五
その翌日、すなわち三日の朝には、十五、六人の仲間? と一緒に、大きな囚人馬車二台でラ・サンテ監獄に送られた。
ラ・サンテ監獄は、未決監であるとともに、また有名な政治監なのだ。僕がまだ途中の船の中にいた頃に、どこでだったか忘れたが、フランスからの無線電信で、首領カシエンを始め十幾名の共産党員がそこにおし籠められたことを知った。それもまだいる筈だった。また、僕がフランスに来てからも、その以前からいる幾名かとともに、十数名の無政府主義者がそこにはいっていた。
煙草とマッチとはやはりまた持ってはいらした。そして日本だと、星形の建物のまん中のいわゆる六道の辻から布団をかつがして行くのだが、ここではいずれも薄ぎたない寝まきのシャツらしいのと手拭らしいのとを持たして行く。
僕は監獄のひやかしのような気になって、広い廊下の右や左をうろうろ眺めながら、看守をあとにして歩いて行った。
僕の室は第十監第二十房という地並みの大きな独房だった。二間四方だから、ちょうど、八畳敷だ。それに窓が大きくて明るい。下の幅が五尺ぐらいで、それが三尺ぐらい上までそのままで進んで、その上がさらに二尺ぐらい半円形に高くなっている。
こんな大きな窓は、僕が今まで見たあちこちのホテルでも、一流の家のほかは滅多になかった。もっとも、惜しいことには、それがようやく目の高さぐらいの上の方から始まってはいたが。
その後運動の時に知ったんだが、こんな窓は地並みの室だけで、二階三階四階の室々のはその半分より少し大きなくらいだった。
窓からはすぐそばに高い塀が見えて、その上からそとのマロニエの梢が三本ばかりのぞいていた。もう白い花が咲いていた。
西向きのこの窓の左には壁にくっついて小さな寝台が置いてあった。ちゃんと毛布を敷いてあったが、ちょっと腰をかけて見てもスプリングはかなりきいていた。毛布も僕が前にいたベルヴィルの木賃宿のよりはよほどよかった。
右側の壁には、やはりそれにくっついて、テーブルが備えつけてあった。そしてその前には、行儀よく、木の椅子が坐っていた。
このテーブルに向って左の入口の方の壁には、二つの棚が釣ってあって、そこに茶碗だの、木のスプーンだの、やはり木のフォークだのが置いてあった。
そして同じ壁の入口の向うの、寝台の足の方の隅には、上に水道栓が出ていて、その真下に白い瀬戸物の便所が大きな口を開いていた。便所の上で食器も洗えば、顔も洗える仕掛になっているのだ。これだけは少々閉口だなと思った。
床板はモザイクまがいに、小さな板きれをジグザグに並べた、ちょっとしゃれたものだった。
なるほどこれなら、アナトール・フランスのクレンクビュが、「床の上で飯を食ったっていいや」と言ったのももっともだと思った。そして、いつかパリで見たクレンクビュの活動写真で、このボテふりの親爺が初めて牢に入れられて、ポカンとしたしかし嬉しそうな顔をしながら室の中を眺め廻している姿を思いだした。
僕はまずこの室がひどく気に入ってしまった。そして一と通りの検分がすむと、さっきスプリングを試して見た寝台の上にごろりと横になって、煙草に火をつけた。
しばらくすると、看守が半紙二枚くらいの大きさの紙を持って来て、それをテーブルの上の壁にはりつけて行った。
活版刷りだ。「酒保売品品目および価格」と大きな活字で刷って、その下に「消耗品」と「食品」との二項を設けて、いろいろと品物の名や値段を書きつけてある。
インク、紙、ペン、頭のブラシ、着物のブラシ、鏡、石鹸、スポンジ、ポマード、タオル、巻煙草、葉巻、刻み煙草というように、普通の人間の日常要るものは大がいならべてある。
また、パン、ビフテキ、ローストビーフ、ソーセージ、オムレツ、ハム、サーディン、マカロニ、サラダ、キャフェ、チョコレート、バター、ジャム、砂糖、塩、米というように、普通の食品を二十ばかりならべた上に、なお数種の果物と葡萄酒とビールとまでがはいっている。
そしてその上になお、毎日酒保から食事をとりたいもののために、一週間の朝晩の献立表が出ている。ちょっとうまそうな御馳走が一品ずつならべられて、それでもまだ足りないもののために、夕飯にはもう一品ずつの補いをつけ足している。
もっとも、これはすべて未決の人間にだが、しかし既決の囚人にでもほんの少々の制限があるだけのことだ。たとえば、一週間に三回しか肉類の御馳走は与えないとか、葡萄酒やビールには一日六十センチリットルを超えてはいけないとかいうくらいのものだ。
僕はさっそく入口の戸を叩いて、廊下の看守を呼んだ。そしていろんな日用品を注文した上に、食事も毎日とってくれるようにと頼んだ。
「それはうちのレストランからかい、それともそとのレストランかい。」
兵隊あがりらしい、面つきやからだは逞ましいが、そしていつも葡萄酒の酒臭い息を吐いているが、案外人の好さそうな看守が、よほど注意して聞いていないと分らないような変ななまりのフランス語で尋ね返した。
僕はうちのよりもそとの方がいいんだろうと思って、そとのだと答えた。
すると、やがて普通のレストランのボーイのような若い男がやって来て、メニュの小さな紙きれを見せて、昼食の注文をしろと言う。見ると、十品ばかりいろいろならべてある。僕はその中から四品だけ選んで、なお白葡萄酒のごく上等な奴をと贅沢を言った。ボーイはかしこまって引き下った。
僕はすっかりいい気持になってしまった。この分だと、月に四、五十円もあれば、呑気にこうして暮して行けそうなのだ。
が、その白葡萄をちびりちびりやりながら、昼飯の四品を平らげて、デザートのチョコレートも済んで、また寝台の上で、こんどは葉巻きを燻ゆらしていると、初めてでもないが、とにかくうちのことを思いだした。
もう今頃は新聞の電報で僕のつかまったことは分っているに違いない、おとなどもはとうとうやったなぐらいにしか思ってもいまいが、子供は、ことに一番上の女の子の魔子は、みんなから話されないでもその様子で覚って心配しているに違いない。
いつか女房の手紙にも、うちにいる村木(源次郎)が誰かへの差入れの本を包んでいると、そばから「パパには何にも差入物を送らないの」とそっと言ったとあった。彼女をだますようにして幾日もそとへ泊らして置いて、その間に僕が行衛不明になってしまったもんだから、彼女はてっきりまた牢だと思っていたのだ。そして、パパは? と誰かに聞かれても黙って返事をしないかあるいは何かほかのことを言ってごまかして置いて、時々夜になるとママとだけそっと何気なしのパパのうわさをしていたそうだ。僕はこの魔子に電報を打とうと思った。そしてテーブルに向って、いろいろ簡単な文句を考えては書きつけて見た。が、どうしても安あがりになりそうな電文ができない。そしてそのいろいろ書きつけたものの中から、次のような変なものができあがった。
魔子よ、魔子
パパは今
世界に名高い
パリの牢やラ・サンテに。
だが、魔子よ、心配するな
西洋料理の御馳走たべて
チョコレートなめて
葉巻きスパスパソファの上に。
そしてこの
牢やのお蔭で
喜べ、魔子よ
パパはすぐ帰る。
おみやげどっさり、うんとこしょ
お菓子におべべにキスにキス
踊って待てよ
待てよ、魔子、魔子。
そして僕はその日一日、室の中をぶらぶらしながらこの歌のような文句を大きな声で歌って暮した。そして妙なことには、別にちっとも悲しいことはなかったのだが、そうして歌っていると涙がほろほろと出て来た。声が慄えて、とめどもなく涙が出て来た。
しかし僕も、はいった初めから出る時まで、こんな御馳走ばかり食べていたのではない。
ちょうどはいる前の日に、『東京日日』の記者から原稿料の幾分かを貰っていたものだから、二、三カ月はどんなに贅沢をしたところで大丈夫だと思っていると、四、五日して看守がもう僕のあずけ金がないと言って来た。そんな筈はない、と言いはってなお調べさせて見ると、はいる時に持っていた金の大部分は裁判所で押えてしまったのだと分った。やはりドイツからでも貰った金だと見たのだろう。
仕方がない。それからは当分牢やのたべ物でがまんした。
朝八時頃になると、子供の頭ぐらいの黒パンを一つ、入口の食器口から入れてくれる。黒パンである上に、さらに真っくろに焦げつかして、まだ少し暖かみがある。が、味はない。ぼそぼそもする。僕は二た口か三口でよした。
前にベルヴィルの貧民窟にいた時、自炊をして、よく近所のパン屋へパンを買いに行ったのだが、黒パンはどこのパン屋にもつい見かけたことがなかった。パリではそんなパンを食う人間はまずないのだ。
それから一時間か二時間すると、大きな声で「スープ! スープ!」と怒鳴りながら、ガラガラ車を押して、そのいわゆるスープをくばって歩く。アルミのどんぶりの中に、ちょっと塩あじのついた薄い色の湯が一ぱいはいっていて、上に膏がほんの少々ながらきらきら浮いてい、下には人参の切れっぱしやキャベツの腐ったような筋が二つ三つ沈んでいる。これも初めの日にはちょっと甜[#「甜」はママ]めて見たきりで止した。
さらに午後の三時から四時頃になると、やはり同じようなどんぶりに、こんどは豆の煮たのを持って来た。そしてその次の日にはジャガ芋の煮たのを持って来た。僕は豆も芋も好きなので、これだけは初めから食った。そしてさらにその次の日には、米のお粥の中に牛肉のかなり大きな片がはいっているのを持って来た。が、その肉はとても堅くて、噛んだあとは吐き出さずにはいられなかった。
このお粥と肉は一週に二度ついた。
これが牢やの御馳走の全部なのだ。最初の間はそんな風でろくに食べずにいたが、しかしそれでは腹がへって仕方がないので、辛棒しいしいだんだんに食って行った。そして終いには、一日分の筈の黒パンも来るとすぐにみな平らげてしまい、二度のどんぶりも綺麗に甜[#「甜」はママ]めずってしまったが、やはりまだそれだけでは腹がへって仕方がなかった。そしてお湯一つくれないので、つい幾度となく水道の水をがぶりがぶりとやっていた。
六
はいった翌日、トレスという弁護士から手紙が来た。共産党のちょっとした名士で、いろんな革命派の人々の弁護をいつも引受けている弁護士だ。僕も名だけは知っていた。コロメルが頼んだのだ。
「予審判事へ僕が君の弁護を引受けたことを知らしてくれ。そしてもし予審廷へ不意に呼ばれるようなことがあったら、僕が立合いの上でなければいっさい訊問に応ずることはできないと言え。」
この手紙は封じたままで僕の手にはいった。僕はそれも面白いと思ったが、それよりもなおこの「立合いの上でなければ」というのが面白いと思った。
僕はすぐ判事と弁護士とに手紙を書いた。判事の方のは開き封のままだが、弁護士への分はやはり封じて出せとのことだった。
その後トレスが面会に来たが、弁護士との面会は監視の役人なしだった。お互いに何を話そうと、何を手渡ししようと、勝手なのだ。
これなら、金さえあれば、いくらでも、偽証もでき、また証拠の湮滅もできそうだ。泥棒がその盗んだ金を弁護士に払って、それで無罪になって、また新たに弁護士に払うための新しい金もうけの仕事にとりかかるようなことができそうだ。
差入れの食事もとれず、煙草も買えず、読む本もなし、となってからは、毎日ただベッド[#「ベッド」は底本では「ベツド」]の上で寝てくらした。よくもこんなに寝れるものだと思ったくらいによく寝た。
真っぴる中寝床の中へなぞはいっていては悪いんじゃないかしらとも思ったが、叱られたら叱られたその時のことと思って、図々しく寝ていた。
が、日本の牢やとは違って、看守は滅多にのぞきに来なかった。朝起きるとすぐ、それも何の相図も号令もないのだが、看守が戸を開けて、中のごみを掃き出させる。それが一と廻り済むと、運動場へ連れて出た。それからは前に言った三度の食事にたべ物を窓口まで持って来るほかには、ほとんど誰もやって来ない。日本のようには、朝晩のいわゆる点検もない。ただ、夕方一度、昼の看守と交代になる夜の看守がちょっと室の中をのぞきに来るぐらいのものだ。
看守されているんだというような気持はちっともしない。本当に一人きりの、何の邪魔するものもない、静かな生活だ。
しかし、そうそう寝てばかりいれるものでもない。時々は起きて、室の中をぶらぶらもする。その時の僕の呑気な空想を助けたものは、四方の壁のあちこちに書き散らしてある落書だった。
大がいはみな同じ形式のもので、
Ren
de Montmartre(モンマルトルのルネ)
tomb
pour vol(窃盗のために捕まる)
1916(一九一六年)
とあるようなのが普通で、そのルネという名がマルセルとなったり、モオリスとなったりして、そしてそのモンマルトルというパリの地名は多くはそれかあるいはモンパルナスだった。そこは、ちょうど本所とか浅草とかいうように、そういう種類の人間の巣窟なのだろう。
また、その名前の下に、
dit l'Italien(通り名、イタリア人)
dit Bonjours aux amis(通り名、友達によろしく)
というようなあだ名がついていた。このあとのは殺人犯だったが、まだ同じ殺人犯の男で、「鉄腕」というあだ名があったり、その他いろんなのがあったが、今はもう忘れてしまった。
その他にもまだ、
Encore 255 jours
taire.(まだ二百五十五日だんまりでいなくちゃならない)
Vive d
cembre 1923.(一九二三年十二月万歳)
といったように、放免の日を待ち数えたのや、また、
Ah ! 7 ! Perdu !(ああ、七だ、おしまいだ!)
と書いて、そのそばに四の目の出た骰子と三の目の出た骰子と二つ描いてあるのもあった。何か不吉の数なのだろう。
それから、これは日本なぞではちょっと見られないものだろうが、
Riri de Barbes(バルブのリリ[#「バルブのリリ」は底本では「何とかのようなやくざものの」])
Fat comme poisse(何とかのようなやくざものの[#「何とかのようなやくざものの」は底本では「バルブのリリ」])
Aime sa femme(その妻)
dit Jeanne.(ジャンを愛する)
というのや、また、
Emile(エミル)
Adore sa femme(命にかけて)
pour la Vie.(その妻を恋いあこがれる)
という熱心なのもあった。
Ce qui mange doit produire(食うものは生産せざるべからず)
Vive le soviet.(ソヴィエト万歳)
とあって、その下にわざわざボルシェヴィキと書いてあるのもあった。
僕も一つ面白半分に、
E. Osugi.(エイ、オスギ)
Anarchiste japonais(日本無政府主義者)
Arr
t
S. Denis(セン・ドニにて捕わる)
Le 1 Mai 1923.(一九二三年五月一日)
と、ペン先きで深く壁にほりこんで、その中へインクをつめてやった。
予審へは一度呼び出された。
まだ弁護士の来ない間に訊問を始めようとしたので、さっそく例の手で両肩をあげて見せた。判事はあわてて書記に命じて弁護士を探しにやった。
取調べは実に簡単なものだった。というよりもむしろ、大部分は判事と弁護士との懇談のようなものだった。
警視庁からの罪名書きには、暴力で警官に抵抗したという官吏抗拒罪や、秩序紊乱罪や、旅券規則違反罪や、浮浪罪などといういろんな出たらめが並べてあったが、予審判事はその中の旅券規則違反についてのことだけしか尋ねなかった。そうする方が一番面倒もなかったのだろう。
そしてどこからどう聞いて来たか、あなたのお父さんは陸軍大佐だったそうですね、といったようなことを大ぶ丁寧に聞いた。実は少佐なのだが、せっかくそんなに大佐をありがたがっているものならそう思わして置けと思って、僕もそうですとすまして答えた。その他にも、もと相当な社会主義者で東洋方面の社会運動に詳しい、そして今は保守党の『レクレエル』という日刊新聞の主筆になっている何とかいう男が、僕のことを大ぶえらい学者ででもあるかのようにその新聞で書き立てたそうなので、判事も大ぶ敬意を払っていたのだそうだ。
最初弁護士の話では、裁判所側はリヨンの方やその他いろんな方面を取調べなければならんので、公判までにはまだ一、二カ月かかるだろうということだったが、予審の日に弁護士が保釈を請求して、いろいろ判事と懇談の末、保釈は却下されることとなってその代りすぐ公判を開くことに話がついた。
公判は、予審の調べから一週間目の、五月二十三日に開かれた。
十四、五人の被告がボックスの中に待っている間に、傍聴人がぞろぞろと詰めかけて、やがてリンの響きとともに、よぼよぼのお爺さん判事が三人とそのあとへ検事とがはいって来た。
裁判官等のうしろの壁には、正義の女神の立像が、白く浮きぼりに立っていた。
裁判長はすぐそばにいる僕等にすらもよく聞きとれないような、歯なしのせいのただ口をもぐもぐするような口調ですぐ裁判を始めた。
「お前はいつ幾日どことかで何とかしたな。……よろしい。それでは……」
とちょっと検事の方を向いて、そのうなずくのを見ると、こんどは両方の判事に何か一こと二こと言って、
「それでは、禁錮幾カ月、罰金いくら。その次は何の誰……」
というような調子で、一瀉千里の勢いで即決して行く。
僕の番は六、七人目に来たが、やはりそれと同じことだった。
「お前はいつ幾日か、にせの旅券とにせの名前でフランスにはいったに相違ないな。」
「そうです。」
「それについて別に何か言うことはないか。」
「何にもありません。」
「それじゃその事実を全部認めるんだな。」
「そうです。」
それで問答はおしまいだ。検事は何も言うことがないと見えて、黙って裁判長にうなずいた。
そして弁護士が二十分ばかりそのお得意の雄弁をふるったあとで、
「よろしい。禁錮三週間。罰金いくらいくら。次は何の誰……」
裁判長がそう判決を言い渡すと、僕等のうしろに立っていた巡査の一人が、さあ行こうと言って一緒にそとへ連れて出た。
フランスでは、未決拘留の日数は三日間をのぞいたあとをすべて通算する。で、僕はその日に満期となって、翌日は放免の訳だ。
あっけのないことおびただしい。
裁判所の下の仮監では、この日同じ法廷で裁判される四、五人の男と一緒にいた。
裁判の始まるのを待つ間、みんなガヤガヤと自分の事件についての話をしあっていた。実はこうこうなんだが、そこをこう言ってうまく逃げてやろうと思うんだとか。いや、実につまらん目にあいましてな、こうこう言うつもりのがついこんなことになってしまいましてとか。なあに、そんなことなら何でもない、せいぜい三月か四月だとか。話は日本の裁判所の仮監のとちっとも違いはない。そしてその大がいは、何百フランとか何千フランとかをどうとかしたという、金の話ばかりだ。それも、ちょっとした詐偽だとか、費いこみだとかの、ちっとも面白くない話ばかりだ。
で、僕は黙って、薄暗い室の中の壁の落書を、一人で調べていた。
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