獄死はいやだ
囚人で羨やましかったのは、この野獣と、もう一つは小羊のような病人だった。
巣鴨の病監は僕等のいたところからは見えなかったが、東京監獄でも千葉でも、運動場へ行く道には必ず病監の前を通った。普通の家のような大きな窓のついた、あるいは一面にガラス戸のはまった、風通しのよさそうな、暖かそうな、小綺麗な建物が、ほとんど四季を通じて草花や何かの花に囲まれて立っている。そしてその花の間を、呑気そうに、白い着物を着た病人がうろついている。
僕は本当にどうにかして病人になりたいと思った。もし五年とか、十年とか、あるいは終身とかいうような刑ではいった時には、僕はこの病人のほかには僕の生きかたがあるまいとすら考えた。肺病でもいい。何でもいい。とにかく長くかかる病気で、あすこにはいらなくちゃならんと思った。
が、一度、巣鴨でこの病監にはいることができた。前に話した徒歩で裁判所へ行く道で、つまずいて足の拇指の爪をはいだ。そこにうみを持ったのだった。
巣鴨の病監は、精神病患者のと、肺病患者のと、普通の患者のと、三つの建物に分れている。僕はその最後のにはいった。いい加減な病院の三等や二等よりもよほどいい。僕のは三畳の室で、さすがに畳も敷いてある。そこへ藁布団を敷いて、室一ぱいの窓から一日日光を浴びて、そとのいろんな草花を眺めながら寝て暮せばいいんだ。看護人には、囚人の中から選り抜きの、ことに相当の社会的地位のあったものを採用する。僕には早稲田大学生の某芸者殺し君が専任してくれた。
かつて幸徳は、この病監にはいって、ある看守を買収して、毎朝『万朝報』を読んで、毎晩一合か二合かの晩酌をやっていたそうだ。
僕ももし酒が飲めれば、葡萄酒かブランデーならいつでも飲めた。それは看護人が薬室から泥棒して来るのだった。
医者も役人ぶらずによく待遇してくれた。看守もみな仏様で、僕はほとんど自分が看守されているのだという気持も起らなかった、ぐらいによく謹しんでいられた。
御馳走も普通の囚人よりはよほどよかった。豚汁が普通には一週間に一回だったのが二回あった。それに豚の実も普通よりは数倍も多かった。
僕はこの病監で、自分が囚人だということもほとんど忘れて一カ月余り送った後に、足の繃帯の中に看護人等の数本の手紙を巻きこんで出獄した。
しかし、これがほんのちょいと足の指を傷つけたぐらいのことだから、こんな呑気なことも言って居られるものの、もしもっと重い病気だったらどんなものだろう。僕は先きに肺病でもいいから病監にはいりたいと言った。今僕は、現に、千葉のお土産としてその病気を持って来ている。もうほとんど治ってはいるようなものの、今後また幾年かはいるようなことがあって、再び病気が重くなって、病監にはいらなければならぬようになったらどうだろう。
千葉では、僕等が出たあとですぐ、同志の赤羽巌穴が何でもない病気で獄死した。その後大逆事件の仲間の中にも二、三獄死した。今後もまだ続々として死んで行くだろう。
僕はどんな死にかたをしてもいいが、獄死だけはいやだ。少なくとも、あらゆる死にかたの中で、獄死だけはどうかして免かれたい。
収賄教誨師
獄中で一番いやなのは冬だ。
綿入れ一枚と襦袢一枚。シャツもなければ足袋もない。火の気はさらにない。日さえ碌には当らない。これで油っ気なしの食物でいるのだから、とても堪るものではない。
体操をやる、壁を蹴る。壁にからだを打つける。運動に出れば、毎日三十分ずつ二回の運動時間をほとんど駈足で暮す。しかしそんなことではどうしても暖かくならない。
冷水摩擦をやる。しかもゆうべからの汲み置きのほとんどいつも氷っている水だ。この冷水のほかにはほとんどまったく暖をとる方法がない。それで朝起きるとまず摩擦をやる。夜寝る前にも、からだじゅうが真赤になるまでこすって、一枚こっきりの布団に海苔巻きになって寝る。かしわ餅になって、と人はよく言うが、そんなことで眠れるものではない。昼も、膝っこぶのあたりから絶えずぞくぞくして来て、時とすると膝が踊り出したように慄える。そして上下の歯ががちがちと打ち合う。そんなになると、日に二度でも三度でも、素裸になってからだをふく。これで少なくとも一時間は慄えを止めることができる。
冬の間の一番のたのしみは湯だ。「脱衣!」の号令で急いで着物を脱いで、「入浴!」で湯にとびこむ。
「洗体!」の号令すらもある。多くは熱くてはいれないほどの湯に、真赤になって辛抱している。それほどでないと、夕飯前の湯が夜寝る時までの暖を保ってくれない。
稀れに、夕飯の御馳走が、鮭か鱒かの頭を細かく切ったのを実にしたおつけの時がある。その晩は、さすがに、少し暖かく眠れる。
それでも不思議なことには滅多に風をひかない。この二月の初めに、四カ月の新聞紙法違犯を勤めて来た山川のごときは、やはり肺が悪くてほとんど年中風を引き通している男だが、向うではとうとう風一つ引かずに出て来た。そして出るとすぐ例の流行性感冒にやられて一月近く寝た。
こういった冬の、また千葉でのある日のこと。教務所長という役目の、年老った教誨師の坊さんが見舞いに来た。
監獄にはこの教誨師という幾人かの坊さんがいる。ところによってはヤソの坊さんもいるそうだが、大がいは真宗の坊さんだ。
普通の囚人には、毎週一回、教誨堂とかいう阿弥陀様を飾った広間に集めて、この坊さんが御説教を聴かせるのだそうだが、僕等には坊さんの方から時折僕等の部屋へ訪ねて来る。大がいの坊さんは別に御説法はしない。ただ時候の挨拶や、ちょっとした世間話をして、監獄の待遇についてのこちらの不平を聞いて行く。
千葉のこの教務所長というのは、その頃もう六十余りの老人で、十幾年とか二十幾年とか監獄に勤めて地方での徳望家だといううわさだった。僕にはどうしてもそのうわさが正当には受けとれなかった。何よりもまず、その小さいくるくるした眼に、狐のそれを思わせるある狡猾さが光っていた。何か話しするのでもとかくに御説法めく。本当に人間と人間とが相対しているのだというような、心からの暖かみや深切は見えない。そしていつも、俺は役人だぞ、教務所長だぞ、という心の奥底を裏切る何ものかが見える。僕はこの男が見舞いに来るのを千葉での不愉快なことの一つに数えていた。
「如何です。今日は大ぶ暖かいようですな。」
わざとらしい、どこかにこちらを見下げているような嘲笑の風の見える微笑を洩らしながら、はいって来るとすぐいつもの天気の挨拶をした。僕はこの男のいやな中にも、この微笑が一番いやだった。それに今、せっかく読みかけていたトルストイの『復活』の邪魔をされたのが、その足音を聞いて急に本をかくして仕事をしているような真似をさせられたのが、なおさらにその微笑に悪感を抱かせた。
「何が暖かいんだ。俺が今こうしてブルブル慄えているのが見えないのか。」
僕は腹の中でこう叫びながら、再びその顔を見上げた。そしていきなり、
「ふん! 綿入れの五、六枚も着てりゃ、いい加減暖かいだろうよ。」
と毒づいてやった。実際彼は、枯木のような痩せたからだを、ぶくぶくと着太っていた。そしてその癖、両手を両わきのところでまげて、まだ寒そうにその両手でしっかりとからだを押えていた。
教務所長の痩せ細った蒼白い顔色が、急に一層の蒼味を帯びて、その狐の眼がさらに一層意地わるく光った。僕は仕事の麻繩をなう振りをしながら、黙って下を向いていた。
教務所長のからだがふいと向きを変えたと思うと、彼は廊下に出て、恐ろしい音をさせて戸を閉めて行った。僕はすぐ麻繩をそばへ投って、布団の下にかくしてある、『復活』をとり出した。そしていい気持になって、さっきの続きを読み始めた。
その後数カ月の間、あるいはとうとう出る最後の時までであったかも知れない、僕はその不愉快な老教誨師の顔を見ないで済んだ。
出獄後聞くと、この教務所長は面会に来る女房にしきりに自宅へ来るようにと言っていたそうだ。そしてそれは、本人の行状について詳しく話もし聞きもしたいということであったそうだが、来るにはどうせ手ぶらでは来まいという下心があるらしかったそうだ。現に同志の一人の細君は、面会へ行くたびにお土産物を持って彼を訪うて、ずいぶん歓待されたという話だ。が、僕の女房は、早く出獄した他の同志から僕と彼との間柄をよく聞き知っていたので、とうとう訪ねても見なかったそうだ。
それから二年ばかりして、ある日の新聞に、この教務所長が収賄をして千葉監獄へ収監されたという記事を発見した。もっともその後証拠不十分で放免になったと聞いたが。
教誨師については先日面白い話を聞いた。荒畑と山川とが東京監獄から放免になるのを、朝早く、門前のある差入屋まで迎えに行った。二人とも少し痩せて顔の色も大ぶ蒼白くはなっていたが、それでも元気で出て来た。
差入室の一室でしばらくみんなで快談した。迎えられるものも迎えるものも大がいみな獄通だ。迎えられるものは盛んにその新知識をふりまく。迎えるものは急転直下した世間の出来事を語る。
「おい、抱月が死んで、須磨子がそのあとを追って自殺したのを知っているかい?」
とたしか堺が二人に尋ねた。
「ああ知っているよ。実はそれについて面白いことがあるんだ。」
荒畑が堺の言葉のまだ終らぬうちに、キャッキャと笑いながら言った。
荒畑の細君が、何とかして少しでも世間の事情を知らせようと思って、さも親しい間柄のように書いて抱月の死を知らせたのだそうだ。
「ええ、先生にはずいぶん長い間学校でお世話になったもんですから。」
荒畑はその手紙を見てやって来た教誨師にでたらめを言った。荒畑は抱月とはたった一度何かの会で会ったきりだった。勿論師弟関係もなんにもない。
「ついちゃ、お願いがあるんですが。」
と荒畑はちょっと考えてから言った。
「そんな風ですから、別に近親というわけでもないんですが、一つ是非回向をして下さることはできないものでしょうか。」
教誨師はまた何か厄介な「お願い」かと思ってちょっと顔を顰めていたが、その「お願い」の筋を聞いて、顔の皺を延ばした。そして今までは死んだ人の話をするのでもあり、ことさらに沈欝らしくしていた顔色が急ににこにこと光り出した。
「え、ようござんすとも、お安い御用です。」
教誨師はこう言って、荒畑を教誨堂へ連れて行った。荒畑はこの教誨堂なるものを一度見たかったのだ。そして坊さんにお経でも読まして、その単調な生活を破る皮肉な興味をむさぼりたかったのだ。
「どうだい、それで坊さん、お経をあげてくれたのかい?」
荒畑がお茶を一杯ぐっと飲み干している間に僕が尋ねた。
「うん、やってくれたともさ。しかも大いに殊勝とでも思ったんだろう。ずいぶん長いのをやってくれたよ。」
「それや、よかった。」
とみんなは腹をかかえて笑った。
「で、こんな因縁から、お須磨が自殺した時にもすぐその教誨師がやって来て知らせてくれたんだ……。」
まだ書けばいくらでもあるようだが、このくらいでよそう。書く方でも飽きた。読む方でももういい加減になった頃だろう。
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