日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
岡本かの子全集 |
冬樹社 |
1975(昭和49)年発行 |
かの女の耳のほとりに川が一筋流れてゐる。まだ嘘をついたことのない白歯のいろのさざ波を立てゝ、かの女の耳のほとりに一筋の川が流れてゐる。星が、白梅の花を浮かせた様に、或夜はそのさざ波に落ちるのである。月が悲しげに砕けて捲かれる。或る夜はまた、もの思はしげに青みがかつた白い小石が、薄月夜の川底にずつと姿をひそめてゐるのが覗かれる。
朝の川波は蕭条たるいろだ。一夜の眠から覚めたいろだ。冬は寒風が辛くあたる。をとめのやうにさざ波は泣く。よしきりが何処かで羽音をたてる。さざ波は耳を傾け、いくらか流れの足をゆるめたりする。猟師の筒音が聞える。この川の近くに、小鳥の居る森があるのだ。
昼は少しねむたげに、疲れて甘えた波の流れだ。水は鉛色に澄んで他愛もない川藻の流れ、手を入れゝばぬるさうだが、夕方から時雨れて来れば、しよげ返る波は、笹の葉に霰がまろぶあの淋しい音を立てる波ではあるが、たとへいつがいつでも此の川の流れの基調は、さらさらと僻まず、あせらず、凝滞せぬ素直なかの女の命の流れと共に絶えず、かの女の耳のほとりを流れてゐる。かの女の川への絶えざるあこがれ、思慕、追憶が、かの女の耳のほとりへ超現実の川の流れを絶えず一筋流してゐる。
かの女は水の浄らかな美しい河の畔でをとめとなつた女である。其の川の水源は甲斐か秩父か、地理に晦いをとめの頃のかの女は知らなかつた。たゞ水源は水晶を産し、水は白水晶や紫水晶から滲み出るものと思つて居た。春はその水晶山へ、はら/\と一重桜が散りかかるのを想像する。春は水嵩も豊で、両岸に咲く一重桜の花の反映の薄べに色に淵は染んでも、瀬々の白波はます/\冴えて、こまかい荒波を立てゝゐる。筏乗りが青竹の棹をしごくと水しぶきが粉雪のやうに散つて、ぶん流し、ぶん流し行く筏の水路は一条の泡を吐いて走る白馬だ。筏板はその先に逃げて水と殆ど一枚板だ。筏師はあたかも水を踏んで素足でつつ走る奇術師のやうだ。そのすばしこさに似合ふやうな、似合はぬやうな山地のうすのろい唄の哀愁のメロデーを長閑に河面に響かせて筏師は行く。
或る初夏の夕暮、をとめのかの女は、河神が来て、冴えた刃物で、自分の処女身を裂いても宜い、むしろ裂いて呉れと委せ切つた姿態を投げた――白野薔薇の花の咲き群れた河原のひと処、夕闇の底に拡がるむら花のほの白さが真珠の床のやうに冷たくかすかに光り、匂やかな露をふくんでをとめのかの女を待つてゐた。をとめのかの女は性慾を感じ始めて居た。性慾の敏感さ――凡て、執拗なもの、陰影を持つもの、堆積したもの、揺蕩するもの等がなつかしく、同時にそれ等はまたかの女に限りなく悩やましく、わづらはしかつた。かの女はをとめの身で大胆にもかの女の家の夕暮時の深窓を逃れ来て、此処の川辺の夕暮にまぎれ、河原の玲澄な野薔薇の床に横たはる。薄い毛織の初夏の着物を通す薔薇の棘の植物性の柔かい痛さが適度な刺戟となつて、をとめの白熱した肢体を刺す。寝転んで、始め鼻を当てると突き上げるやうな蕊のにほひ、それにも徐々に馴れて来る。五分、十分、かの女はまつたく馴れて来た。ひそかな噎ぶやうな激情が静まつて、呑気な放心がやつて来る。体をひねり、持つて来た薄い雑誌をむざ/\花床の上に敷いて片肘まげる。河の流れへ顔を向けて貝の片殻のやうに展げた掌に頬を乗せる。眺め入る河面は闇を零細に噛む白波――河神の白歯の懐しさをかつちりかの女がをとめの胸に受け留める。をとめは河神に身を裂かれ度いのだ。あの人間が人間の体を裂き弄び喜ぶのは、重くろしく汚はしく辱かしい気がする。かの女が今しがた忍び出て来た深窓の家には、二組の夫婦と、十人あまりの子供達が堆積し、揺蕩し、かの女もそのなかの一人であることが、此頃かの女には何か陰のある辱かしさ、たつた一人の時に殊にも深く感ずる面伏せな実感である。をとめは性慾を感じ出したことによつて、却つて現実世界の男女の性慾的現象に嫌悪を抱き始めた。人の世のうつし身の男子に逢ふより先、をとめのかの女は清冽な河神の白刃にもどかしい此の身の性慾を浄く爽やかに斬られてみたいあこがれをいつごろからか持ち始めて居た。
「お嬢さま。」
男の声、直助の声だ。草土堤の遠くから律儀な若者の歩みを運ばせて来る足音。
「お嬢さま。」
今一度、呼んだら返事しよう、家の者に言ひつかつて、かの女を呼びに来たに違ひないのだ。
「お嬢さま。」
だん/\直助の声が家の者から言ひ付かつた義務的な声ではなくなり、本当に直助自身のかの女を呼ぶ熱情がこもつて来る。直助がかの女を秘かに想つて居ることを、かの女はだん/\近頃知るやうになつて居た。だが、かの女はそのことを深く考へようとしなかつた。身辺に何か頼母しい者が自分を見守つてゐて呉れる安心に似た好意を感じてゐれば好いと思つて居た。かの女の生理的に基因するものか、その頃のかの女は人間的な愛情や熱情がむしろ厭はしかつた。
かの女の十一の歳から足かけ六年、今年二十二になる直助は地主であるかの女の家の土地台帳整理の見習ひとして、律儀な農家の息子の身を小学校卒業後間もなく、三里離れた山里から、都会に近いかの女の家に来て、子飼ひからの雇ひ男となつたのである。直助は地味な美貌の若者だ。紺絣の書生風でない、縞の着物とも砕けて居ない。直助はいつも丹念な山里の実家の母から届けて寄越す純無地木綿の筒袖を着て居た。
直助は秘かにかの女を慕つてゐるらしかつたが、黙つて都の女学校へ通ふかの女の送り迎へをして、朝は家からの淋しい道を河の畔まで来て、夕方にまた迎へに来た。年頃の若者になつても、鼻唄一つうたふでもなく、嫌味な教会通ひの若者となりもしない、何処から得たか西行の山家集と、三木露風の詩集を持つて居た。そして八犬伝やアンデルセンの『月物語』をかの女の兄から借りて読んで居るのだつた。夜など近所の若者の仲間入りをして遊んで居たことはなかつた。野山の仕事に忙しい時期には、多くの作男と一緒になつて働きに出かけた。直助はそれでも土くさい色黒男にはならなかつた。と言つて腺病質のなま蒼い体質では勿論ないのだ。何と言はうか、漆黒の髪が少し濃過ぎる位の体質の眼の覚めるやうな色白な男女がある。あの健康な見ざめのしない色白なのだ。でも野山で手足も男らしく使ひならしてあるので、何処か新鮮な野山の匂ひも染んでゐた。
「私ね、この頃希臘の神話を読んでゐるのよ。その本の中に河神についてこんな事が書いてあるのよ。(かの女は頁を繰つて)古人の信ずるところに依れば河神は、変装の能力を備へて居り、河底あるひは水源に近き洞窟の裡に住み、その河の広狭長短に随ひ、或は童児、青年、老夫に変相、その渓を出でて蜿蜿と平原を流るゝ時は竜蛇の如き相貌となり、急湍激流に怒号する時は牡牛の如き形相を呈し……まだいろ/\な例へや面白い比喩が書いてあるけれど……」
直助はだしぬけに口を切つた。
「子供のうち、私の考へてゐたことゝよく似てをりますな。」
「どう考へてゐたの。」
「私は河が生きてゐるやうに思つてをりました。河上はずつとこの辺の河より幅が狭いのですけれど、水面が引締つてゐて、活気があるやうです。私の母は気が優しくてぢき心を傷めますので、私は友達と喧嘩して口惜しかつたり、何か欲しいものがあつても買へなかつたり、そのほか悲しい時や辛い時には、自分の部屋の障子の破れたところから水を見ては気持ちを訴へてをりました。河は水であつても、河の心は神様か人であつて、何でも人間の心が判つて呉れるやうに思ひました。
母は私のその様子を見てをりまして、大方筏師にでも見とれてゐるのだらう、そんなに好きなら筏師になれとよく申しました」
「さうよ、ね、何故筏師にならなかつた? 素晴らしいぢやないの、筋肉の隆々とした筏師なんか。」
「は、ですけど、どうせ筏師は海口へ向つて行くんです。それを思ふと嫌でした。」
「海、きらひ?」
「は、海は何だかあくどい感じがします」
直助のやうな若者には海の生命力は重圧を感じるのであらう。かの女は希臘神話がこんなにも直助の興を呼んで話させたのが不思議でかの女の河に対する神秘感が一そう深まるのだつた。
「あんた、いま、この川をどう感じて」
「――お嬢さまのお伴してゐると、川とお嬢さまと、感じが入り混つてしまつて、とても言ひ現し切れません。お嬢さまは。」
「さあ、――今は、上品な格幅のいゝ老人かも知れないわね。」
「おまへも、お読み」と言つて、かの女は直助に希臘神話の本を貸し与へた。
かの女の食慾が、はか/″\しくなかつた。やはり青春の業かも知れない。熟した味のある食品は口へ運べなかつた。直ぐむかついた。熟した味の籠る食品といふものは、かの女に何か、かう中年男女の性的のエネルギーを連想さした。
まだ実の入らない果実、塩煎餅、浅草海苔、牛乳の含まぬキヤンデイ、――食品目は偏つて行つた。かの女は、人の眼に立たぬところで、河原柳の新枝の皮を剥いて、『自然』の素の肌のやうな白い木地を噛んだ。しみ出すほの青い汁の匂ひは、かの女にそのときだけ人心地を恢復さした。滋養を摂らないためか、視力の弱つたかの女の眼に、川は愈々、漂渺と流れた。
裳! 陽炎を幾千百すぢ、寄せ集めて縫ひ流した蘆手絵風の皺は、宙に消えては、また現れ、現れては、また消える。刹那にはためく。
だが裳だけ見えて、河神の姿は見えないのだ。かの女はもどかしく思つて探す。かの女はいつか眼底を疲らして喪心する。美しい情緒だけが心臓を鼓動さしてゐる。
「うちの総領娘が、かう弱くては困るな。」
「体格はいゝのですから、食べものさへ食べて呉れたら、何でもないのですがね。」
「直助に旨い川魚でも探させろ。」
両親からの命令を聴いて、椽側で跪いた直助は異様に笑つた。両親のうしろから見てゐたかの女は身のうちが慄へた。直助の心にも悪魔があるのか。今の眼の光りは只事ではない。若い土蕃が女を生捕りに出陣するときのあの雄叫びを、声だけ抜いて洩した表情ではないか。直助はこれから魔力のある食べものを探して来て、それを餌にして私を虜にしようとするものではないかしらん。
「直助なんかに探させなくつても」
かの女は言つた。すると父親よりも先に直助が押へた。
「いえ、わたくしがお探しいたします。」
「白鮠のこれんぱかしのは無いかい。」
「石斑魚のこれんぱかしのは無いかい。」
「岩魚のこれんぱかしのは無いかい。」
「川鯊のこれんぱかしのは無いかい。」
魚籠を提げて、川上、川下へ跨がり、川魚を買出しに行く直助の姿が見られた。川上の桜や、川下の青葉の消息が彼の口から土産になつて報じられた。彼は一通りそれらの報告をして、生魚の籠を主人達に見せてから女中達のゐる広い厨に行き、買ひ出して来た魚を、自分で生竹の魚刺を削つて、つけ焼にした。
「出来ました。お喰りなさい。」
直助は、魚の皿を運んで来る女中のうしろから、少し遠ざかつてかの女に手をついた。
父から頼まれたとしても、何故、この召使はわたしにかうも熱心に食べものを勧めるのだらう。かの女は直助が父に、かの女の食べものを探すことを云ひつかつたときの異様な眼の光りを観て取つた上、かういふ熱心な態度をされるので、つむじを曲げた。
「いやだと言ふのに、直助。生臭いおさかななんかは。」
「でも、ご覧になるだけでも……。」
直助の言ひ淀む言葉には哀願に似たものが含まれてゐる。
川魚は、みな揃つて小指ほどの大きさで可愛ゆかつた。とつぷりと背から腹へ塗られた紺のぼかしの上に華奢な鱗の目が毛彫りのやうに刻まれて、銀色の腹にうす紅がさしてゐた。生れ立ての赤子の掌を寵愛せずにはゐられないやうな、女の本能のプチー(小さくて可愛いゝ)なものに牽かるゝ母性愛的愛慾がかの女の青春を飛び越して、食慾に化してかの女を前へ推しやつた。少しも肉感を逆立てない、品のいゝ肌質のこまかい滋味が、かの女の舌の偏執の扉を開いた。川海苔を細かく忍ばしてある。生醤油の焦げた匂ひも錆びて凜々しかつた。串の生竹も匂つた。
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