「とてもそういうお話にお詳しいのね。どうしてあなたが、こう申しちゃ何ですけれど、下町のお嬢さんのあなたが、そういう勉強をなさったのですか、素人にしちゃあんまりお詳しい……」
娘は、
「河岸に育ったものですから、東京の河に興味を持ちまして……それに女子大学に居りますうち、別にこういうことに興味を持つ友達と研究も致しましたが……」と俯向いて云うと、そこで口を噤んだ。
「たった、それだけで、こんなにお詳しい?」
私は、娘の言訳が何かわざとらしいのを感じた。何かもっと事情ありげにも思ったが、私はまたしてもこの家の人事に巻き込まれる危険を感じたので、無理に気を引締めて、もっと追求したい気持ちは様子に現わさなかった。
こうして親しげに話していて、隣に座っている娘と、何か紙一重距てたような、妙な心の触れ合いのまま、食後の馥郁とした香煎の湯を飲み終えると、そこへ老主人が再び出て来て挨拶した。茶の湯の作法は私たちを庭へ移した。蔵の中の南洋風の作り庭の小亭で私達は一休みした。
私は手持不沙汰を紛らすための意味だけに、そこの棕櫚の葉かげに咲いている熱帯生の蔓草の花を覗いて指して見せたりした。
娘は微笑し乍ら会釈して、その花に何か暗示でもあるらしく、煙って濃い瞳を研ぎ澄し、じーっと見入った。豊かな肉附き加減で、しかも暢び暢びしている下肢を慎ましく膝で詰めて腰をかけ、少し低目に締めた厚板帯の帯上げの結び目から咽喉もとまで大輪の花の莟のような張ってはいるが、無垢で、それ故に多少寂しい胸が下町風の伊達な襟の合せ方をしていた。座板へ置いて無意識にポーズを取る左の支え手から素直に擡げている首へかけて音律的の線が立ち騰っては消え、また立ち騰っているように感じられる。悠揚と引かれた眉に左の上鬢から掻き出した洋髪の波の先が掛り、いかにも適確で聡明に娘を見せている。
私は女ながらづくづくこの娘に見惚れた。棕櫚の葉かげの南洋蔓草の花を見詰めて、ひそかに息を籠めるような娘の全体は、新様式な情熱の姿とでも云おうか。この娘は、何かしきりに心に思い屈している――と私は娘に対する私の心理の働き方がだんだん複雑になるのを感じた。私はいくらか胸が弾むようなのを紛らすために、庭の天井を見上げた。硝子は湯気で曇っているが、飛白目にその曇りを撥いては消え、また撥く微点を認めた。霙が降っているのだ。娘も私の素振りに気がついて、私と同じように天井硝子を見上げた。
合図があって、私たちは再び茶室へ入って行った。床の間の掛軸は変っていて、明治末期に早世した美術院の天才画家、今村紫紅の南洋の景色の横ものが掛けられてあった。
老主人の濃茶の手前があって、私と娘は一つ茶碗を手から手に享けて飲み分った。
娘の姿態は姉に対する妹のようにしおらしくなっていた。老主人の茶の湯の技倆は少しけばけばしいが確であった。
作法が終ると、老主人は袴を除って、厚い綿入羽織を着て現われた。炉に噛りつくように蹲み、私たちにも近寄ることを勧めた。そして問わず語りにこんな話を始めた。
徳川三代将軍の頃、関西から来て、江戸廻船の業を始めたものが四五軒あった。
その船は舷側に菱形の桟を嵌めた船板を使ったので、菱垣船と云った。廻船業は繁昌するので、その廻船によって商いする問屋はだんだん殖え、大阪で二十四組、江戸で十組にもなった。享保時分、酒樽は別に船積みするという理由の下に、新運送業が起った。それに倣って、他の貨物も専門専門に積む組織が起った。すべて樽廻船と云った。樽廻船は船も新型で、運賃も廉くしたので、菱垣船は大打撃を蒙った。話のうちにも老主人は時々神経痛を宥めるらしい妙な臭いの巻煙草を喫った。
「寛永時分からあった菱垣廻船の船問屋で残ったものは、手前ども堺屋と、もう二三軒、郡屋と毛馬屋というのがございましたそうですが……」
しかし、幕末まえ頃まで判っていたその二軒も、何か他の職業と変ったとやらで、堺屋は諸国雑貨販売と為替両替を職としていた。
それから話はずっと飛んで、前の話とはまるで関係がないものを、強いてあるような話ぶりで、老主人は語り継いだ。
「河岸の事務室を開けて、貸室に致しましたのも窮余の策で、実は、この娘に結婚させようという若い店員がございますのですが、どうも、その男の気心がよく見定まりません。いろいろ迷った揚句、どなたか世間の広い男の方にでも入って頂いて、そういう方々ともお付合いしてみて、改めて娘の身の振り方を考え直してみましょう。まあ、打ち撒ければ、こういった考えがござりましたのです」
娘は俯向いて、赧くなった。
「なにせ、私どもの暮しの範囲と申したら、諸国の商売取引の相手か、この界隈の組合仲間で、筋が定まり切っているだけ、広いようで案外狭いのでございます。それにこの娘が一時どういう気か学者になるなぞと申して、洋服なぞ着て、ぱふらぱふらやったものですから、いよいよ妙なことになって、婿の口も思うほどのことはございませんでして……」
娘は殆ど裁きを受ける女のように、首を垂れて少し蒼ざめていた。私は、
「もう、よろしいじゃございませんか、お話しは、また、この次に……」
と云ったが、老父は、
「いや、そうじゃございません。手前は明日が明日からまた寝込んでしまって、いつこの次にお目にかかれるか判りません。それで……」と意気込んで来た。老父には真剣に娘の身の上を想う電気のようなものが、迸り出した。
「私の知らない間に、娘がちょっろりと、あなたさまに部屋をお貸ししたと聞いて、実は私は、怒りました。しかし、娘はあなたさまの御高名を存じて居り、お顔も新聞雑誌で存じ上げて、かねてお慕い申していたので、喜んでお貸ししたと申します。私も思い返してみれば、あなたさまが世間のことは何事も御承知の筆をお執りになる方である以上、却って、何かの便宜にあずかれるかも知れない。それで娘にもよく申付けて、お仕事にはお妨げにならないよう、表の事務室は人に貸すことは止めて仕舞い、また、是非、お近付き願えるよう、気を配って居りました。どうぞ、これから、これを妹とも思召し下すって、叱っても頂き、お引立てもお願いいたし度いのです。どうぞお願い申します」
老父は右手の薬煙草をぶるぶる慄わして、左の手に移し、煙草盆に差込むと、開いた右の手で何処へ向けてとも判らず、拝むような手つきをした。それは素早く軽い手つきであったが、私をぎょっとさせた。娘も、それにつれて、萎れたままお叩頭した。
老父のそこまでの話の持って来方には、衰えてはいるようでも、下町の旧舗の商人の駆け引きに慣れた婉曲な粘りと、相手の気の弱い部分につけ込む機敏さがしたたかに感じられた。
私は娘に対して底ではかなり動いて来た共感の気持ちも、老父の押しつけがましい意力に反撥させられて、何か嫌あな思いが胸に湧いた。しかし、
「まあ、私に出来ますことは……」と、かすかな声で返事しなければならなかった。
電気行灯の灯の下に、竃河岸の笹巻の鮨が持出された。老父は一礼して引込んで行った。首の向きも直さず、濃く煙らして、炉炭の火を見詰めていた娘の瞳と睫毛とが、黒耀石のように結晶すると、そこからしとりしとり雫が垂れた。客の私が、却って浮寝鳥に枯柳の腰模様の着物の小皺もない娘の膝の上にハンケチを宛てがい、それから、鮨を小皿に取分けて、笹の葉を剥いてやらねばならなかった。
でも、娘は素直に鮨を手に受取ると、一口端を噛んだが、またしばらく手首に涙の雫を垂し、深い息を吐いたのち、
「あたくし、辛い!」と云った。そして私の方へ顔を斜に向けた。
「あたくしは、ときどきいっそのこと芸妓にでも、女給にでもなって、思い切り世の中に暴れてみようと思うことがありますの」
それから、口の中の少しの飯粒も苦いもののように、懐紙を取出して吐き出した。
私は、この娘がそういうものになって暴れるときの壮観をちょっと想像したが、それも一瞬ひらめいて消えた火のような痛快味にしか過ぎないことを想い、さしずめ、「まあそんなに思い詰めないでも、辛抱しているうちには、何とか道は拓けて来ますよ」と云わないではいられなかった。
昨夜から今朝にかけて雪になっていた。私は炬燵に入って、叔母に向って駄々を捏ねていた。
「あすこの家へ行くと、すっかり分別臭い年寄りにされて仕舞うから……」
「だから、なおのこと行きなさいよ。面白いじゃないか、そういう家の内情なんて、小説なんかには持って来いじゃありませんか」
この叔母は、私の生家の直系では一粒種の私が、結婚を避け、文筆を執ることを散々嘆いた末、遂に私の意志の曲げ難いのを見て取り、せめて文筆の道で、生家の名跡を遺さしたいと、私を策励しにかかっているのだった。
「叔母さんなんかには、私の気持ち判りません」
「あんたなんかには、世の中のこと判りません」
だが、こういう口争いは、しじゅうあることだし、そして、私を溺愛する叔母であることを知ればこそ、苦笑しながらも、それを有難いと思って、享け入れている私との間には、いわば、睦まじさが平凡な眠りに墜ちて行くのを、強いて揺り起すための清涼剤に使うものであったから、調子の弾むうちはなお二口三口、口争いを続けながら、私はやっぱり河沿いの家のことを考えていた。
結局あの娘のことを考えてやるのには、どうしても、海にいるという許婚の男の気持ちを一度見定めてやらなければならなくなるのだろう。ここまで煩わされた以上、もう仕事のために河沿いの家を選んだことは無駄にしても、兎に角、この擾された気持ちを澄ますまで、私はあの河沿いの家に取付いていなければならない。
河沿いの家で出来たことは、河沿いの家できれいに仕末して去り度い。
そう思って来ると、口惜しさを晴らす意地のようなものが起って来て、私は炬燵の布団から頬を離して立ち上った。
「河沿いの仕事部屋へ雪見に行くわ」
叔母は自分の意見を採用しながら、まだ、痩我慢に態のよいことを云ってると見て取り、得意の微笑を泛べながら、
「ええええ、雪見にでも、何でも好いから、いらっしゃいとも」と云って、いそいそと土産ものと車を用意して呉れた。
昨日の礼に店先へ交魚の盤台を届けて、よろしくと云うと、居合せた店員が、
「大旦那は咋夕からお臥りで、それからお嬢さんもご病気で」と挨拶した。私は、「おや」と思いながら、さっさと自分の河沿いの室へ入った。
いつもの通り、やまが火鉢の火種を持って来た。
「お嬢さんお風邪……」と私は訊いて見た。
やまは、「ええ、いえ、あの、ちょっとご病気でございます」と云って、訊ねられるのを好まぬように素早く去った。
何か様子が妙だとは思ったが、窓障子を開け放した河面を見て、私はそんな懸念も忘れた。
雪はほとんど小降りになったが、よく見ると鉛を張ったような都の曇り空と膠を流したような堀河の間を爪で掻き取った程の雲母の片れが絶えず漂っている。眼の前にぐいと五大力の苫を葺いた舳が見え、厚く積った雪の両端から馬の首のように氷柱を下げている。少し離れて団平船と、伝馬船三艘とか井桁に歩び板を渡して、水上に高低の雪渓を慥えて蹲っている。水をひたひたと湛えた向河岸の石垣の際に、こんもりと雪の積もった処々を引っ掻いて木肌の出た筏が乗り捨ててあり、乗手と見える蓑笠の人間が、稲荷の垣根の近くで焚火をしている。稲荷の祠も垣根も雪に隈取られ、ふだんの紅殻いろは、河岸の黒まった倉庫に対し、緋縅しの鎧が投出されたような、鮮やかな一堆に見える。河川通のこの家の娘は、この亀島川は一日の通船数が三百以上もあり、泊り船は六十以上で、これを一町に割当てるとほぼ十艘ずつになると云ったが、今日はそういう河容とは、まるで違ったものに見える。
そして、私が心を奪われたのは、いよいよ、そういう現象的の部分部分ではなかった。ふだんの繁劇な都会の濠川の人為的生活が、雪という天然の威力に押えつけられ、逼塞した隙間から、ふだんは聞取れない人間の哀切な囁きがかすかに漏れるのを感ずるからであった。そして、これは都会の人間から永劫に直接具体的には聞き得ず、こういう偶々の場合、こういう自然現象の際に於て、都会に住む人間の底に潜んだ嘆きの総意として、聴かれるのであった。この意味に於て、眼の前見渡す雪は、私が曾て他所の諸方で見たものと違って、やはり、東京の濠川の雪景色であった。
小店員が入って来て、四五通の外文の電報や外文の手紙を見て呉れと差出した。
「まことに済みませんが、店の者みんな出払ちゃいましたし大旦那にもお嬢さんにも寝込まれちゃいましたので……」
大切な急ぎの用だと困るというので私が見たその注文の電報や外文は南洋と云われる範囲の各地からだった。その一つには、
板舟。鯛箱。
卸し庖丁大小。鱈籠。
半台。河岸手桶。
計りザル。油屋ムネカケ。
打鉤大小。タンベイ。
足中草履。引切。
ローマ字から判読するこれ等は、誰か爪哇[#ルビの「ジャバ」は底本では「ジャパ」]で魚屋を始める人があって、その道具を注文して来たのだった。
一礼して去る小店員に向って、私は、
「こういう簡単なものもご覧になれないって、お嬢さんどういうご病気なの」
というと、小店員はちょっと頭を掻いたが、
「まあ、気鬱症とか申すのだそうでございましょうかな。滅多にございませんが、一旦そうおなりになると一人であすこへ閉籠って、人と口を利くのを嫌がられます」
若しかして、昨日、茶席での談話が、娘を刺戟し過ぎて、娘は気鬱症を起したのかも知れない。そう云えばだんだん娘の性情の不平均、不自然なところも知れて来かかっていたし、そういう揺り返しが、たまたま起るということも、今更、不思議に思われなくなっていた。私は小店員の去ったあと、また河の雪を眺めていた。
水は少し動きかけて、退き始めると見える。雪まだらな船が二三艘通って、筏師も筏へ下りて、纜を解き出した。
やや風が吹き出して、河の天地は晒し木綿の滝津瀬のように、白瀾濁化し、ときどき硝子障子の一所へ向けて吹雪の塊りを投げつける。同時に、形がない生きものが押すように、障子はがたがたと鳴る。だが、その生きものは、硝子板に戸惑って別に入口を見付けるように、ひゅうひゅう唸って、この建物の四方を馳せ廻る。
ふと今しがた小店員が云った気鬱症の娘が、何処に引籠っているのだろうと私は考え始めた。暫くして娘が気鬱症にかかるとあすこに……と云った小店員がその言葉と一緒に一寸仰向き加減にした様子が、いかにも娘が、私の部屋の近くにでもいるような気配を感じさせたのに気づくと、娘は私の頭の上の二階にいるのではないかと、思わずしがみついていた小長火鉢から私は体を反らした。
一たい、この二階がおかしい。私がここへ来てから、もう一月半以上にもなるのに、階段を伝って、二室ある筈のそこへ出入りする人を見たことがない。階段を上り下りする人間は、大概顔見知りの店員たちで、それは確に、三階の寝泊りの大部屋へ通うものであって、昼は店に行っていてそこには誰もいない。二階の表側の一室は、物置部屋に代った空事務室の上だから、私の部屋からは知れないようなものの、少くとも河に面した方の二階の今一つの空部屋は私が半日ずつ住むこの部屋のすぐ頭の上だから、いかに床の層が厚くても、普通に人が住むならその気配いは何とか判りそうなものだ。それがふだん、まるきり無人の気配いであった。ひょっとしたら、娘がきょうはそっとその室に閉じ籠っているのではあるまいか。
それから、私は注意を二階に集めて、気を配ったが、雪は小止みとなり、風だけすさまじく、幽かな音も聴き取れなかった。定刻の時間になったので私は帰った。
あくる日は雪晴れの冴えた日であった。昨日から何となく私の心にかかるものがあって私は今までになく早朝に家を出て河岸の部屋へ来た。そしてやや改まった様子で机の前に座っていると、思いがけない顔をしてやまがはいって来た。私は早く来たことについて好い加減な云いわけを云ったのち天井を振り仰ぎ乍らやまに向って、
「どなたかこの上のお部屋にいるの」と訊いた。
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