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上田秋成の晩年(うえだあきなりのばんねん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 7:25:20  点击:  切换到繁體中文

底本: 日本幻想文学集成10 岡本かの子
出版社: 国書刊行会
初版発行日: 1992(平成4)年1月23日
入力に使用: 1992(平成4)年1月23日初版第1刷
校正に使用: 1992(平成4)年1月23日初版第1刷


底本の親本: 岡本かの子選集
出版社: 萬里閣
初版発行日: 1947(昭和22)年発行

 

文化三年の春、全く孤独になつた七十三のおきな、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居あんきょの跡に間に合せの小庵を作つて、老残の身を投げ込んだ。
 孤独と云つても、このくらゐ徹底した孤独はなかつた。七年前三十八年連れ添つた妻の※(「王+連」、第3水準1-88-24)これんにと死に別れてから身内のものは一人も無かつた。友だちや門弟もすこしはあつたが、表では体裁のいいつきあひはするものの、心は許せなかつた。それさへ近来は一人も来なくなつた。いくらからかひ半分にこの皮肉で頑固なおやぢをあじわひに来る連中でも、ほとんど盲目に近くなつたおいぼれをいぢるのは骨も折れ、またあまり殺生せっしょうにも思へるからであらう。秋成自身も命数のあまる処を観念して、すつかり投げた気持になつてしまつた。
 文化五年死の前の年の執筆になる胆大小心録の中にかう書いてゐる。
 もう何も出来ぬゆえ煎茶せんちゃを呑んで死をきはめてゐる事ぢや――
 小庵を作るときにも人間の住宅に対する最後の理想はあつた。それはわづか八畳の家でよかつた。その八畳のなかの四畳を起きしの場所にして、左右二畳づつに生活の道具を置く。机は東側の※(「片+(戸<甫)」、第3水準1-87-69)まどしたに持つて行き、そばに炉を切り、まはりの置きもの棚に米醤油しょうゆなど一切飲み食ひの品をまとめて置く。西の端の一畳分の上に梅花の紙帳を釣り下げ、その中に布団から、脱ぎ捨てた着物やらをほうり込んで置く。夏の暑さのために縁の外の葦竹あしだけ、冬の嵐気らんきを防ぐために壁の外に積む柴薪さいしん――人間が最少限の経費で営み得られる便利で実質的な快適生活を老年の秋成はこまごまと考へて居た。しかし、その程度の費用さへ彼は弁じ兼ねた。やむを得ず建てたところのものは、まつたく話にもならぬほんの間に合せの小屋に過ぎなかつた。彼は投げた気持の中にも怒りを催さないでは居られなかつた。――七十年も生きた末がこれか、と。しかし、すぐにその怒りをなだめててのひらの中にころばして見る、やぶれかぶれの風流気が彼の心の一隅から頭をもたげた。彼はわずかばかりの荷物のなかをき廻して、よれた麻の垂簾すいれんを探し出した。垂簾にはうるおひのある字で『鶉居うずらい』と書いてあつた。彼はその垂簾のしわをのばして、小屋の軒にかけた。
 彼は十七八年前、五十五歳のときに家族と長柄ながら川のそばに住んで居たことがあつた。長柄の浜松がかすかに眺められ、隣の神社の森の蔭になつてゐて気に入つた住家だつた。彼はその時、家族を背負つたまま十数度も京摂の間に転宅して廻つたので、住家の安定といふことには自信が無くなつてゐた。自信を失ひながらなほ安定した気持になりたかつたので、その垂簾を軒にかけたのだつた。『鶉居』と書いたのはうずらは常居なし、といふいひならわしから思ひついた庵号あんごうだつた。
 さうした字のある垂簾をかけた小さい自分の家を外へ出て顧りみると、世界にたつた一つ住み当てた自分の家といふ気がして、そのとき、もはや老年にいりかけて居た彼は、こどものやうになつてよろこんだ。しかし、その悦びも大して長く続かず、六年目には垂簾を巻いて京都へ転居したのをきつかけに、再び住居の転々は始つた。
 垂簾はかなりよごれてゐた。秋成は長柄の住家ではじめてそれをかけたと同じやうに外へ出て眺め返してみた。小庵は新しいので垂簾のよごれは目立つた。彼は住居に対する執著しゅうちゃくの亡霊がまだ顔をさらしてゐるやうで軽蔑けいべつしたくなつた。しかし、いくら運命が転居させたがつても、もうさうはおれの寿命は続かなからう。今度こそはおれは一つの家に住み切つてしまふのだ。さう思ふと痛快な気がして==ざま見い。と彼は垂簾に向つて云つた。そしてその気持を妻の瑚※(「王+連」、第3水準1-88-24)尼に話したくなつた。==瑚※(「王+連」、第3水準1-88-24)よ。いまだけでいい。ちよつと話し相手に墓場から出て来んかい。
 彼はもしこの小屋なら妻はいつも其処そこに起き暮しするだらうと思ふ、小箱程の次の間に向つて壁越しに云つた。あとは笑ひにまぎらした。


 紙袋からぽろぽろと焼米を鉢にあけて、秋成はそれに湯を注いだ。そこにあつた安永五年刊の雨月うげつ物語を取つて鉢のふたにした。この奇怪に優婉ゆうえんな物語は、彼が明和五年三十五歳のときに書いたものである。書いてから本になるまで八年の月日がかかつてゐる。推敲すいこうに推敲を重ねた上、出版にもさうたう苦労がこもつてゐた。顧みると国文学者の分子の方が勝つてしまつた彼の生涯の中で、かえって生れつきゆたかであつたと思はれる、物語作者の伎倆ぎりょうを現したのはわずかに過ぎない。その僅かの著作のうちで、この冊子は代表作であるだけに他の著作は散逸させてしまつても、これには愛惜の念が残り、晩年になるほど手もとに引つけて置いた。それかと云つてさほど大事にして仕舞しまつて置くといふこともなかつた。運命に馬鹿ばかにされ、引ずり廻されたやうな一生の中で、自分の好みや天分が何になつたか。なまじそれがあつた為に毛をさか※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎにされるやうなくるしい目にあつたと思へば、感興に殉じた小伎倆こうで立てが、自分ながらいまいましく、この冊子を見る度にをこな自分を版木に刷り、恥ぢづらいて居るやうで、踏まば踏め、らば蹴れ、と手からほうつて置くとこまかせ、そこら畳の上に捨てても置いた。この冊子が世間で評判のよかつたことにも何といふことなしに反感が持てた。要するに愛憎二つながらかかつてゐる冊子であるため、ついそばに置いて居るといふのが本当のところかも知れない。土瓶敷どびんしき代りにもたびたび使つた。なべや土瓶のしりしみが表紙や裏に残月形に重つて染みついてゐた。
 湯気で裏表紙が丸くしめりふくらんだふたの本をわきへはねて、はちの中にほどよくふくれた焼米を小さい飯茶椀めしぢゃわんに取分け、白湯さゆをかけて生味噌なまみそさいにしながら、秋成はさつさと夕飯をしまつた。身体は大きくないが、骨組はがつちりしてゐて、あご頬骨ほおぼねの張つてゐるあばたづらの老人が、老いさらばひ、夕闇に一人で飯を喰べて居る姿はさびしかつた。とぼけたやうな眼と眼が、人並より間を置いて顔についてゐるのが、かえるのやうに見える。
 はしを箸箱に仕舞しまひながら、彼はおおさうぢやと気がついて、部屋の隅からざるで伏せてあつた小鍋を持つて来て箸を突込み、まづさうに食ひ始めた。鍋にはどぜうが白つぽく煮てあつた。彼はこれを喰べるとき、神経質に窓や裏口をにらんだ。五十七歳で左眼をつぶして仕舞ひ、六十五歳でその左の眼がいくらか治つたかと思ふと、今度は右の眼が見えなくなつた。それから死を待つ今日まで眼の苦労は絶えなかつた。
 どぜうがよろしいと勧める人があるので食ひ続けて居るのを、一度わからずやの僧侶に見つかつて、人間は板歯で野菜こくもつを食ふやうに出来てゐる。どぜうなど食ふは殺生せっしょうのみか理にはずれてゐる。とたしなめられ、その場は養生喰ひだと、抗弁はしたものの、その後は、食ふたびに気がさした。死ぬのに眼などはもうどうでもよろしいではないかと思ひつつも養生はやめられなかつた。
 小さいとき驚癇でしばしばなやまされながらも、神経の強い彼はときどき妄想性にかかつた。狐狸こりの仕業はかならずあるものと信じて居た。内心忸怩じくじとしながらかうやつてどぜうの骨をしやぶつてゐるときには、あの忠告した坊主がほんたうは自分も食ひいのだがそれが食へぬので、あんな嫌がらせをいつたので、それを押して食つて居る自分をぎつけたら、うらやましくなつて、何か化性にでもなつて現れて来るやうな気がした。事実その姿は変に薄つぺらな影絵となつて障子しょうじの紙から抜けたり吸ひ込まれたりするのを彼は感じた。すると彼はいつそ大胆になつて、わざと大ぴらにどぜうを食つて見せるのだつた。それで影絵が消えて仕舞ふと、彼は勝利を感じて箸をしまつた。南禅寺の本堂で、卸戸おろしどをおろす音がとどろいた。その間にほうきで掃くやうな木枯こがらしの音が北や西に聞えた。彼は行燈あんどんをつけてから、煎茶せんちゃの道具を取り出した。
 彼は後世、煎茶道の中興の祖と仰がれるだけにこの齢になつても、この道には執著を持つた。むしろ他の道楽を一つ一つ切り捨てて行つて、たつた一つを捨て切れず、残した好みであるだけに全身的なものがあつた。「茶は高貴の人に応接するが如し、烹点ほうてん共に法をみだればその悔かへるべからず」これが、彼の茶に対するときの心構へであつた。それで、茶具の数も、定めの数の二十具を減して十六にし、また、十二具にし、やぶれた都籠から取出したのはぎりぎり間に合せの茶瓶、茶盞、茶罌ちゃつぼぐらゐの数に過ぎなかつた。けれど、煎茶の態度は正しかつた。生活は老貧のくづすままに任せたけれど、そのなかにただ一筋、格をくづさぬものを、踏みとどめ残して置きたいといふのが、老人の最後の自尊心だつた。
 彼は、湯鑵ゆがまに新しく水をいれて来て火鉢に炭をつぎ添へてかけた。彼は水にやかましかつた。近所の井戸のものには腥気せいきがあるとか、鹹気かんきがあるとかいつて用ひなかつた。わざわざ遠くの一条の上の井戸から人を雇つてかめみいれさせた。
 京摂の間では、宇治の橋本の川水が絶品だと云つて、身体のまめなうちは、水筒を肩にかけ一日仕事でよく汲みに行つた。それらの水を貯へた甕は夕方から庭に持ち出してふたをとり、紗帛で甕の口を覆ひ、夜天にさらした。かうすると、水は星露の気をけて、液体中の英霊を散らさないと、彼は信じて居た。何でも事物の精髄をあじわふことには、彼はどんらんな嗜慾しよくを持つて居た。
 彼はゆつたりとすわつて作法のやうに受汚ちゃきんで茶盞をぬぐひ、茶瓶の蓋を開けて中を吟味し、分茶盒ちゃいれと茶罌をひざ元に引付けた。そして湯の沸くのを待つた。彼は幼時、いのちにかかはるほどの疱瘡ほうそうをして、右の手の中指は小指ほどに短かつた。左の手の人差指も短かつた。さういふ不具の手を慣して器物を扱つてゐるので、一応は何気なく見えるが、よく見ると手首は器物に獅噛しがみついてゐた。まるで餓鬼がきの執著ぢや。彼はわざといやなものを自分に見せつけるいこぢな習癖がここに起るときに、その手首を眼の前でひねくつて、ひとりくつくつと笑つた。さういふ手で筆をるのだから、どうせろくな字を書けつこないと自分をけなし切り、人がどんなに出来えをめても決して受け容れなかつた。
 火鉢にかけた湯鑵の湯水が、やうやく暖まつて来て、微々の音を立てるやうになつた。秋成は、膝に手を置いて、そより、とも動かなかつた。ただ湯の沸くのを待つだけが望みであるこの森厳で気易きやすい時間に身を任せた。木枯こがらしが小屋を横にかすめ、また真上から吹きおさへる重圧を、老人の乾いて汚斑しみの多い皮膚に感じてゐた。
 永い年月工夫くふうしたかういふ境地に応ずべき気の持ちやうが自然と脱却して、いまは努めなくても彼の形にそなわつてゐた。それは「静にして寂しからず」といふこつであつた。
 湯が沸いて「四辺泉のくが如く」「たまを連ぬるが如く」になつた。もうすこしすると「騰波鼓浪とうはころうの節に入り、ここに至つて水の性消えすなわち茶を煮べき」湯候ゆごろなのである。秋成には期待の気持が起つて熱いものが身体をつたわつて胸につき上げて来るのを覚えた。それが茶に対する風雅な熱意ばかりであるのかと思ふと、さうではなく、それに芽生めばえたいろいろな俗情が頭をもたげて来るのであつた。
 青年時代の俳諧はいかい三昧ざんまい、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張いばらして置くものではない。淡々根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上にはたらかして、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜くやしい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海はるみ、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長もとおりのりなが、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞しまふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑ちょうしょうや皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかんから、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套きゅうとうとらはれ、衒学げんがくにまなこがくらんでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。
 和歌については、小沢蘆庵おざわろあんのことが胸に浮んだ。一方では、堂上風の口たるい小細工歌が流行はやり、一方では古学派のわざとらしい万葉調の真似手の多いなかに、敢然かんぜん立つて常情平述主義を唱へ「ただ言歌ことうた」の旗印を高く掲げた才一方の年上の老友がうらやまれた。自分に、し、もう少し和歌のこころざしあつく、愚直の性分があつたら、あの流儀は自分がやりさうなことであつた。その「ただ言歌」の心要として蘆庵のんだ、

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