読経は進んで行った。会葬者は、座敷にも椽(えん)にも並み余り、本堂の周囲の土に立っている。わたくしは会葬者中の親族席を見廻す。そしてわたくしは茲にも表現されずして鬱屈(うっくつ)している一族の家霊を実物証明によって見出すのであった。
北は東京近郊の板橋かけて、南は相模厚木辺まで蔓延(まんえん)していて、その土地土地では旧家であり豪家である実家の親族の代表者は悉(ことごと)く集っている。
その中には年々巨万の地代を挙げながら、代々の慣習によって中学卒業程度で家督を護(まも)らせられている壮年者もある。
横浜開港時代に土地開発に力を尽し、儒学と俳諧にも深い造詣(ぞうけい)を持ちながら一向世に知られず、その子としてただ老獪(ろうかい)の一手だけを処世の金科玉条として資産を増殖さしている老爺(ろうや)もある。
蓄妾(ちくしょう)に精力をスポイルして家産の安全を図っている地方紳士もある。
だが、やはり、ここにも美に関るものは附いて離れなかった。在々所々のそれ等の家に何々小町とか何々乙姫とか呼ばれる娘は随分生れた。しかし、それが縁付くとなると、草莽(そうもう)の中に鄙(ひな)び、多産に疲れ、ただどこそこのお婆さんの名に於ていつの間にか生を消して行く。それはいかに、美しいもの好きの家霊をして力を落させ歎(なげ)かしめたことであろう。
葬儀は済んだ。父に身近かの肉親親類たちだけが棺に付添うて墓地に向った。わたくしはここの場面をも悉(くわ)しい説明することを省く。わたくしは、ただ父の遺骸(いがい)を埋め終ってから、逸作がわたくしの母の墓前に永い間額(ぬか)づき合掌して何事かを語るが如く祈るが如くしつつあるのを見て胸が熱くなるのを感じたことを記す。
母はわたくしを十四五の歳になるまで、この子はいじらしいところが退(の)かぬ子だといって抱き寝をして呉(く)れた。そして逸作はこの母により逸早く許しを与えられることによってわたくしを懐にし得た。放蕩児(ほうとうじ)の名を冒(おか)しても母がその最愛の長女を与えたことを逸作はどんなに徳としたことであろう。わたくしはただ裸子のように世の中のたつきも知らず懐より懐へ乳房を探るようにして移って来た。その生みの母と、育ての父のような逸作と、二人はいまわたくしに就(つい)て何事を語りつつあるのであろうか。
わたくしはその間に、妹のわたくしを偏愛して男の気ならば友人の手紙さえ取上げて見せなかった文学熱心の兄の墓に詣(もう)で、一人の弟と一人の妹の墓にも花と香花(こうげ)をわけた。
その弟は、学校を出て船に努めるようになり、乗船中、海の色の恍惚(こうこつ)に牽(ひ)かれて、海の底に趨(はし)った。
その妹は、たまさか姉に遇(あ)うても涙よりしか懐かしさを語り得ないような内気な娘であった。生よりも死の床を幾倍か身に相応(ふさ)わしいものに思い做(な)して、うれしそうに病み死んだ。
風は止んだ。多摩川の川づらには狭霧(さぎり)が立ち籠(こ)め生あたたかくたそがれて来た。ほろほろと散る墓畔の桜。わたくしは逸作の腕に支えられながら、弟の医者にちょっと脈を検められ、「生きの身の」と、歌の頭字の五文字を胸に思い泛(うか)べただけで急いで帰宅の俥(くるま)に乗り込んだだけを記して、早くこの苦渋で憂鬱(ゆううつ)な場面の記述を切上げよう。
「奥さまのかの子さーん」
夏もさ中にかかりながらわたくしは何となく気鬱(きうつ)加減で書斎に床は敷かず枕(まくら)だけつけて横になっていた。わたくしにしては珍らしいことであった。その枕の耳へ玄関からこの声が聞えて来た。お雛妓(しゃく)のかの子であることが直(す)ぐ思い出された。わたくしは起き上って、急いで玄関へ下りてみた。お雛妓のかの子は、わたくしを見ると老婢(ろうひ)に、
「それ、ごらんなさい。奥さまはいらっしゃるじゃありませんか。嘘(うそ)つき」
と、小さい顎(あご)を出し、老婢がこれに対し何かあらがう様子を尻眼(しりめ)にかけながら、
「あがってもいいでしょう。ちょっと寄ったのよ」
とわたくしに言った。
わたくしは老婢が見ず知らずの客を断るのは家の慣(なら)わしで咎(とが)め立てするものではありませんと雛妓を軽くたしなめてから、「さあさあ」といってかの子を二階のわたくしの書斎へ導いた。
雛妓は席へつくと、お土産(みやげ)といって折箱入りの新橋小萩堂の粟餅(あわもち)を差し出した。
「もっとも、これ、園遊会の貰いものなんだけれど、お土産に融通しちまうわ」
そういって、まずわたくしの笑いを誘い出した。わたくしが、まあ綺麗(きれい)ねと言って例の女の癖の雛妓の着物の袖(そで)を手に取ってうち見返す間に雛妓はきょう、ここから直ぐ斜裏のK――伯爵家に園遊会があって、その家へ出入りの谷中住いの画家に頼まれて、姐(ねえ)さん株や同僚七八名と手伝いに行ったことを述べ、帰りにその門前で訊(き)くと奥さまの家はすぐ近くだというので、急に来たくなり、仲間に訣(わか)れて寄ったのだと話した。
「夏の最中の園遊会なんて野暮でしょう。けど、何かの記念日なんだから仕方ないんですって。幹事さんの中には冬のモーニングを着て、汗だくでふうふう言いながらビールを飲んでた方もあったわ」
お雛妓らしい観察を縷々(るる)述べ始めた。わたくしがかの女に何か御馳走(ごちそう)の望みはないかと訊くと、
「では、あの、ざくざく掻(か)いた氷水を。ただ[#「ただ」に傍点]水(すい)というのよ。もし、ご近所にあったら、ほんとに済みません」
と俄(にわか)に小心になってねだった。
わたくしの実家の父が歿(な)くなってから四月は経(た)つ。わたくしのこころは、葬儀以後、三十五日、四十九日、百ヶ日と過ぐるにつれ、薄らぐともなく歎きは薄らいで行った。何といっても七十二という高齢は、訣れを諦(あきら)め易くしたし、それと、生前、わたくしが多少なりとも世間に現している歌の業績を父は無意識にもせよ家霊の表現の一つに数えて、わたくしは知らなかったにもせよ日頃慰んでいて呉れたということは、いよいよわたくしをして気持を諦め易くした。勿論(もちろん)わたくしに取ってはそういう性質の仕事の歌ではなかったのだけれども。それでも、まあ無いよりはいい。
で、その方は気がたいへん軽くなった。それ故にこそ百ヶ日が済むと、嘗(かつ)て父の通夜過ぎの晩に不忍池(しのばずのいけ)の中之島の蓮中庵で、お雛妓かの子に番(つが)えた言葉を思い出し、わたくしの方から逸作を誘い出すようにして、かの女を聘(あ)げてやりに行った。「そんな約束にまで、お前の馬鹿正直を出すもんじゃない」と逸作は一応はわたくしをとめてみたが、わたくしが「そればかりでもなさそうなのよ」と言うと、怪訝(けげん)な顔をして「そうか」と言ったきり、一しょについて行って呉れた。息子の一郎は「どうも不良マダムになったね」と言いながら、わたくしの芸術家にしては窮屈過ぎるためにどのくらい生きるに不如意であるかわからぬ性質の一部が、こんなことで捌(さば)けでもするように、好感の眼で見送って呉れた。
蓮中庵では約束通りかの女を聘(よ)んで、言葉で番えたようにかの女のうちで遊んでいる姐(ねえ)さんを一人ならず聘んでやった。それ等の姐さんの三味線(しゃみせん)でかの女は踊りを二つ三つ踊った。それは小娘ながら水際立って鮮やかなものであった。わたくしが褒めると、「なにせ、この子の実父というのが少しは名の知れた舞踊家ですから」と姐さん芸妓(げいぎ)は洩(もら)した。すると、かの女は自分の口へ指を当てて「しっ」といって姐さんにまず沈黙を求めた。それから芝居の仕草も混ぜて「これ、こえが高い、ふな[#「ふな」に傍点]が安い」と月並な台詞(せりふ)の洒落(しゃれ)を言った。
姐さんたちは、自分たちをお客に聘ばせて呉れた恩人のお雛妓の顔を立てて、ばつを合せるようにきゃあきゃあと癇高(かんだか)く笑った。しかし、雛妓のその止め方には、その巫山戯方(ふざけかた)の中に何か本気なものをわたくしは感じた。
その夜は雛妓(おしゃく)は、貰われるお座敷があって、わたくしたちより先へ帰った。夏のことなので、障子を開けひろげた窓により、わたくしは中之島が池畔へ続いている参詣道(さんけいどう)に気をつけていた。松影を透して、女中の箱屋を連れた雛妓は木履(ぽっくり)を踏石に宛(あ)て鳴らして帰って行くのが見えた。わたくしのいる窓に声の届きそうな恰好(かっこう)の位置へ来ると、かの女は始めた。
「奥さまのかの子さーん」
わたくしは答える。
「お雛妓さんのかの子さーん」
そして嘗(かつ)ての夜の通り、
「かの子さーん」
「かの子さーん」
こう呼び交うところまでに至ったとき、かの女の白い姿が月光の下に突き飛ばされ、女中の箱屋に罵(ののし)られているのが聞えた。
「なにを、ぼやぼやしてるのよ、この子は。それ裾(すそ)が引ずって、だらしがないじゃありませんか」
はっきり判らぬが、多分そんなことを言って罵ったらしく、雛妓は声はなくして、裾を高々と捲(まく)り上げ、腰から下は醜い姿となり、なおも、女中の箱屋に背中をせつかれせつかれして行く姿がやがて丈高い蓮(はす)の葉の葉群れの蔭で見えなくなった。
その事が気になってわたくしは一週間ほど経(た)つと堪え切れず、また逸作にねだって蓮中庵へ連れて行って貰った。
「少しお雛妓マニヤにかかったね」
苦笑しながら逸作はそう言ったが、わたくしが近頃、歌も詠めずに鬱(うつ)しているのを知ってるものだから、庇(かば)ってついて来て呉(く)れた。
風もなく蒸暑い夜だった。わたくしたち二人と雛妓はオレンジエードをジョッキーで取り寄せたものを飲みながら頻(しき)りに扇風器に当った。逸作がまた、おまえのうちのお茶ひき連を聘(よ)んでやろうかというと、雛妓は今夜は暑くって踊るの嫌だからたくさんと言った。
わたくしが臆(おく)しながら、先夜の女中の箱屋がかの女に惨(むご)たらしくした顛末(てんまつ)に就(つい)て遠廻(とおまわ)しに訊(たず)ねかけると、雛妓は察して「あんなこと、しょっちゅうよ。その代り、こっちだって、ときどき絞ってやるから、負けちゃいないわ」
と言下にわたくしの懸念を解いた。
わたくしが安心もし、張合抜けもしたような様子を見て取り、雛妓は、ここが言出すによき機会か、ただしは未だしきかと、大きい袂(たもと)の袖口(そでぐち)を荒掴(あらづか)みにして尋常科(じんじょうか)の女生徒の運針の稽古(けいこ)のようなことをしながら考え廻(めぐ)らしていたらしいが、次にこれだけ言った。
「あんなことなんにも辛(つら)いことないけど――」
あとは謎(なぞ)にして俯向(うつむ)き、鼻を二つ三つ啜(すす)った。逸作はひょんな顔をした。
わたくしは、わたくしの気の弱い弱味に付け込まれて、何か小娘に罠(わな)を構えられたような嫌気もしたが、行きがかりの情勢で次を訊(き)かないではいられなかった。
「他に何か辛いことあるの。言ってごらんなさいな。あたし聴いてあげますよ」
すると雛妓は殆(ほとん)ど生娘の様子に還(かえ)り、もじもじしていたが、
「奥さんにお目にかかってから、また、いろいろな雑誌の口絵の花嫁や新家庭の写真を見たりしてあたし今に堅気のお嫁さんになり度(た)くなったの。でも、こんなことしていて、真面目(まじめ)なお嫁さんになれるか知ら――それが」
言いさして、そこへ、がばと突き伏した。
逸作はわたしの顔をちらりと見て、ひょんな顔を深めた。
わたくしは、いくら相手が雛妓でも、まさか「そんなこともありません。よい相手を掴まえて落籍(ひか)して貰えば立派なお嫁さんにもなれます」とは言い切れなかった。それで、ただ、
「そうねえ――」
とばかり考え込んでしまった。
すると、雛妓は、この相談を諦(あきら)めてか、身体を擡(もた)げると、すーっと座敷を出た。逸作は腕組を解き、右の手の拳(こぶし)で額を叩(たた)きながら、「や、くさらせるぞ」と息を吐(つ)いてる暇に、洗面所で泣顔を直したらしく、今度入って来たときの雛妓は再びあでやかな顔になっていた。座につくとしおらしく畳に指をつかえ、「済みませんでした」と言った。直(す)ぐそこにあった絵団扇(えうちわ)を執って、けろりとして二人に風を送りにかかった。その様子はただ鞣(なめ)された素直な家畜のようになっていた。
今度は、わたくしの方が堪(たま)らなくなった。いらっしゃいいらっしゃいと雛妓を膝元(ひざもと)へ呼んで、背を撫(な)でてやりながら、その希望のためには絶対に気落ちをしないこと、自暴自棄を起さないこと、諄々(じゅんじゅん)と言い聞かした末に言った。
「なにかのときには、また、相談に乗ってあげようね、決して心細く思わないように、ね」
そして、そのときであった。雛妓が早速あの小さい化粧鞄(けしょうかばん)の中から豆手帳を取り出してわたくしの家の処書きを認(したた)めたのは。
その夜は、わたくしたちの方が先へ出た。いつも通り女中に混って敷台へ送りに出た雛妓とわたくしとの呼び交わす声には一層親身の響きが籠(こも)ったように手応えされた。
「奥さまのかの子さーん」
「お雛妓さんのかの子さーん」
「かの子さーん」
「かの子さーん」
わたくしたちは池畔の道を三枚橋通りへ出ようと歩いて行く。重い気が籠った闇夜(やみよ)である。歩きながら逸作は言った。
「あんなに話を深入りさしてもいいのかい」
わたくしは、多少後悔に噛(か)まれながら「すみません」と言った。しかし、こう弁解はした。
「あたし、何だか、この頃、精神も肉体も変りかけているようで、する事、なす事、
取り止めありませんの。しかし考えてみますのに、もしあたしたちに一人でも娘があったら、こんなにも他所(よそ)の娘のことで心を痺(しび)らされるようなこともないと思いますが――」
逸作は「ふーむ」と、太い息をしたのち、感慨深く言った。「なる程、娘をな。」
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