「男の癖に、直助どうして、こんなお料理知つてんの。」
「川の近くに育つたものは、必要に応じてなにかと川から教はるものです。」
直助は郷土人らしく答へた。だが、かの女はしら/″\しく言つた。
「……私、べつにこれおいしいとも何とも思はないわ……けど……。」
かの女は何人からでも如何なる方法によつても、魂の孤立に影響されるのを病的に怖れた。
「けれども、お礼はしたいわ。私、あんたのお母さんに、似合ひさうな反物一反あげるわ。送つてあげなさいな。」
直助は俯向いて考へてゐた。少し息を吐き出した。
「お話は難かしくてよく判りませんが、母へなら有難く頂戴いたします。」
のさ/\と魚の食べ残しの鶯色の皿を片付けて行く直助の後姿を、かの女は憐れに思つたが我慢した。毎日の川魚探しに直助の母の手造りの紺無地の薄綿の肩の藍が陽やけしたのか少し剥げてゐた。
若鮎の登る季節になつた。
川沿ひの丘には躑躅の花が咲き、どうだんや灌木などが花のやうな若葉をつけた。常盤樹林の黒ずんだ重苦しい樹帯の層の隙間から梅の新枝が梢を高く伸び上らせ、鬱金色の髪のやうにそれらを風が吹き乱した。野には青麦が一面によろ/\と揮発性の焔を立てゝゐた。
「ン・ゴツホといふ画描きは、太陽に酔ひ狂つたところは嫌味ですが、五月の野を見るときは、彼を愛さずにはゐられなくなりますね」
近頃、都からよく遊びに来る若い画家が、かう言つた。ロココ式の陶器の絵模様の感じのする、装飾的で愛くるしい美しい青年だつた。天鵞絨の襞の多い上衣に、細い天鵞絨のネクタイがよく似合つた。
彼はまづ、かの女の母の気に入つた。母は言つた。
「あの晴々しい若者を、娘の遊び友だちにつけて置いたら、娘もおつつけ病気がよくなるでせう。」
父と兄は苦もなく同意した。それほどこの若い画家は都会文化に灰汁抜けて現実性の若い者同志間の危険はなかつた。
美貌の直助は美貌の客をたちまち贔屓にした。若い画家が訪ねて来ると、「えへん/\」とうれしさうに笑ひながら、饗応の手伝をした。かの女が画家と並んで家を出て行くのを見ると、一層「えへん/\」とうれしさうに笑つて見送つた。
「向ふの丘へ行つて異人館の裏庭から、こちらを眺めなすつたらいゝ。相模の連山から富士までが見えます。」
二人がたまには彼を誘つても、彼はどうしてもついて来なかつた。彼は川が持場であるといつた強情さで拒絶した。「いや、わたしは晩のご馳走のさかなを少し探しときませう。」
異人館の丘の崖端から川を見下ろすと、昼間見る川は賑かだつた。河原の砂利に低く葭簾の屋根を並べて、遊び茶屋が出来てゐた。その軒提燈と同じ赤い提燈をゆらめかして、鮎漁りの扁長い船が鼓を鳴らして瀬を上下してゐた。鷦鷯のやうに敏捷に身を飜して、楊柳や月見草の叢を潜り、魚を漁つてゐる漁師たちに訪ね合はしてゐる直助の紺の姿と確かりした声が、すぐ真下の矢草の青い河原に見出された。
「これんぱかしの若鮎はないかい。丸ごとフライにするのだ。」
日が陰つたり照つたりして河原道と川波の筋を金色にしたりした。
手頃な鮎が見付からぬかして、浅い瀬を伝ひ/\、直助の姿はいつか、寂しい川上へ薄らいで行つた。渚の鳥の影に紛れてしまつた。
「素焼の壺と、素焼の壺と並んだといふやうな心情の交渉が世の中にないものでせうか。」
画家は云つた。
「芭蕉に、逝く春や鳥啼き魚は目に涙といふ句がありますが、何だか超人間の悲愁な感じがしますわ。」
かの女も画家も、意識下に直助によつて動揺させられるものがあり、二人ともめい/\勝手にあらぬことを云つてるやうで、しかも、心肝を吐露してる不思議な世界を心に踏みつつ丘の坂道を下つた。かの女の足取りは、ほぼ健康を恢復して確かりして来た。
かの女は十八歳で女学校を出ると、その秋、都会のその明るい顔をした青年画家の妻に貰はれて行つた。
半年ほどの交渉のうちに、若い画家は、かの女の持つ稀有の哀愁を一生錨綱にして身に巻きつけ、「真面目なるもの」に落付き度いといひ出した。彼のやうな三代相続の都会人の忰は趣味に浮いて、ともすれば軽薄な香水に気化してしまふ惧れがあつた。かの女も同じ屋の棟に住むなら、鮮かな活ける陶器人形がかの女の憂鬱には調和すると思つた。
兄は云つた。
「これが愛といへるだらうか。」
父は黙つてゐた。
母は賢かつた。
「この子は、どうせ誰かに思ひ切つて宥めたり、賺かされたりしなければ、いのちの芽を吹かない子なのです。けれどもまた、あんまり手荒く、宥めたり賺かしたりする相手では、却つて芽を拗らせてしまふといふこともありませう。私はあの人ならちやうどいゝ相手だと思ふんですが。」
腕組してゐた父は眼を開いていつた。
「よし、よし、直助を呼びなさい。川に仮橋をかけることにしよう。嫁入りの俥を通す橋を」
直助は毎日仮橋の架設工事の監督に精出してゐた。秋も末に近く、瀬は殆ど涸れてゐた。川上の紅葉が水のまにまに流れて来て、蛇籠の籠目や、瀬の縁に厚い芥となつて老いさらばつてゐた。
近い岸より、遠い山脈が襞目を碧落にくつきり刻み出してゐた。ところどころで落鮎を塞ぐ魚梁の簾に漉される水音が白く聞える。
結び慣れてゐた洋髪から島田髷に結ひ直すために、かの女は暫く髪癖を直す手当てをしなければならなかつた。かの女は部屋に籠つて川にも人にも遇へなかつた。直助には障子越しに一度声をかけた。
「川はどう?」
「こゝのところ川は痩せてをります。」
直助の言葉は完全に命令遵奉者の無表情に還つてゐた。直助は思ひ出したやうにある朝自分の部屋から取つて来て、障子をすこしあけて希臘神話をかの女に返して行つた。
直助が河に墜ちて死んだのは、かの女が嫁入つてから半月ばかり後の夜のことであつた。土地の人たちは直助が過つて河へ墜ちて死んだと信じ切つてゐるやうだ。かの女もさう信じた。けれども、かの女は二十何年後の昨日、ふと直助が返した希臘神話の本の頁の間から、思ひがけなく彼が書いた詩のつもりらしい、埃で赤腐れた紙片を発見した。直助が自分で河へ身を投げて死んだのではないかといふ疑念を急にかの女は起したのである。
お嬢さま一度渡れば
二度とは渡り返して来ない橋。
私も一度お送り申したら
二度とは訪ねて行かない、橋
それを、私はいま架けてゐる。
いつそ大水でもと、私はおもふ
橋が流れて呉れゝばいゝに
だが、河の神さまはいふ
橋を流すより、身を流せ。
なんだ、なんだ。
川は墓なのか。
その夜かの女は何年か振りで川の夢を見る。
一面の大雪原である。多少の起伏はある。降雪のやんだあとの曇天で、しかもまたその後に来る降雪を孕んだ曇天である。一面に拡く重い地上の大雪原の面積と同じ広さの曇天の面積である。曇天の面にむらがある。地上の大雪原の面にも鉛色めいたかげりと漂雪白の一面とが大きいスケールのむらをなしてゐる。
――一面に広い大雪原である。真只中を細い一筋の川――だが近よつて見ると細くはない。大河だ。大雪原の大面積が大河を細く劃つて見せてゐたのである。いつか私はその岸をとぼ/\と歩いてゐた。男の猟人の姿に私はなつてゐた。葦がほんのわづかその雪原にたゞそれだけの植物のかすかな影をかすかに立ててちらほらと生えてゐた。その葦を折りながら、私は鉄砲を背負つて歩いてゐた――だが、その猟人の姿はやつぱり私でなくつて直助だつたのだ。私の姿はその時どういふ恰好で大雪原のどの辺にゐたか知れないのだ。私にはだん/\私の姿や位置は意識されず、猟人姿の直助がのつしのつしと、前こごみに歩いてゐるばかりしか眼にとまらなくなつた――が、またも私の眼に見え出したものがある。直助の歩みと同列同速力で、川のやゝ岸近に筏が流れてゐたのだ。筏は秩父の山奥から流れて来たものだと私は意識した。きれいに皮をはいで正確の長方形に截つた楓か欅材で、上べがほんのり処女の色をして底は冷たく死のやうに落付いた二枚の板の連りであつた。
かの女は朝覚めて胸の中でいふ。直助よ。お前はとつくに死んでゐるのだ。それだのに昨夜また私の夢の中に見えて、猟人の姿をし、何処までお前は川のほとりを歩いて行つたのだ……。何をおまへはまだ探してゐるのだ。
川は墓でもなかつたのか
川のほとりでのみ相逢へる男女がある。
かの女の耳のほとりに川が一筋流れてゐる。未だ、嘘をついたことのない白歯のいろのさざ波を立てゝ――
かの女は、なほもこの川の意義に探り入らなければならない。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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