二
しかし僕だって、そんな安ホテルで野蛮人のような生活ばかりしていたんじゃない。大して上等でもないが、とにかくまず紳士淑女のとまるホテルへも行った。
実は、前のホテルが仲間の巣のすぐ近所なので、その辺を始終うろついているおまわりさんのぴかぴか光る目がこわかったのだ、そしてそうそう逃げ出したのだ。
こんどは、室の中で栓一つねじれば、水でも湯でも勝手に使えた。西洋風呂もあった。西洋便所もあった。
僕は、猿またの捨て場所にこまって、そっとこの便所へ突っこんで、うんとひもをひっぱってドドドウと水を流して見た。うまく流れればいいがと思いながら、大ぶ心配しいしいやったんだが、何のこともなく綺麗に流れてしまった。
「なあに、そんな心配はないよ。フランスの便所は赤ん坊の頭が流れこむだけの大きさにちゃあんとできているんだからね。」
僕がその話をしたら、友人の一人がこう言って、そしてドイツでやはりこのでんをやって失敗した話をした。猿またが中途でひっかかって管がつまってしまったので、お神さんに大ぶ油をしぼられた上に、その掃除代まで取られたんだそうだ。
が、そのほかにもう一つ、室のすみっこに何だかわけのわからんものがあった。白い綺麗な陶器でできているんだが、ちょうどおまるのような大きさの、そしてまたそんな形のもので、そのきんかくしにあたるところに水と湯との二つの栓がついている。そしてその真ん中ごろの両側が瓢箪形に少しへこんで、そこへ腰をおろすのに具合のいいようになっている。が、おまるにしては、固形物の流れるような穴はない。また立派な西洋風呂のあるのに、こんなもので腰湯を使うのも少しおかしいと思った。試みに栓をねじると、恐ろしい勢いで、水か湯かがジャジャジャアと出て来る。そして僕は、夜中になるとよく、となりの室でしばらく男と女の話し声が聞えると思ったあとで、このジャジャジャアのおとを聞いた。
寝台は大きなダブル・ベッドだ。枕はいつでも二つちゃんと並べてある。これは前の安ホテルででもやはりそうだったが。
パリについた晩、近所のうすぎたないレストランへ行って、三フラン五十の定食を食った。日本の一品料理見たいなあじのものだ。で、しかめつらをして食っていると、日本ではとても見られないような、毛唐と野蛮人とのあいの子のようなけったいな女がはいって来て、ココココと呼びかける。坊やというほどの意味だ。僕は恐ろしくなってさっそくそこを逃げだした。
が、そとへ出ると、すぐおなじような女がそばへやって来て「いかがです」てなことを言う。ホテルの前のかどでも、そんな女が二人突っ立っていて、いきなり僕の腕をとって、何やかやと話しながら一しょにあるいてくる。よくは分らないが、「五フランなら」というような言葉がその中にあったように思う。実は、このベルヴィル通りの労働者街を逃げ出したのは、おまわりさんもこわかったが、この五フラン女もこわかったのだ。
それからパリの中心のグランブウルヴァル近くのあるホテルへ引っこすとすぐ、夕方その辺をぶらぶらしながら、ちょっとはいるのに気がひけるようなある大きなキャフェへはいった。キャフェは実にうまい。僕は二、三ばい立てつづけに飲んだ。そして「もう一ぱい」とボーイに言いつけている間に、ふと五つ六つ向うのテーブルにいる若い綺麗な女が、僕の顔を見ながらニコニコしているのに気がついた。これはまた、日本ではとても見られないような、本当の西洋人の目のさめるような女だ。
僕はきっと僕があんまりキャフェを飲むんで笑っているんだろうと思った。それともまた、色の浅黒い妙な野蛮人がいるなと思って笑っているのかともひがんで見た。どっちにしても、僕にとっては、あんまり気持のいいことではない。僕は少々赤くなって、すましてほかの方を向いた。
すると、そこにもやはり、一人の若い綺麗な女が、僕の顔を見てニコニコしているのにぶつかった。少し癪にさわったので、こんどは度胸をすえて、こっちでもその女の顔をじっと見つめてやった。
が、笑っているんじゃないんだ。目がうごく、口がうごく、何か話しかけるように。
僕は変だなと思って、こんどは前の女の方を見た。やはりニコニコしている。そして今の女よりももっと、しきりに話しかけるようにして、顎までもうごかす。
僕は少々きまりが悪くなって、急いでキャフェを飲みこんでそこを出た。
三
翌日は、ちょっと用があるんで昼からタクシーでそとへ出た。自動車で道が一ぱいなので、車はよく止まる。そして、ぞろぞろとまた、歩くようにして走り出す。僕は急ぎの用じゃ自動車では駄目だなと思った。
こうして、ある広場の入り口でちょっと道のあくのを待っている間に、僕は、一人のやはり若い綺麗な女が、ニコニコしながらのぞきこんでいるのを見た。まど越しなので言葉は聞えないが、何か言っているようにすら見える。が、その言葉を聞きとろうと思って耳をかたむけている間に、車は走り出した。
その日は大奮発をして三十フランばかりの夕飯を食って、また大通りをぶらぶらしていると、何とか嬢の何とかの歌、何とか君の何とかの話というような題をならべた、寄席のようなものがあった。はいった。歌も話も、割りによく分るのでうれしかったが、それがあんまりつまらないくすぐりばかりなので、いやになってすぐ出た。
そして、また大通りのショー・ウィンドウのあかあかとてらしたところや、キャフェのテラスの前を、ぶらぶらとあるいた。テラスというのは、キャフェの前の人道に椅子、テーブルを持ち出して並べてあるところだ。そこでは、大勢の男や女ががやがや面白そうに話ししながら、何か飲んでいる。そしてところどころに一人ぽっちの若い女がいて、それがほかの一人ぽっちの男にいろいろと目くばせしたり、前を通る男に笑いかけたりしている。
道を通る女という女は、ほとんどみなその行きちがう男に何か目で話しかけて行く。そして、おや見合ったなと思っているうちに、もう二人で手を組んだり、あるいは肩や腰に手をかけたりして、ペチャクチャ何か話ししながらあるいて行く。
女はみな、あの白い顔にまた綺麗に白粉をぬって、その上にところどころ赤い色をぬって、唇には紅をさし、目のふちは黒く色どっている。そしてその顔をまた、いろんな色の帽子と着物とでかざっている。
その女のうしろ姿がまたいい。すらりとした長いからだの、ことに今は長い着物がはやっているのでなおさらすらりとして見えるのだそうだ、肩や腰をちょこまかとゆすぶりながら、小足で高い靴の踵を鳴らして行く。
僕はそういうのにうっとりとしていると、一人の女にぶつかった。ぶつかったんじゃない。あっちから僕の前にのこのこ出て来たんだ。そして、
「どう、今晩私と一しょにあそばないか。」
と首をかしげて、細いしかしはっきりした可愛い声で言う。
悪い気持じゃない。しかし少々面くらった僕は、あわてて、ちょうどその前を通っていたやはり寄席のようなうちの中へ飛びこんだ。
ドアをあけて、はいるにははいったが、切符を売るようなところがないので、ちょっとまごついていた。すると、ボーイらしい男がやって来て、
「いい席にいたしましょうか。」
と言う。
「ああ、一番いい席にしておくれ。」
僕はどうせ高の知れたものと見くびって大見得をきった。ボーイはすぐ僕の前に立って案内した。
もう一つドアをあけると、そこは広いおどり場だった。盛んなオーケストラにつれて、十人あまりの女が今踊っている最中だ。僕はその一番前のテーブルに坐らされた。僕はボーイに二フランの銅貨を一つにぎらした、ボーイはしきりにお礼を言いながら、何か低い声でささやいた。僕はちょっと聞きとれないので聞き直した。
「もしお望みの娘がいましたら、ちょっと私に相図して下さい。すぐ呼んで来ますから。」
ボーイはそう言って、何か小さな紙片を置いて行った。そして、それと入れかわりに、またほかのボーイが来て、大きな紙片を一枚テーブルの上に置いた。見ると、シャンパンのメニュだ。五十フランとか六十フランとかいう値段が書いてある。これや大変だ、と思いながら、前の小さな方の紙片を取って見ると、それには入場無料、飲物是非、とかいてある。
「ちょっと待っておくれ。」
僕は踊りの方に夢中になっているような顔をして、一とまずそのボーイをしりぞけた。そして、短かい裾を盛んにまくりあげては足を高くあげて見せる、その何とか踊りがすんで、そしてこんどは見物の男や女がおどり場一ぱいになって踊りだしたのを機会に、シャンパンの註文をききにくるボーイの来ないうちにと思って、とっとと逃げ出してしまった。
四
今パリではミディネットが同盟罷工をしている。
このミディネットというのは、字引をひいてもちょっと出て来ない字だが、ミディすなわち正午にあちこちの商店や工場からぞろぞろと飯を食いに出てくる女という意味で、いろんな女店員や女工員を総称するパリ語だ。そしてこのミディネットがやはり、正午のやすみ時間に、本職の労働以外の労働をするという話を聞いた。実は、僕がミディネットという言葉を覚えたのも、その話からなのだ。
が、今罷工をやっているミディネットは、その中のお針女工だ。八千人ものこのお針女工がもう四週間も罷工をつづけて、大勢大通りをねってあるいて示威運動をしたり、罷工に加わらない工場へさそい出しにいったりして、あちこちで警官隊と衝突している。
僕はそのミディネットの一人に会った。そしてその生活状態も聞いて見た。
彼女はまだ若いし、腕も大してよくはないので、一週間に六十フランしかもらっていなかった。が、この一週間五、六十フランから一カ月三、四百フランというのが、まずパリでの一般のミディネットの普通の収入なのだ。パリの貧乏人の女は、娘でも細君でも、大がいみなこうして働いている。
そして彼女の毎日の支出は、その鉛筆で書いて見せた表によると、ざっとこうだ。
フラン
朝食(キャフェとパン)……0.60
電車(往復)…………………0.35
昼飯……………………………4.50
夕飯……………………………3.50
洗濯……………………………0.80
室代……………………………2.00
雑費(病気や娯楽)…………2.00
被服……………………………2.00
―――――――――――――――
合計………一日………… 15.75
同…………一週…………110.25[#「110.25」は底本では「110.00」]
同…………一月…………441.00
同…………一年………5,292.00
収入………一年………3,120.00
―――――――――――――――
不足………一年………2,172.00[#「2,172.00」は底本では「2,172.20」]
昼飯は友達と一緒に食うんで、日本人のお茶の、葡萄酒が少しはずむんだ。二フランの室というのは、安ホテルの屋根裏だ。そしてパリのミディネットは、親のうちにいるものはごくまれで大がいはみなこの安ホテルの屋根裏ずまいだ。
そこで、問題は、この一年二千フラン余りの不足が、どうして補われるかということだ。あるものは自炊をして、昼も晩もパンとジャガ芋かスープで済ます。洗濯と娯楽と被服とをうんと倹約する。あるものはいわゆる「お友だち」の男と同棲する。夫婦共かせぎする。そしてあるものは、正午のやすみ時間に働く、いわゆるミディネットになる。
イギリスの『タイムス』では、ミディネット等が「生活費や絹の靴下や白粉が高くなったので」罷工した、と冷やかしていた。実際、絹の靴下をはいているものもかなりある。また白粉をつけているものもかなり多い。しかし、パリの町の中をあるいている女で、そうでないものがどれだけあるだろう。そして大がいのミディネットは、その商売上、雇い主からそう強いられるのだ。
また、この罷工中のミディネット等が、胸に箱を下げてあちこちのキャフェへ寄附金募集に歩くと、
「おい、そんなことをするよりゃ、往来をぶらぶらしろよ。」
とからかう紳士がずいぶんある。この紳士等の望み通りにミディネットに「往来をぶらぶら」させるためには、そしてやがてそれを本職にさせるためには、彼女等の賃金は決して上げてはならないのだ。
そしてこの紳士等の淑女は、往来やキャフェをぶらつく若い綺麗な女どもとその容色をきそうためには、決して子供を生んではならない。貧乏人の、あるいは乞食のような風をしたあるいは淑女のような風をした、どちらの女も、これまただんだん高くなってくるその生活のためには、決して子供を生んではならない。
この頃発表されたフランスの人口統計表によると、この現象は最近ことにはなはだしい。
一九二二年すなわち去年は、出産数が約七十五万九千だが、一昨年は一昨々年よりも約二万一千へり、そして去年は一昨年よりもさらにまた五万三千へっている。
それをもう少し詳しく言うと、一九二二年には、
[#ここから横組み]
出産数………759,846[#「759,846」は底本では「759,946」]
死亡数………689,267
差引…… 70,579
[#ここで横組み終わり]
であるが、前二カ年には、この差引が、
[#ここから横組み]
1921…………117,023
1920…………159,790
[#ここで横組み終わり]
になっている。
そして死亡数はほんの少しずつ減ってくるのだ。しかもそれは、多くは早死する。貧乏人の子供の上にだ。
結婚の数もへった。
[#ここから横組み]
1920…………623,869
1921…………456,211
1922…………383,220
[#ここで横組み終わり]
この結婚の数を人口一万に対する比例にすると、ちょうど次のようになる。
[#ここから横組み]
1922………….195
1921………….233
1920………….318
[#ここで横組み終わり]
避姙は貧乏人にはちょっとむずかしい。サンガー女史が一番有効なものとして推奨しているカプセルは、一つ五十フランするのだが、それも長くは使えない。また、前に言った瓢箪形のビデなどは、貧乏人の夢にも思えるものじゃない。
労働者にはかなり子供ができる。僕の知っている労働者で、五人六人、または七人八人と子供をつくったのが、かなりあるが、その多くは、まだ赤ん坊の間か、あるいはほんのまだ子供の間に死ぬ。往来をぶらぶらするいかがわしい淑女達でも二十歳前に生んだ子供を一人ぐらいは持っているのがおおい。
そこで、前に言った赤ん坊の頭ぐらいはやすやすと通れる、大きな穴や管の便所が必要になってくる。相応の医者へ行けば、五百フランぐらいで、勿論ごく内々で何の世話もなく手術をしてくれる。しかし貧乏人にはそうは行かない。
堕胎はフランスでは重罪だ。が、こんど、それを軽罪にしたかするとかいう話を、四、五日前の新聞で見た。そこには毎年のこの犯罪数などもあったのだが、今その新聞が手もとにないので、詳しいこともまたはっきりしたことも言えない。
これは貧乏人にとって、よほどありがたい改正のようだ。が、実際はそうでもないらしい。今までは、重罪だったので、陪審の人たちが多くは被告に同情して、容易にそれを有罪にさせなかった。また、よし有罪ときまっても、容易にその執行をさせなかった。それがこんどは、軽罪のお蔭で、陪審もなくなり、また裁判官の同情もよほどうすらごうと言うのだ。そしてその改正の目的も、実はやはり、そこにあるらしいのだ。
――一九二三年四月三十日、パリにて――
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