日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日第1刷 |
1992(平成4)年1月23日第1刷 |
岡本かの子全集 第三巻 |
冬樹社 |
1974(昭和49)年4月 |
池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青蘆の洲とは、両脇から錆び込む腐蝕のやうに黝んで来た。
窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をしてゐる女主人の姿は妖しく美しかつた。格幅のいゝ身体に豊かに着こなした明石の着物、面高で眼の大きい智的な顔も一色に紫がゝつた栗色に見えた。古墳の中の空気をゼリーで凝らして身につけてゐるやうだつた。室内でたつた一人の客の私は、もう灯をともしてもいゝ時分なのを、さうしないのは、今宵私を招いた趣旨の蛍見物に何か関係があるのかも知れないと思ひ、すこしは薄気味悪くも我慢して、勧められるまゝ晩餐のコースを捗らせて行つた。だん/\募る夕闇の中に銀の食器と主客の装身具が、星座の星のやうに煌めいた。
女主人久隅雪子は私と女学校の同級生で、学校を卒業するとしばらく下町の親の家に居たことだけは判つたが、直ぐ消息を断つた。それから十年あまりして私は既に結婚してゐて、良人に連れられて外遊する船がナポリに着いた時、行き違ひに出て行かうとする船に乗り込む遽しいかの女に、埠頭でぱつたり出遭つて、僅かにお互に手を握つた。あとは私の帰朝後を待つてといひ残して訣れてしまつた。
二人ともいはゆる箱入娘で、女学生にしてもすでに知らねばならない生理的の智識に疎いところがあり、よく師友から笑ひ者にされた。その代り二人は競つて難しい詩や哲学の書物を読んだ。さういつた関係から、双方無口であり極度の含羞やでありながら、何か黙照し合ふものがあるつもりで頼母しく思つてゐた。だが私が四年目に帰朝し、それから二三年も経つたのに、かの女からは再び何の消息もなく、同窓の誰も知らなかつた。一度こちらから親の家へ尋ね合した手紙は、久しく前に移転して住所不明の附箋で返されて来た。
ところが突然かの女は郊外の新居といふのから電話して来て、車を廻して寄越し、自宅で蛍見物をさすといふのに、のん気な昔の友人訪問の気持を取り戻して、私は来て見たのであつた。
淡い甘さの澱粉質の匂ひに、松脂と蘭花を混ぜたやうな熱帯的な芳香が私の鼻をうつた。女主人は女中から温まつた皿を取次いで私の前へ置いた。
「アテチヨコですの?」
「お好き?」
「えゝ。でも、レストラントでなくて素人のおうちでかういふお料理珍しいと思ふわ」
「素人ぢやございませんわ。店の司厨長を呼び寄せて、みな下で作らして居ますのよ」
「わざ/\、まあ、恐れ入りました」
「私、最近に下町で瀟洒なレストラントを始めようと思つて、店や料理人を用意してありますのよ」
女主人はレモンの汁を私の皿の手前に絞つて呉れ、程よく食塩と辛子を落して呉れた。私は大きな松の実のやうな菜果を手探りで皮を一枚づゝ剥ぎ、剥げ根にちよつぽり塊つてついてゐる果肉に薬味の汁をつけて、その滋味を前歯で刮き取ることにこどものやうな興味を湧しながら、
「まあ、あなたがお料理屋を、どうして」
「――何かして紛らしてゐなければ――独身女はしじゆう焦々しますのよ」
さう云つて友はちよつと眉を寄せたが、友の内心には何処かさとりめいた寛いだ場所が出来、一脈の涼風が過不及なしの往来をしてゐるらしくも感じられる。下手な情感的な態度を見せては案外友を煩さがらさぬともかぎらない。
「それよりも、私、私が今度買ひ取つて落着くやうになつたこの家に就いて不思議な因縁話があるの、あなたに聴いて頂かうと思つて……さう陽気な話ぢやありませんの。灯をつけて話しますわ」
夕顔の花のやうな照り色のシヤンデリヤがぽつとついた。室内の照明に負けて窓外の景色はたちまち幕を閉ぢて、雨の銀糸が黒い幕面にかすれた。一たん眼を冥つた友はまたぱつと開いて私の顔を真面に見た。これも昔見た友の癖である。
かの女は女学校を卒業して親の家で結婚前の生活をしてゐる期間に、望まれて父親の知合ひで郊外に隠寮を持つ退職官吏Yの家へ客分として預けられることになつた。
退職官吏Yの考へでは、自分の蒐集品の殊にこまかい細工ものゝ昔人形や、壊れものゝ陶もの類は、骨董美術品商の娘であるかの女の馴れて丹念な指先が、手入れ保存に適当だと思つたからであつた。かの女の父はまたかの女がたとへ富んだ老舗の長女でも、下町の娘であるからには躾けに至らぬ我儘なところがあらう。一度は上層智識階級の家へ入れて見習はしたいといふ昔風の考へがあつた。雪子の父はなまじなよその夫人よりY家の主人を非常に厳格な躾け正しい人と信じてゐたから……
かの女はちよつとした嫁入支度ほどの調度を持つて、Yの隠寮へ寄寓した。
あてがはれた庭向きの客座敷の隣の八畳へ調度を収めて、女らしい部屋にしてかの女は落着いた。家長のYは、かの女が落着くとすぐ部屋に兵児帯をちよつきり結びにした大兵の体を唐突に運び入れて来て、衣桁にかけた紅入りの着ものや、刺繍をした鏡台の覆ひをまじ/\と見て、
「娘の子を一人持つたやうだ」
これが精一杯のお世辞の挨拶だといふやうに、ぶつきら棒に云つた。そして直ぐ椽から盆栽棚のたくさん並んでゐる庭へ下りて行つた。
その後はYは一度も部屋に見舞つて来なかつた。そしてとても仕切れないほどの所蔵品の手入れを命じたり、観賞するためにあれこれと蔵から出し入れさせられて煩さかつた。彼は偏執症の蒐集慾以外に精力を使ふことを絶対に嫌つた。早く妻に訣れてからは、異性には全然関心を持たなかつた。それは彼の最も世の中で価値ありとする品とか気位とか悧巧とかを誑惑する魔性のものに外ならなかつた。たゞ彼は気短かになつて、しば/\癇癪を起した。それらの性癖の諸点が却つて彼を厳格端正に表面化させたのだと雪子はYに就いての世評の裏を知つた。
何にでも極度に好き嫌ひをつけるYは、自分の息子兄弟にもそれをした。弟息子の梅麿は父の唯一の寵児だつた。彼はやゝ下膨れの瓜実顔の、こんもり高い鼻の根に迫らぬやう切れ目正しくついてゐる両眼の黒い瞳に、長い睫毛を煙らせて、地を見入つてゐるときには、何を考へてゐるか誰も察しがつかなかつた。桐の花のやうに典雅でつくねんとした美しさが匂つた。声も鋭さを鞣して楽しい響きを持つてゐた。彼はいつでも不機嫌に近く黙つて孤独で、地へ向けて長い睫毛を煙らせてゐた。雪子は新しく家族の仲間に加はつた自分に対し、若い女性に対し、何の影響をも示さないこの少年に、焦立たしさと、不満を含まないわけにはゆかなかつた。
だが、その美しさには雪子も呆然として息を吐いた。父は梅麿を自分の蒐集物の愛玩品の中に数へ、しかもその中で最も気に入つた一つのものゝやうに、書斎で、庭で、二人は大概一緒だつた。そして父はこの息子に下手からお世辞を使ふ態度を取つてゐた。梅麿は父がお世辞を使ふ気持を見抜いて、とぼけて悠々とお世辞を使はれてゐた。だが決して調子に乗らなかつた。そして、父が理由もなく癇癪を起しかけて来ると、少女よりやゝしつかりした綺麗な唇を嬌然と笑みかけて、あどけないことを云つたり、親を煽てたり、他人の悪口を云つたり、およそ父の弱点が喜びさうなところを衝いて、素知らぬ顔で父の気分を持ち直させることに、気敏い幇間のやうな妙を得てゐた。
雪子はいやらしいと思ふ以上に、その技巧の冴えに驚嘆した。だが、梅麿は父以外にはその手は絶対に使はなかつた。
父の気紛れが、面白くない仕辛い仕事を望むときには、梅麿はすーつと脇へ除けた。夜中に急に風呂を沸かさせたり、椽の下の奥に蔵つてある重いものを取出さしたり――さういふときには兄の鞆之助が、ぶつ/\いふ召使を困りながら指揮して、その衝に当つた。
父はこのことを知つてゐて、
「梅は狡いやつだ」
といつて笑つたが、その狡さが気に入つてもゐた。
兄の鞆之助は反対に調法の外、何から何まで、父の気に入らなかつた。父は兄息子の顔を見るとむつと黙つて仕舞ふか、癇癪を浴せかけた。命令通り出来上つた仕事も、その命令通りにした愚直なことが、そこに叱言の隙間もないことで父を怒らせた。兄はしじゆうおど/\してゐて、眼鼻立ちに神経の疲労と愁ひの湿りがあつた。濃い頭の捲毛だけが兄弟似寄つてゐた。兄弟は父が現代教育の方針に不満といふ理由で、一人は中学を、一人は高等学校を、途中から退学させられて、通つて来る二三人の家庭教師に就かされてゐるが、実は父が家庭に於ける享楽生活に手不足を来すのを、父は極力嫌つたためでもあつた。
兄の鞆之助は雪子の部屋へよく遊びに来た。雪子が部屋の周囲に、蔵から出して来た、真ものゝ植物以上に生々と浮き出てゐる草花が染付けられてゐる鉄辰砂の水差や、掌の中に握り隠せるほどの大きさの中に、恋も、嘆きも、男女の媚態も大まかに現はれてゐる芥子人形や、徳川三百年の風流の生粋が、毛筋で突いたやうな柳と白鷺の池水に彫み込まれた後藤派の目貫きのやうなものを並べて、自分の店から持つて来たいろ/\の専門の道具や薬品を使つて手入れしながら、面倒臭く思つて伸びをしたり、または芸術といふ不思議な幻術が牽き入れる物憎い恍惚に浸つたりしてゐると兄はおづ/\入つて来る。
彼はかの女の傍に立膝して坐ると、いくらか手入れを手伝ひながら、かの女の気配を計つた。かの女の丸い顔をいぢらしさうに見た。
「うちは、これでね、思つたほど豊かぢやないんですよ。何しろ父はあゝいふ風でせう。何でも見付け次第買つちまつて、とき/″\月末の生活費の払ひの現金にも困ることがあるんです」
かの女は興味索然としながら話に釣り込まれた。
「あなた方ご兄弟は将来どうするお積り」
「父が生きてゐるうちは今の財産を使つちまつても、父の恩給で米代ぐらゐはありますが、父が死んだらこんな道具類でもぽつ/\売つて喰つて行くより手はありません。それにしても贋物が多くて」
「持参金附きのお嫁さんでもお貰ひになつたらいかゞ。ご兄弟とも美男子だしお家柄はよし」
かの女は揶揄つた。鞆之助は真に受けた。
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