日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
岡本かの子選集 |
萬里閣 |
1947(昭和22)年発行 |
文化三年の春、全く孤独になつた七十三の翁、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居の跡に間に合せの小庵を作つて、老残の身を投げ込んだ。
孤独と云つても、このくらゐ徹底した孤独はなかつた。七年前三十八年連れ添つた妻の瑚尼と死に別れてから身内のものは一人も無かつた。友だちや門弟もすこしはあつたが、表では体裁のいいつきあひはするものの、心は許せなかつた。それさへ近来は一人も来なくなつた。いくらからかひ半分にこの皮肉で頑固なおやぢを味ひに来る連中でも、ほとんど盲目に近くなつたおいぼれをいぢるのは骨も折れ、またあまり殺生にも思へるからであらう。秋成自身も命数のあまる処を観念して、すつかり投げた気持になつてしまつた。
文化五年死の前の年の執筆になる胆大小心録の中にかう書いてゐる。
もう何も出来ぬ故、煎茶を呑んで死をきはめてゐる事ぢや――
小庵を作るときにも人間の住宅に対する最後の理想はあつた。それはわづか八畳の家でよかつた。その八畳のなかの四畳を起き臥しの場所にして、左右二畳づつに生活の道具を置く。机は東側の下に持つて行き、そばに炉を切り、まはりの置きもの棚に米醤油など一切飲み食ひの品をまとめて置く。西の端の一畳分の上に梅花の紙帳を釣り下げ、その中に布団から、脱ぎ捨てた着物やらを抛り込んで置く。夏の暑さのために縁の外の葦竹、冬の嵐気を防ぐために壁の外に積む柴薪――人間が最少限の経費で営み得られる便利で実質的な快適生活を老年の秋成はこまごまと考へて居た。しかし、その程度の費用さへ彼は弁じ兼ねた。やむを得ず建てたところのものは、まつたく話にもならぬほんの間に合せの小屋に過ぎなかつた。彼は投げた気持の中にも怒りを催さないでは居られなかつた。――七十年も生きた末がこれか、と。しかし、すぐにその怒りを宥めて掌の中に転して見る、やぶれかぶれの風流気が彼の心の一隅から頭を擡げた。彼は僅かばかりの荷物のなかを掻き廻して、よれた麻の垂簾を探し出した。垂簾には潤ひのある字で『鶉居』と書いてあつた。彼はその垂簾の皺をのばして、小屋の軒にかけた。
彼は十七八年前、五十五歳のときに家族と長柄川のそばに住んで居たことがあつた。長柄の浜松がかすかに眺められ、隣の神社の森の蔭になつてゐて気に入つた住家だつた。彼はその時、家族を背負つたまま十数度も京摂の間に転宅して廻つたので、住家の安定といふことには自信が無くなつてゐた。自信を失ひながらなほ安定した気持になりたかつたので、その垂簾を軒にかけたのだつた。『鶉居』と書いたのは鶉は常居なし、といふいひ慣しから思ひついた庵号だつた。
さうした字のある垂簾をかけた小さい自分の家を外へ出て顧りみると、世界にたつた一つ住み当てた自分の家といふ気がして、そのとき、もはや老年にいりかけて居た彼は、こどものやうになつて悦んだ。しかし、その悦びも大して長く続かず、六年目には垂簾を巻いて京都へ転居したのをきつかけに、再び住居の転々は始つた。
垂簾はかなりよごれてゐた。秋成は長柄の住家ではじめてそれをかけたと同じやうに外へ出て眺め返してみた。小庵は新しいので垂簾のよごれは目立つた。彼は住居に対する執著の亡霊がまだ顔をさらしてゐるやうで軽蔑したくなつた。しかし、いくら運命が転居させたがつても、もうさうはおれの寿命は続かなからう。今度こそはおれは一つの家に住み切つてしまふのだ。さう思ふと痛快な気がして==ざま見い。と彼は垂簾に向つて云つた。そしてその気持を妻の瑚尼に話したくなつた。==瑚よ。いまだけでいい。ちよつと話し相手に墓場から出て来んかい。
彼はもしこの小屋なら妻はいつも其処に起き暮しするだらうと思ふ、小箱程の次の間に向つて壁越しに云つた。あとは笑ひにまぎらした。
紙袋からぽろぽろと焼米を鉢にあけて、秋成はそれに湯を注いだ。そこにあつた安永五年刊の雨月物語を取つて鉢の蓋にした。この奇怪に優婉な物語は、彼が明和五年三十五歳のときに書いたものである。書いてから本になるまで八年の月日がかかつてゐる。推敲に推敲を重ねた上、出版にもさうたう苦労が籠つてゐた。顧みると国文学者の分子の方が勝つてしまつた彼の生涯の中で、却て生れつき豊であつたと思はれる、物語作者の伎倆を現したのは僅かに過ぎない。その僅かの著作のうちで、この冊子は代表作であるだけに他の著作は散逸させてしまつても、これには愛惜の念が残り、晩年になるほど手もとに引つけて置いた。それかと云つてさほど大事にして仕舞つて置くといふこともなかつた。運命に馬鹿にされ、引ずり廻されたやうな一生の中で、自分の好みや天分が何になつたか。なまじそれがあつた為に毛をさかぎにされるやうなくるしい目にあつたと思へば、感興に殉じた小伎倆立てが、自分ながらいまいましく、この冊子を見る度にをこな自分を版木に刷り、恥ぢづら掻いて居るやうで、踏まば踏め、蹴らば蹴れ、と手から抛つて置くとこまかせ、そこら畳の上に捨てても置いた。この冊子が世間で評判のよかつたことにも何といふことなしに反感が持てた。要するに愛憎二つながらかかつてゐる冊子であるため、ついそばに置いて居るといふのが本当のところかも知れない。土瓶敷代りにもたびたび使つた。鍋や土瓶の尻しみが表紙や裏に残月形に重つて染みついてゐた。
湯気で裏表紙が丸くしめり脹らんだ蓋の本をわきへはねて、鉢の中にほどよく膨れた焼米を小さい飯茶椀に取分け、白湯をかけて生味噌を菜にしながら、秋成はさつさと夕飯をしまつた。身体は大きくないが、骨組はがつちりしてゐて、顎や頬骨の張つてゐるあばた面の老人が、老いさらばひ、夕闇に一人で飯を喰べて居る姿はさびしかつた。とぼけたやうな眼と眼が、人並より間を置いて顔についてゐるのが、蛙のやうに見える。
箸を箸箱に仕舞ひながら、彼はおおさうぢやと気がついて、部屋の隅からざるで伏せてあつた小鍋を持つて来て箸を突込み、まづさうに食ひ始めた。鍋にはどぜうが白つぽく煮てあつた。彼はこれを喰べるとき、神経質に窓や裏口を睨んだ。五十七歳で左眼をつぶして仕舞ひ、六十五歳でその左の眼がいくらか治つたかと思ふと、今度は右の眼が見えなくなつた。それから死を待つ今日まで眼の苦労は絶えなかつた。
どぜうがよろしいと勧める人があるので食ひ続けて居るのを、一度わからずやの僧侶に見つかつて、人間は板歯で野菜穀もつを食ふやうに出来てゐる。どぜうなど食ふは殺生のみか理に外れてゐる。とたしなめられ、その場は養生喰ひだと、抗弁はしたものの、その後は、食ふたびに気がさした。死ぬのに眼などはもうどうでもよろしいではないかと思ひつつも養生はやめられなかつた。
小さいとき驚癇でしばしばなやまされながらも、神経の強い彼はときどき妄想性にかかつた。狐狸の仕業はかならずあるものと信じて居た。内心忸怩としながらかうやつてどぜうの骨をしやぶつてゐるときには、あの忠告した坊主がほんたうは自分も食ひ度いのだがそれが食へぬので、あんな嫌がらせをいつたので、それを押して食つて居る自分を嗅ぎつけたら、うらやましくなつて、何か化性にでもなつて現れて来るやうな気がした。事実その姿は変に薄つぺらな影絵となつて障子の紙から抜けたり吸ひ込まれたりするのを彼は感じた。すると彼はいつそ大胆になつて、わざと大ぴらにどぜうを食つて見せるのだつた。それで影絵が消えて仕舞ふと、彼は勝利を感じて箸をしまつた。南禅寺の本堂で、卸戸をおろす音がとどろいた。その間に帚で掃くやうな木枯の音が北や西に聞えた。彼は行燈をつけてから、煎茶の道具を取り出した。
彼は後世、煎茶道の中興の祖と仰がれるだけにこの齢になつても、この道には執著を持つた。むしろ他の道楽を一つ一つ切り捨てて行つて、たつた一つを捨て切れず、残した好みであるだけに全身的なものがあつた。「茶は高貴の人に応接するが如し、烹点共に法を濫れば其悔かへるべからず」これが、彼の茶に対するときの心構へであつた。それで、茶具の数も、定めの数の二十具を減して十六にし、また、十二具にし、やぶれた都籠から取出したのはぎりぎり間に合せの茶瓶、茶盞、茶罌ぐらゐの数に過ぎなかつた。けれど、煎茶の態度は正しかつた。生活は老貧のくづすままに任せたけれど、そのなかにただ一筋、格をくづさぬものを、踏みとどめ残して置きたいといふのが、老人の最後の自尊心だつた。
彼は、湯鑵に新しく水をいれて来て火鉢に炭をつぎ添へてかけた。彼は水にやかましかつた。近所の井戸のものには腥気があるとか、鹹気があるとかいつて用ひなかつた。わざわざ遠くの一条の上の井戸から人を雇つて甕に汲みいれさせた。
京摂の間では、宇治の橋本の川水が絶品だと云つて、身体のまめなうちは、水筒を肩にかけ一日仕事でよく汲みに行つた。それらの水を貯へた甕は夕方から庭に持ち出して蓋をとり、紗帛で甕の口を覆ひ、夜天に晒した。かうすると、水は星露の気を承けて、液体中の英霊を散らさないと、彼は信じて居た。何でも事物の精髄を味ふことには、彼はどんらんな嗜慾を持つて居た。
彼はゆつたりと坐つて作法のやうに受汚で茶盞を拭ひ、茶瓶の蓋を開けて中を吟味し、分茶盒と茶罌を膝元に引付けた。そして湯の沸くのを待つた。彼は幼時、いのちにかかはるほどの疱瘡をして、右の手の中指は小指ほどに短かつた。左の手の人差指も短かつた。さういふ不具の手を慣して器物を扱つてゐるので、一応は何気なく見えるが、よく見ると手首は器物に獅噛みついてゐた。まるで餓鬼の執著ぢや。彼はわざといやなものを自分に見せつけるいこぢな習癖がここに起るときに、その手首を眼の前でひねくつて、ひとりくつくつと笑つた。さういふ手で筆を執るのだから、どうせろくな字を書けつこないと自分を貶し切り、人がどんなに出来栄えを褒めても決して受け容れなかつた。
火鉢にかけた湯鑵の湯水が、やうやく暖まつて来て、微々の音を立てるやうになつた。秋成は、膝に手を置いて、そより、とも動かなかつた。ただ湯の沸くのを待つだけが望みであるこの森厳で気易い時間に身を任せた。木枯が小屋を横に掠め、また真上から吹き圧へる重圧を、老人の乾いて汚斑の多い皮膚に感じてゐた。
永い年月工夫したかういふ境地に応ずべき気の持ちやうが自然と脱却して、いまは努めなくても彼の形に備つてゐた。それは「静にして寂しからず」といふこつであつた。
湯が沸いて「四辺泉の湧くが如く」「珠を連ぬるが如く」になつた。もうすこしすると「騰波鼓浪の節に入り、ここに至つて水の性消え即ち茶を煮べき」湯候なのである。秋成には期待の気持が起つて熱いものが身体を伝つて胸につき上げて来るのを覚えた。それが茶に対する風雅な熱意ばかりであるのかと思ふと、さうではなく、それに芽生えたいろいろな俗情が頭を擡げて来るのであつた。
青年時代の俳諧三昧、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張らして置くものではない。淡々奴根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上に働して、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞ふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑や皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかんから、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套に捉はれ、衒学にまなこが眩んでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。
和歌については、小沢蘆庵のことが胸に浮んだ。一方では、堂上風の口たるい小細工歌が流行り、一方では古学派のわざとらしい万葉調の真似手の多いなかに、敢然立つて常情平述主義を唱へ「ただ言歌」の旗印を高く掲げた才一方の年上の老友がうらやまれた。自分に、若し、もう少し和歌の志が篤く、愚直の性分があつたら、あの流儀は自分がやりさうなことであつた。その「ただ言歌」の心要として蘆庵の詠んだ、
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