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上田秋成の晩年(うえだあきなりのばんねん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 7:25:20  点击:  切换到繁體中文


 当時日本の医学界には、関東では望月三英、関西では吉益東洞よしますとうどう、といふやうな名医が出て、共に古方こほうの復興を唱へ、実技もおおいあらたまり、この両派の秀才が刀圭とうけいつかさどる要所々々へ配置されたが、一般にはまだ、行きわたらない。大阪辺の町医村医は口だけは聞き覚えた東洞が唱道の「万病一毒」といふモツトーを喋舌しゃべるが、実技は在来の世間医だつた。三年間つぶさに修学した秋成は、安永四年再び大阪へ戻つていよいよ医術開業。そのときにかういふことを決心した。「医者はどうせ中年の俄仕込にわかじこみだから下手で人がよう用ひまい。だから、足まめにして親切で売ることにしよう。しかし、いかに俗にちればとて、世間医のやる幇間ほうかん骨董こっとう取次とりつぎと、金や嫁の仲人なこうど口だけは利くまい」と決心した。
 足まめにやる方針は一草医秋成を流行はやらせて暮しもゆたかになつた。医者をはじめて四年目に、家を買ひ、造作をし直して入るやうになつた。その時の費用十二かん目を払ふことも、さう骨折らずに都合がついた。まづこの分なら見込みはついたと、せつせと働くうちに、自体が弱いからだなのでたうとう堪へ切れず残念にも医者をやめなければならなくなり、またもとの田舎住居いなかずまいとはなつた。其処そこがすなはち長柄川の閑居だつた。
 妻のお玉にしても、どこに妻らしいたのしみがあつたらうか。自分が遊び盛りの若いうちは運びの留守番、医者になつて流行はやるうちは客の取次、薬の調合、それからやつと家にゐるやうになると、病人になつた夫の介抱だ。その上七十六まで永生きされた自分の養母を引受けて面倒は見る。まるでお玉は自分の家へ女中に来たやうな女だつた。自分も六十に手が届くやうになり、田舎いなかの閑居で退屈まぎれに、同棲どうせい三十年近くで、はじめて妻といふ女を見直して見るのであつた。それも、左の眼は悪くなつてしまつてゐたから、右の眼一つであつた。このときお玉はもう五十一歳だつた。もとから取立てるほどのきりやうもなかつたが、それが白髪しらがだらけになると、ただありきたりの老婆ろうばだつた。一体が、さういふふうな女でもあるし、京都生れで、辛抱強いのに生れの性といふ考へが、こつちの頭にあるものだから、ただかういふ風に苦労をするやうにできて来た女が老婆になつても、根よくことこと働いて居る家具のやうで、その点が、めづらしかつたのだ。この女に、女らしさなどあるとも思はないし、見つけ出すのはいや味な気がして、妻が枯木のやうな老婆になつて行くのを、かえって珍重する気持だつた。だから自分が五十九歳、妻が五十一歳の寛政四年にまづ妻の母親が死に、すぐ自分の養母が死にして、何だか気合ひ抜けしたやうな形になつた妻のお玉が、髪をおろして尼のていになりいと申出たときに、早速それを許したのだつた。女臭いところの嫌ひな自分の傍にゐる女が一層枯木の姿になるのはさつぱりするからだつた。そのとき妻は、尼らしい名をつけてれと頼むのですこし思案して『※(「王+連」、第3水準1-88-24)これん』とつけてやつた。どういふわけだと妻がくから、これこれと呼ぶのに便利がいいからだと冗談半分に教へてやると、あんまり手軽すぎると不満さうだつたが、ひてことわりもせず、やがてその名のつもりになつてゐた。
 尼の形になつてからのお玉が驚かれたのは、まるで気性の変つて仕舞しまつたことであつた。ぱつぱつと話はする。気の向くとき働くが、気の向かぬときはどこまでも不精ぶしょうをする。世間ていなどちつともかまはなくなつて、つづれをぶら下げた着物でも平気で外へ出る。そしてむやみに笑ふやうになつた。多病でよく寝込むが、それを見舞ふとあはあは笑ふ。かうなつて来ると、かえって自分には彼女にいつくしみが出て来るのだ。いんぎんにまめに自分の面倒を見た若いときの妻の親切といふものは、一つも心にとどまつて居ないのに、ほころびて仕舞つたやうになつた彼女が、ただわけもなくときどき自分の眼を見入るその眼を見ると、結婚して以来はじめて了解仕合つたといふ感じがするのであつた。しかも彼女は、一向もうそんなことをうれしいとも思はない無意識の状態で、自分を眺めるのだつた。
 最初から、すこし、いける口の彼女であつたが、それからは遠慮もなく、金があれば酒を飲み出し、京都へ移つてからは、画描きの月渓など男の酒飲み友達と組になり、豆腐ぐらゐのさかなでわびた酒盛をしじゆうやつた。
 この女も尼になつてから七年目、自分が六十六歳、彼女が五十八歳のとき死んだ。
 彼女に就いては死んだ後、まだ一つ意外な思ひをさせられた。
 彼女は自分の道楽を見習つて、すこしは歌めくもの、まれに短文などつづりもしたが、元来家事向きに出来て居る女の物真似、なに程の事ぞときめて、取り上げた事もなかつた。彼女もおくして自分には見せなかつた。ところが彼女が死に、彼女のすこしばかりののこしものの破れた被布ひふ、をさながたみの菊だたうなど取片づけてゐるうちに、ふと、糸でからめた文反古ふみほうごの一束を見つけ出した。読んで見ると、自分の放埒ほうらつ時代にしじゆう留守をさせられた彼女の、若き妻としての外出中の夫に対する心遣ひを、こまごまと打開けたものや、子の無い自分が長柄川閑居時代に、ふと愛した近隣のこどもに死なれ愁歎しゅうたんの世にもあわれなありさまを述べたものなどであつた。書きぶりも自分のによく似た上、運ぶこころも自分へ向けてゐるものばかりであつた。あの虫のやうな女に、こんな纏綿てんめんたる気持がわだかまつてゐたのか。自分のやうな枯木ともなま木ともわけの判らぬ男性にやつぱり情を運ばうとしてゐたのか。さう思ふといぢらしくなつて、その文反古の上に、不覚の涙さへこぼした。しかし、再三読返してゐるうちに、自分に対して姉ぶつた物言ひや、自分をうらまず、なんでも世の中の無常にかこつけて悟りすまさうとする貞女振りや、賢女振りが、目について来て、やつぱり彼女も世間並の女であつたかと、興がめたとは云ひながら、その意味からいつて、また憐れさが増し、かくも人が編んでれた自分の文集『藤簍冊子つづらぶみ』の末に入れてやつた。
 秋成は、かういふ流浪るろう漂泊の生活の中に研鑽けんさん執筆してその著書は、等身の高さほどあるといはれてゐる。国文に関した研究もの、国史、支那稗史しなはいしから材料を採つた短篇小説、校釈、対論文、戯作、和歌、紀行文、随筆等、生涯の執筆は実に多岐たきわたつてゐる。その著書は、煎茶道せんちゃどうの祖述、漢印の考証にまで及んでゐる。しかし、これの仕事は、気ままできれぎれで、物質生活を恵むはずなく、学才は人に脅威を与へながら、生活はだんだん孤貧に陥つて行つた。
 養母としゅうとめが死んだ翌年の寛政五年、剃髪ていはつした妻瑚※(「王+連」、第3水準1-88-24)を携へて京都へ上つたときは、養母の残りものなど売り払つて、金百七両持つてゐたといふがそれもまたたく間に無くなり、それから書店の頼むわずかばかりの古書の抜釈ばっしゃくものかなにかをして、十両十五両の礼を取つて暮してゐたが、ずつと晩年は数奇すき者が依頼する秋成自著の中でも有名な雨月などの謄写とうしゃをしてその報酬でとぼしく暮して居た。しかし、それも眼がだんだん悪くなつて出来なくなり、彼自身も『胆大小心録』で率直そっちょくに述べてゐる通り、「麦くたり、やき米の湯のんだりして、をかしからぬ命を生きる――」状態になつた。
 妻の瑚※(「王+連」、第3水準1-88-24)尼が死んで、全く孤独のやもめの老人となつた秋成は、一時、弟子の羽倉信美はぐらのぶよしの家へ寄食してみたが窮屈で堪へられず、またよろぼひ出て不自由な独居生活に返つた。
 故郷なつかしく大阪に遊んだり静かな日下の正法寺へこもつて眼を休ませてみたりしたが老境の慰めるすべもなかつた。年も丁度七十歳に達したので、前年んで知り合ひの西福寺の和尚おしょうに頼んで生きとむらひを出してもらひ、墓も用意してしまつた。
 秋成はそのときのことを顧みて苦笑した。さすがの癇癖かんぺきおやぢもを折つたかと意外に人が集つて来た。恥をかかせてやつたので怒つて居るといふうわさの若い儒者まで機嫌よく挨拶あいさつに来た。役に立たないやうなものをたくさん人がれた。それの人々は自分をいたはつたり、力をつけたりする言葉を述べた。そして自分がしほらしく好意をよろこび容れる様子を示すのを期待した。自分はしまつたと思つた。
 自分で自分をほうむる気持は、生涯何度も繰返したので、一向めづらしいことではない。今度こそ、すこし、それを大がかりに形式に現して気持をあらたにするつもりでゐたものを、これではまるで、他人に自分を葬らせる機会を作つてやつたやうなもので、今更、取返しのつかぬ失敗のやうに思はれた。で、ふしよう、ぶしよう==有難う、まあ、これからこどもに返つた気で……といふと、その言葉に飛びついて==それがい、全くこれからは、何もかも忘れてこどもに生れ返りなさることですぞ。と自分と同年でありながら、髪が黒く、歯が落ちず、つえいらず、眼自慢の老人が命令的に云つた。日頃病身の癖に、壮健な彼と同じやうに長命する秋成を腹でいまいましがつてゐる老人だつた。彼は彼に向つて日頃いたづらなる健康をののしる秋成に、折もあらば一撃を与へようと機会をうかがつてゐたのだつた。彼の言葉は==この上、長生きをするなら、もちつと、おとなしくしろ。といふのも同じだつた。まはりで聞いて居た人々は手をつて、さうだ、そのことそのこと、といつた。
 それから、知友の連中はしめし合したやうに、自分をこども扱ひにし、真面目まじめに相手にならなかつた。彼はその方が都合がよかつた。相手はこどもに返つた老人だといふ考への下に、愉快に自分の罵言ばげんも聴き、寛容も秋成に示せた。もう誰も、秋成に向つて真理に刺されて飛上る苦痛の表情も反抗する激怒の態度も見せてれるものは無くなつた。垂れ幕のやうな、にやにやした笑ひだけが、自分の周囲を取巻いた。秋成は、的が無くなつて、むなしい矢を射る自分の疲労に堪へられなくなつた。
 彼等はその上、自分に深切さへ見せ出して自分の文集を編み出した。誰にも、手をつけさせなかつた草稿を入れて置く机のわきの藤簍つづらかごを掻廻かきまわしたり、人のところから勝手に詠草えいそうを取り寄せたりして版に彫つた。家鴨あひるは醜くとも卵だけは食へると思つたのかも知れない。自分が何か註文をいひ出すと==こどもに返つたのを忘れては困る。遊んで遊んで。とひじではねた。これらの草稿は、やつぱり、自分のかねての決心どほり、自分のひつぎと一しよに寺に納めて後世を待つべきものではなかつたかしらん。人に※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎとられて育つたやうな冊子でも出来て見れば、可愛かわゆくないことはない。それだけにまた、人に勝手にされたいまいましい気持も、添ふが。
 夜も更け沈んだらしい。だみ声で耳の根にたたきつけるやうな南禅寺の鐘、すこし離れて追ひ迫る智恩院の鐘、遠くに並んできれいに澄む清水きよみず、長楽寺の鐘。寒さはいつの間にかすこしゆるんで、のろいひさしの点滴の音が、をちこちで鳴き出したふくろうの声の鳴き尻をたたいてゐる。雨ではない。もやだ。それが戸の隙間すきまから見えぬやうに忍び込んで行燈あんどんの紙をしめらしてゐる。湯鑵の水はすつかりなくなつて、ついでに火鉢の火の気も淡くなつてゐる。
 秋成は、尽きぬ思ひ出にすつかり焦立いらだたさせられ、おさまりかねる気持に引かへ、夜半過ぎて長閑のどかよどみさへ示して来たあたりの闇の静けさに、舌打ちした。==なにが、この俺がこどもに帰つたおきなか。求めるこころも愛憎も、人に負けまい、勝負のこころも、みんな生殺なまごろしのままで残されてゐるではないか。身体が、周囲が、もう、それをさせなくなつてしまつたまでだ。もしそれをさせるなら俺は右の手にも左にもちび筆を引握つて、この物恋ふこころ、説き伏せい願ひを吐きに吐きつつ、しかも、未来永劫えいごういやされぬ人の姿のままで、生き延びるつもりだ。それを、さうはさせない身体よ、周囲よ、汝等なんじらはみな人殺しだぞ。人殺し! 人殺し!。と秋成は、自分の身体に向け、あたりに向け、低いけれども太くて強い調子の声を吐きかけた。そして、今更、自分のおいを憎んだ。
 かうなつたら、やぶれ、かぶれ、生きられるだけ生きてやらう。身体が足の先きから死に、手の先きから死にして行かうとも、最後に残つた肋骨ろっこつ一本へでも、生きた気込みは残して見せようぞ――。考へがここまで来ると彼は不思議な落着きが出て来た。
 暁方あけがた近くらしいぬくい朝ぼらけを告ぐるやうなとりの声が、距離不明の辺から聞えて来た。彼はこの混濁した朝、茶をむことにとぼけたやうな興味を感じ出した。彼はまた湯鑵に新しく水を入れて来て火鉢の火を盛んにした。湯の沸く間に、彼は彼の唯一の愛玩あいがん品の南蛮なんばん製の茶瓶ちゃびんひざに取上げて畸形きけいの両手で花にでも触れるやうに、そつとでた。五官の老耄ろうもうした中で、感覚が一番確かだつた。
 南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事がたきの本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地いくじなし奴等めらだ。
 十二歳年下で、六十歳の太田南畝なんぽがまだ矍鑠かくしゃくとしてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣じしして居るこの悧恰りこうな幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目まじめな思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜くやしい念は起さなかつた。
 茶瓶に湯が注がれて、名茶『一の森』の※(「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26)じょうろうびのやうな淡いいろ気のある香気が立ちのぼつた。彼は茶瓶をむづとつかんだ。茶瓶の口へ彼のがつた内曲りの鼻を突込んだ。茶の産地の信楽しがらきの里の春のあけぼのの景色も彼の眼底に浮んだ。
 その翌、文化四年七十四歳の秋成は草稿五束を古井戸に捨てた。
 さうかと思ふと、その翌、文化五年には、人が、彼の書簡集『文反古』を編んで刊行するのを許して居る。そして、彼自身も、最も露骨な告白文である随筆集『胆大小心録』を完成して居る。


 翌、文化六年六月、彼は、弟子の羽倉信美の家で死んだ。住み切らうと決心した南禅寺の小庵『鶉居うずらい』にも住み切れなかつた。信美の家へ引取られるまでに、一時、寿蔵じゅぞうを営んだ西福寺へ寄寓したりなぞしても居た。





底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
   1992(平成4)年1月23日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子選集」萬里閣
   1947(昭和22)年発行
初出:「文学界」
   1935(昭和10)年8月
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2005年2月22日作成
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