復一は男ながら母性の慈しみに痩せた身体もいっぱいに膨れる気がするのであった。
しかし、その歳孵化した仔魚は、復一の望んでいたよりも、媚び過ぎてて下品なものであった。
これを二年続けて失敗した復一は、全然出発点から計画を改めて建て直しにかかった。彼は骨組の親魚からして間違っていたことに気付いた。彼の望む美魚はどうしても童女型の稚純を胴にしてそれに絢爛やら媚色やらを加えねばならなかった。そして、これには原種の蘭鋳より仕立て上げる以外に、その感じの胴を持った金魚はない。復一のこころに、真佐子の子供のときの蘭鋳に似た稚純な姿が思い出された。とにもかくにも真佐子に影響されていることの多い自分に、彼は久し振りに口惜しさを繰り返した。その苦痛は今ではかえってなつかしかった。
しかし、彼は弱る心を奮い立たせ、いったん真佐子の影響に降伏して蘭鋳の素朴に還ろうとも、も一度彼女の現在同様の美感の程度にまで一匹の金魚を仕立て上げてしまえば、それを親魚にして、仔に仔を産ませ、それから先はたとえ遅々たりとも一歩の美をわが金魚に進むれば、一歩のわれの勝利であり、その勝利の美魚を自分に隷属させることが出来ると、強いて闘志を燃し立てた。ここのところを考えて、しばらく、忍ぶべきであると復一は考えた。復一は美事な蘭鋳の親魚を関西から取り寄せて、来るべき交媒の春を待った。蘭鋳は胴は稚純で可愛らしかった。が顔はブルドッグのように獰猛で、美しい縹緻の金魚を媒けてまずその獰猛を取り除くことが肝腎だった。
崖邸にもあまり近づかない復一は真佐子の夫にもめったに逢わなかったが真佐子の夫という男は、眼は神経質に切れ上り、鼻筋が通って、ちょっと頬骨が高く男性的の人体電気の鋭そうな、美青年の紳士であった。ある日曜日の朝のうち真佐子と女の子を連れて、ロマネスクの茶亭へ来て、外字新聞を読んだりしていた。その時すぐ下の崖の中途の汚水の溜りから金魚の餌のあかこを採って降りようとした復一がふとそこを見上げたが、復一はそれなり知らぬ振りでさっさと崖を降りてしまった。それを見た真佐子はそこに夫と居ながら、二人一緒に居るのが何だかうしろめたかった。
「いいじゃないか。なぜさ」
と夫は無雑作に云った。
「だって、ここで二人並んで居るのをどこからでも見えるでしょう」
と真佐子は平らに押した。
「どうして君とおれと、ここに居るのが人に見えて悪いのかね」
夫の言葉には多少嫌味が含んでいるようだ。
「何も悪いってことありませんけど、谷窪の家の人達から見えるでしょう。あの人まだ独身なんですもの」
「金魚の技師の復一君のことかね」
「そうです」
すると夫はやや興奮して軽蔑的に
「君もその人と結婚したらよかったんだろう」
すると真佐子は相手の的から外れて、例の漂渺とした顔になって云った。
「あたしは、とても、縹緻好みなんですわ。夫なんかには。そうでないと一緒にご飯も喰べられないんです」
「敵わんね。君には」怒ることも笑うことも出来なくなった夫は、「さあ、お湯にでも入ろうかね」と子供を抱いて中へ入って行った。
そのあとのロマネスクの茶亭に腰掛けて真佐子は何を考えているか、常人にはほとんど見当のつかない眼差しを燻らして、寂しい冬の日の当る麻布の台をいつまでも眺めていた。
「鯉と鰻の養殖がうまく行かないので、鼎造、この頃四苦八苦らしいよ。養魚場が金を喰い出したら大きいからね」
築けども築けども湧き水が垣の台を浮かした。県下の半鹹半淡の入江の洲岸に鼎造はうっかり場所を選定してしまったのであった。その上都会に近い静岡県下の養魚場が発達して、交通の便を利用して、鯉鰻を供給するので、鼎造の商会は産魚の販売にも苦戦を免れなかった。しかし、痛手の急性の現われは何といっても、この春財界を襲った未曾有の金融恐慌で、花どきの終り頃からモラトリアムが施行された。鼎造の遣り繰りの相手になっていた銀行は休業したまま再開店は覚束ないと噂された。
「復一君の研究費を何とか節約してもらえんかね、とさすが鼎造のあの黒い顔も弱味を吹いたよ」
年寄は、結局、復一の研究費は三分の一に切詰めることを鼎造に向って承知して来たにも拘らず、鼎造の窮迫を小気味よげに復一に話した。
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