女の船の舳は復一のボートの腹を擦った。
「あら、寝てらっしゃるの」
「………」
「寝てんの?」
漕ぎ寄せた女は、しばらく息を詰めて復一のその寝顔を見守っていた。
「うちの船が二三艘帰って来て、あなたが一人でもくもくへ月見にモーターで入らしってるというのよ。だから押しかけて来たわ」
「それはいい。僕は君にとても会いたかった」
女は突然愛想よく云われたのでそれをかえって皮肉にとった。
「なにを寝言いってらっしゃるの。そんないやがらせ云ったって、素直に私帰りませんけれど、もし寝言のふりしてあたしを胡麻化すつもりなら、はっきりお断りしときますが、どうせあたしはね。東京の磨いたお嬢さんとは全然較べものにはならない田舎の漁師の娘の……」
「馬鹿、黙りたまえ!」
復一は身じろぎもせず、元の仰向けの姿勢のままで叫んだ。その声が水にひびいて厳しく聞えたので女はぴくりとした。
「僕は君のように皮肉の巧い女は嫌いだ。そんなこと喋りに来たのなら帰りたまえ」
恥辱と嫉妬で身を慄わす女の様子が瞑目している復一にも感じられた。
噎ぶのを堪え、涙を飲み落す秀江のけはい――案外、早くそれが納って、船端で水を掬う音がした。復一はわざと瞳の焦点を外しながらちょっと女の様子を覗きすぐにまた眼を閉じた。月の光をたよりに女は、静かに泣顔をハンドミラーで繕っていた。熱いものが飛竜のように復一の胸を斜に飛び過ぎたが心に真佐子を念うと、再び美しい朦朧の意識が紅靄のように彼を包んだ。秀江は思い返したように船べりへ手を置いて、今までのとげとげしい調子をねばるような笑いに代えて柔く云った。
「ボートへ入ってもいいの」
「……うん……」
復一に突然こんな感情が湧いた――誰も不如意で悲しいのだ。持ってるようでも何かしら欠けている。欲しいもの全部は誰も持ち得ないのだ。そして誰でも寂しいのだ――復一は誰に対しても自分に対しても憐みに堪えないような気持ちになった。
名月や湖水を渡る七小町
これは芭蕉の句であったろうか――はっきり判らないがこんなことを云いながら、復一の腕は伸びて、秀江の肩にかかった。秀江は軟体動物のように、復一の好むどんな無理な姿態にも堪えて引寄せられて行った。
復一はそれとない音信を時々真佐子に出してみるのであった。湖水の景色の絵葉書に、この綺麗な水で襯衣を洗うとか、島の絵葉書にこの有名な島へ行く渡船に渡し賃が二銭足りなくて宿から借りたとか。
すると三度か四度目に一度ぐらいの割で、真佐子から返信があった。それはいよいよ窈渺たるものであった。
「この頃はお友達の詩人の藤村女史に来て貰って、バロック時代の服飾の研究を始めた」とか「日本のバロック時代の天才彫刻家左甚五郎作の眠り猫を見に日光へ藤村女史と行きました。とても、可愛らしい」とか。
いよいよ彼女は現実を遊離する徴候を歴然と示して来た。
復一はそのバロック時代なるものを知らないので、試験所の図書室で百科辞典を調べて見た。それは欧洲文芸復興期の人性主義が自然性からだんだん剥離して人間業だけが昇華を遂げ、哀れな人工だけの絢爛が造花のように咲き乱れた十七世紀の時代様式らしい。そしてふと考え合せてみると、復一がぽつぽつ調べかけている金魚史の上では、初めて日本へ金魚が輸入され愛玩され始めた元和あたりがちょうどそれに当っている。すると金魚というものはバロック時代的産物で、とにも角にも、彼女と金魚とは切っても切れない縁があるのか。
彼女を非時代的な偶像型の女と今更憐みや軽蔑を感じながら、復一はまた急に焦り出し、彼女の超越を突き崩して、彼女を現実に誘い出し、彼女の肉情と自分の肉情と、血で結び付きたい願いが、むらむらと燃え上る。それは幾度となく企ててその度にうやむやに終らされている願いなのか知れないけれども、燃え上る度に復一を新鮮な情熱に充たさせ、思い止まらすべくもないのだった。
「生理的から云っても、生活的からいっても異性の肉体というものは嘉称すべきものですね。いま、僕に湖畔の一人の女性が、うやうやしくそれを捧げていいます」
復一は自分ながら嫌味な書きぶりだと思ったが仕方がなかった。そして事実はわずかの間で打ち切った秀江との交渉が、今はほとんど絶え絶えになっているのを誇張して手紙を書きながら、復一はいよいよ真剣に彼女との戦闘を開始したように感じられて、ひとりで興奮した。真佐子に少しでもある女の要素が、何と返事を書いて来るにしろ、その中に仄めかないことはあるまい。これが真佐子の父親に知れ、よしんば学費が途絶えるにしても真佐子を試すことは今は金魚の研究より復一には焦慮すべき問題であった。
「その女性は、あなたほど美しくはないけれども、……」と書いて、「あなたほど非人情ではありません」とは書きかね、復一は苦笑した。
だんだん刺戟を強くして行って復一はしきりに秀江との関係を手紙の度に情緒濃く匂わして行ったが、真佐子からの返事には復一の求めている女性の肉体らしいものは仄めかないで、真佐子が父と共にだんだん金魚に興味を持ち出したこと、父のは産業的功利も混るが、自分のは不思議なほど無我の嗜好や愛感からであることなど、金魚のことばかり書いてある。金魚の研究を怠らなければ復一が何をしようとどんな女性と交渉があろうと構わない書きぶりだった。復一がだんだん真佐子に対する感情をはぐらかされてほとほと性根もつきようとするころ真佐子から来た手紙はこうだった。
「あなたはいろいろ打ち明けて下さるのに私だまってて済みませんでした。私もう直きあかんぼを生みます。それから結婚します。すこし、前後の順序は狂ったようだけれど。どっちしたって、そうパッショネートなものじゃありません」
復一はむしろ呆然としてしまった。結局、生れながらに自分等のコースより上空を軽々と行く女だ。
「相手はご存じの三人の青年のうちの誰でもありません。もうすこしアッサリしていて、不親切や害をする質の男ではなさそうです。私にはそれでたくさんです」
復一は、またしても、自分のこせこせしたトリックの多い才子肌が、無駄なものに顧みられた。この太い線一本で生きて行かれる女が現代にもあると思うとかえって彼女にモダニティーさえ感じた。
「何という事はないけれど、あなたもその方と結婚した方がよくはなくって。自分が結婚するとなると、人にも勧めたくなるものよ。けれども金魚は一生懸命やってよ。素晴らしい、見ていると何もかも忘れてうっとりするような新種を作ってよ。わたしなぜだかわたしの生むあかんぼよりあなたの研究から生れる新種の金魚を見るのが楽しみなくらいよ。わたし、父にすすめていよいよ金魚に力を入れるよう決心さしたわ」
これと前後して鼎造の手紙が復一に届いた。それには、正直に恐慌以来の自家の財政の遣り繰りを述べ、しかし、断然たる切り捨てによって小ぢんまりした陣形を立直すことが出来、従って今後は輸出産業の見込み百パーセントの金魚の飼育と販売に全資力を尽す方針を冷静に書いてあった。だから君は今後は単なる道楽の給費生ではなくて、商会の技師格として、事業の目的に隷属して働いてもらいたい、給料として送金は増すことにする――
復一は生活の見込が安定したというよりも、崖邸の奴等め、親子がかりで、おれを食いにかかったなと、むやみに反抗的の気持ちになった。
復一は真佐子へも真佐子の父へも手紙の返事を出さず、金魚の研究も一時すっかり放擲して、京洛を茫然と遊び廻った。だが一ケ月ほどして帰って来た時にはすでに復一の心にある覚悟が決っていた。それはまだこの世の中にかつて存在しなかったような珍らしく美麗な金魚の新種をつくり出すこと、それを生涯の事業としてかかる自分を人知れぬ悲壮な幸福を持つ男とし、神秘な運命に掴まれた無名の英雄のように思い、命を賭けてもやり切ろうという覚悟だった。それが結局崖邸の親子に利用されることになるのか――さもあらばあれ、それが到底自分にとって思い切れ無い真佐子の喜びともなれば、その喜びが真佐子と自分を共通に繋ぐ……。それにしてもあの非現実的な美女が非現実的な美魚に牽かれる不思議さ、あわれさ。復一は試験室の窓から飴のようにとろりとしている春の湖を眺めながら、子供のとき真佐子に喰わされた桜の花びらが上顎の奥にまだ貼り付いているような記憶を舌で舐め返した。
「真佐子、真佐子」と名を呼ぶと、復一は自分ながらおかしいほどセンチメンタルな涙がこぼれた。
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