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金魚撩乱(きんぎょりょうらん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 7:41:45  点击:  切换到繁體中文


「ご紹介してもあなたには興味のないらしい人よ」
 それは本当だと思った。自分の偶像であるこの女を欠きくだかない夫ならそれで充分じゅうぶんとしなければならない。その程度の夫なら、むしろ持っていてくれる方が、自分は安心するかも知れない。
「ときどきものを送って下さって有難う」
「これは湖のそばで出来たとうものです」
 復一は紙包かみづつみを置いて立ち上った。
「まあ、お気の毒ね。復一さんが帰ってらして私も心強くなりますわよ」
 復一はってみれば平凡な彼女に力抜けを感じた。どうして自分が、あんな女に全生涯までも影響されるのかと、不思議に感じた。薄暗くなりかけの崖の道を下りかけていると、晩鶯ばんおうが鳴き、山吹やまぶきがほろほろと散った。復一はまたしてもこどもの時真佐子の浴せた顎の裏の桜の花びらを想い起し、思わずそこへ舌の尖をやった。何であろうと自分は彼女を愛しているのだ。その愛はあまりにまどって宙に浮いてしまってるのだ。今更、彼女に向けて露骨ろこつに投げかけられるものでもなし、さればと云って胸に秘め籠めて置くにも置かれなくなっている。やっぱり手慣れた生きものの金魚で彼女を作るより仕方がない。復一はそこからはるばる眼の下に見える谷窪の池を見下して、奇矯ききょうな勇気を奮い起した。

 谷窪の家の庭にささやかながらも、コンクリート建ての研究室が出来、新式の飼育のプールが出来てみれば、復一には楽しくないこともなかった。彼は親類や友人づきあいもせず一心不乱に立て籠った。崖屋敷の人達にも研究をげる日までなるべく足を向けてもらわぬようそれとなく断っておいた。
「表面にもれて、ずいのいのちに喰い込んで行く」
 そういう実の入った感じが無いでもなかった。自分の愛人を自分の手で創造する……それはまたこの世に美しく生れ出る新らしい星だ……この事は世界の誰も知らないのだ。彼は寂しい狭い感慨かんがいふけった。彼は郡山の古道具屋で見付けた「神魚華鬘之図しんぎょけまんのず」を額縁に入れて壁に釣りかけ、縁側に椅子いすを出して、そこから眺めた。初夏の風がそよそよと彼を吹いた。青葉の揮発性の匂いがした。ふと彼は湖畔の試験所に飼われてある中老美人のキャリコを新らしい飼手がうまく養っているかが気になった。
「あんなふるいものは見殺しにするほどの度胸がなければ、新しいものを創生する大業は仕了しおわせられるものではない。」
 ついでにちらりと秀江の姿が浮んだ。
 彼はわざとキャリコが粗腐病にかかって、身体がさびだらけになり、あえぐことさえ出来なくなって水面にくさく浮いている姿を想像した。ついでにそれが秀江の姿でもあることを想像した。すると熱いものが脊髄せきずいの両側を駆け上って、喉元のどもとを切なくき上げて来る。彼は唇を噛んでそれを顎の辺で喰い止めた。
「おれは平気だ」と云った。

 その歳は金魚の交媒には多少季遅れであり、まだ、プールの灰汁あくもよく脱けていないので、産卵は思いとどまり、復一は親魚の詮索せんさくにかかった。彼は東京中の飼育商や、素人飼育家をくまなくたずねた。覗った魚は相手が手離さなかった。すると彼は毒口を吐いてその金魚を罵倒ばとうするのであった。
「復一ぐらい嫌な奴はない。あいつはタガメだ」
 こういう評判が金魚家仲間に立った。タガメは金魚に取付くのに凶暴性きょうぼうせいを持つ害虫である。そんなことを云われながらも彼はどうやらこうやら、その姉妹魚の方をでも手に入れて来るのであった。彼の信じて立てた方針では、完成文化魚のキャリコとか秋錦とかにもう一つ異種の交媒の拍車はくしゃをかけて理想魚を作るつもりだった。
 翌年の花どきが来て、雄魚たちの胸鰭を中心に交尾期を現す追星が春の宵空のようにうるおった目を開いた。すると魚たちの「性」は、おのれに堪えないような素振りを魚たちにさせる。艦隊かんたいのように魚以上の堂々とした隊列で遊弋し、また闘鶏とうけいのように互いに瞬間をするどつつき合う。身体に燃えるぬめりを水で扱き取ろうとして異様にひるがえり、翻り、翻る。意志にとどこおって肉情はほとんどその方へ融通ゆうずうしてしまった木人のような復一はこれを見るとどうやらほんのり世の中にいろ気を感じ、珍らしく独りでぶらぶら六本木の夜町へ散歩に出たり、晩飯のぜんにビールを一本註文したりするのだった。
 それを運んで来た養母のお常は
「あたしたちももう隠居いんきょしたのだから、早くお前さんにお嫁さんを貰って、本当の楽をしたいものだね」世間並に結婚を督促とくそくした。
「僕の家内は金魚ですよ」
 いに紛れて、そういう人事にはくさびをうっておくつもりで、復一はこういうと、養母は
「まさか――おまえさんはいったい子供のときから金魚は大して好きでなかったはずだよ」と云った。
 養父の宗十郎はこの頃擡頭たいとうした古典復活の気運にそそられて、再び荻江節の師匠に戻りたがり、四十年振りだという述懐じゅっかい前触まえぶれにして三味線しゃみせんのばちを取り上げた。

 荻江節
松はつらいとな、人ごとに、みないは根の松よ。おおまだ歳若な、ああひめ小松こまつ。なんぼ花ある、うめもも、桜。一木ざかりの八重一重……。

 復一にはうまいのかまずいのか判らなかったが、連翹れんぎょうの花をへだてた母屋から聴えるのびやかな皺嗄声しわがれごえを聴くと、執着の流れを覚束なくさおさす一個の人間がしみじみ憐れに思えた。
 養父はふだん相変らず、駄金魚を牧草のように作っていたが、出来たものは鼎造の商会が買上げてくれるので販売は骨折らずに済んだ。だが
「とてもやすく仕切るので、素人しろうとの商売人にはかなわないよ。復一、お前は鼎造に気に入っているのだから、代りにたんまりふんだくれ」
 と宗十郎はこぼしていった。そして多額の研究費を復一の代理になって鼎造から取って来て痛快がっていた。
 復一は親達が何を云っても黙って聞き流しながらせっせとプールの水を更えた。別々に置いてある雄魚と雌魚とをそっといっしょにしてやった。それから湖のもくもくから遥々はるばる採って来た柳のひげ根の消毒したものを大事そうになわはさんで沈めた。

 空は濃青にみ澱んで、小鳥は陽の光を水飴のようにつばさや背中にねばらしている朝があった。縁側から空気の中に手を差出してみたり、頬を突き出してみたりした復一は、やがて
「風もない。よし――」といった。
 日覆いの葭簾を三分ほどめくって、覗く隙間すきまこしらえて待っていると、列を作った三匹の雄魚は順々に海戦の衝角しょうかく突撃とつげきのようにして、一匹の雌魚を、柳のひげ根のたばの中へ追い込もうとしている。雌は避けられるだけは避けて、まぬがれようとする。なぜであろうか。処女の恥辱のためであろうか。生物は本来、性の独立をいとおしむためか。それともかえって雄を誘うコケットリーか。ついに免れ切れなくなって、雌魚は柳のひげ根に美しい小粒こつぶの真珠のような産卵を撒き散らして逃げて行く。雄魚等は勝利の腹を閃めかして一つ一つの産卵に電撃を与える。
 気がついてみると、復一は両肘をしゃがんだ膝頭ひざがしらにつけて、かたにぎり合せた両手の指の節を更に口にあててきつく噛みつつ、衷心ちゅうしんから祈っているのであった。いかにささやかなものでも生がこの世に取り出されるということはおろそかには済まされぬことだ。復一のように厭人症えんじんしょうにかかっているものには、生むものが人間に遠ざかった生物であるほど緊密な衝動を受けるのであった。まして、危惧きぐいだいていた異種の金魚と金魚が、復一のエゴイスチックの目的のために、協同して生を取り出してくれるということは、復一にはどんなに感謝しても足りない気がした。
 休養のために、雌魚と雄魚とを別々に離した。そして滋養じようを与えるために白身の軽いさかなていると、復一は男ながら母性のいつくしみに痩せた身体もいっぱいにふくれる気がするのであった。
 しかし、その歳孵化ふかした仔魚は、復一の望んでいたよりも、び過ぎてて下品なものであった。

 これを二年続けて失敗した復一は、全然出発点から計画を改めて建て直しにかかった。彼は骨組の親魚からして間違っていたことに気付いた。彼の望む美魚はどうしても童女型の稚純を胴にしてそれに絢爛やら媚色びしょくやらを加えねばならなかった。そして、これには原種の蘭鋳より仕立て上げる以外に、その感じの胴を持った金魚はない。復一のこころに、真佐子の子供のときの蘭鋳に似た稚純な姿が思い出された。とにもかくにも真佐子に影響されていることの多い自分に、彼は久し振りに口惜くやしさを繰り返した。その苦痛は今ではかえってなつかしかった。
 しかし、彼は弱る心を奮い立たせ、いったん真佐子の影響に降伏して蘭鋳の素朴そぼくかえろうとも、も一度彼女の現在同様の美感の程度にまで一匹の金魚を仕立て上げてしまえば、それを親魚にして、に仔を産ませ、それから先はたとえ遅々ちちたりとも一歩の美をわが金魚に進むれば、一歩のわれの勝利であり、その勝利の美魚を自分に隷属させることが出来ると、強いて闘志を燃し立てた。ここのところを考えて、しばらく、しのぶべきであると復一は考えた。復一は美事な蘭鋳の親魚を関西から取り寄せて、来るべき交媒の春を待った。蘭鋳は胴は稚純で可愛らしかった。が顔はブルドッグのように獰猛どうもうで、美しい縹緻ひょうちの金魚をけてまずその獰猛を取り除くことが肝腎かんじんだった。

 崖邸にもあまり近づかない復一は真佐子の夫にもめったに逢わなかったが真佐子の夫という男は、眼は神経質に切れ上り、鼻筋が通って、ちょっと頬骨が高く男性的の人体電気の鋭そうな、美青年の紳士しんしであった。ある日曜日の朝のうち真佐子と女の子を連れて、ロマネスクの茶亭へ来て、外字新聞を読んだりしていた。その時すぐ下の崖の中途の汚水の溜りから金魚の餌のあかこを採って降りようとした復一がふとそこを見上げたが、復一はそれなり知らぬ振りでさっさと崖を降りてしまった。それを見た真佐子はそこに夫と居ながら、二人一緒に居るのが何だかうしろめたかった。
「いいじゃないか。なぜさ」
 と夫は無雑作に云った。
「だって、ここで二人並んで居るのをどこからでも見えるでしょう」
 と真佐子は平らに押した。
「どうして君とおれと、ここに居るのが人に見えて悪いのかね」
 夫の言葉には多少嫌味が含んでいるようだ。
「何も悪いってことありませんけど、谷窪の家の人達から見えるでしょう。あの人まだ独身なんですもの」
「金魚の技師の復一君のことかね」
「そうです」
 すると夫はやや興奮して軽蔑的に
「君もその人と結婚したらよかったんだろう」
 すると真佐子は相手の的から外れて、例の漂渺とした顔になって云った。
「あたしは、とても、縹緻好みなんですわ。夫なんかには。そうでないと一緒いっしょにご飯も喰べられないんです」
「敵わんね。君には」おこることも笑うことも出来なくなった夫は、「さあ、お湯にでも入ろうかね」と子供を抱いて中へ入って行った。
 そのあとのロマネスクの茶亭に腰掛けて真佐子は何を考えているか、常人にはほとんど見当のつかない眼差まなざしをくゆらして、寂しい冬の日の当る麻布の台をいつまでも眺めていた。

「鯉と鰻の養殖がうまく行かないので、鼎造、この頃四苦八苦らしいよ。養魚場が金を喰い出したら大きいからね」
 築けども築けども湧き水がかきの台を浮かした。県下の半鹹はんかん半淡はんたんの入江の洲岸に鼎造はうっかり場所を選定してしまったのであった。その上都会に近い静岡県下の養魚場が発達して、交通の便を利用して、鯉鰻りまんを供給するので、鼎造の商会は産魚の販売にも苦戦を免れなかった。しかし、痛手の急性の現われは何といっても、この春財界を襲った未曾有みぞう金融きんゆう恐慌きょうこうで、花どきの終り頃からモラトリアムが施行しこうされた。鼎造の遣り繰りの相手になっていた銀行は休業したまま再開店は覚束ないと噂された。
「復一君の研究費を何とか節約してもらえんかね、とさすが鼎造のあの黒い顔も弱味を吹いたよ」
 年寄は、結局、復一の研究費は三分の一に切詰めることを鼎造に向って承知して来たにもかかわらず、鼎造の窮迫きゅうはくを小気味よげに復一に話した。

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