三
中学校にはいったのと同時頃に、高等小学校の坂本先生というのが、主として軍人の間から寄附金を募って、講武館という柔道の道場を建てた。
軍人の子は大がいそこにはいった。石川もはいった。大久保もはいった。また、前に言った威海衛の戦争の時に一週間山の中にかくれて出て来なかったという評判の、そして凱旋するとすぐ非職になった脇田という大尉の子もはいった。脇田は僕なぞと同じ級で年は二つほど多く、からだも大きかったが、僕等はその親爺のせいで馬鹿にしていた。が、ある時彼自身の口から、彼のほんとうの父は何とかという人で、金沢で大久保利通を暗殺した一人で、しかもその最初の太刀を見舞ったのだと聞いて、少し彼を尊敬したい気になった。勿論僕もはいった。
この柔道はずいぶんよく勉強した。午後と夜と代る代るあったのだが、僕はほとんど一日も欠かしたことがなかった。ことに寒稽古には三尺も積った雪の中で乱どりをやった。成績も非常によかった。そして一年半か二年もしてからはそこでの餓鬼大将になってしまった。毎年秋の諏訪神社のお祭には、各々の町から山車が出た。そしてその山車と山車とがよく喧嘩した。鍛冶町の鍛冶屋連がこの喧嘩に負けて、翌年の復讐を期して、十人ばかりが入門した。みんな僕なぞの足くらいもある太さの、恐ろしいほど瘤や筋の出ばった腕を持った、二十前後の若い衆ばかりだった。先生は僕をその相手に選んだ。ちょっと彼等に握られると、腕の骨がくだけるかと思うほどに痛かった。が、彼等の腰と足とは子供のように弱かった。僕はそれにつけこんで彼等をころころ転がしてやった。みんなは喜んで僕を先生の代理にしていた。そして折々小刀なぞを作って持って来てくれた。
そこではまた棒も教わった。縄も教わった。棒はことにお得意だった。今でもまだ棒が一本あれば二人や三人の巡査が抜剣して来たところで、あえて恐れないくらいの自信がある。
幼年学校にはいってからの第一の暑中休暇に、坂本先生のそのまた先生の森川というお爺さんから、ある伝授をするから一週間ばかり泊りがけで来いという迎いが来た。
お爺さんは新発田から二里半ばかり距たった次弟浜という海浜にいた。で、僕は海水浴がてら行って見た。お爺さんはもと通りちょん髷を結って、もう腰がすっかり曲っていた。それでも行くとすぐ、前にも道場でよくやったように、棒の相手をさせられた。お爺さんが木太刀を持って、僕が棒を持ってそれに向うのだ。お爺さんのかけ声はこっちの腹にまで響くように気合がこもっていた。そしてその太刀で棒を圧えるようにして、じりじり進んで来られると、僕はちょっと自分の棒を動かすことができなかった。
お爺さんは目がわるくて自分で書けないからと言って巻物になっている「目録」を持って来て、僕に写さした。東方の摩利支天、西方の何とか、南方の何とか、北方の何とか、というようなことがあって、呪文めいた片仮名の何だか訳のわからんことの書きつづけられた妙なものだった。そしてその最後には、この「目録」を伝えられたことの系図のようなもので、源の何とかから藤原の何とかに、という十幾つか二十幾つかの名が連らねられてあって、最後に源の何とか森田何兵衛殿へとあった。これがお爺さんの名なのだ。そしてお爺さんは、この系図のおしまいに自分の名をいれて、そのあとへ大杉栄殿へと書くように言った。
片仮名の呪文は何の意味だかちっとも教えてくれなかった。が、人が見てはいけないと言って、裸で土蔵の中にはいって、あて身や何かを教えてくれた。
その後このお爺さんは、父のところへ来て、兵隊に玉除けのまじないをしたいからと言って、大ぶ手こずらしたということであった。
この柔道は荒木新流という、実はもう古い流儀のものだった。
その後坂本先生は、僕が最初の入獄を終えて初めて家を持った時、こんど上京したからと言って訪ねて来た。これは後で間接に聞いたことであるが、実は父と相談して僕を説得しに来たのだったそうだ。が、そんなことは少しもなしに、今でもまた折々訪ねて来ては昔ばなしをして行く。
「どうしたって、そんな病気になる筈はないんだがね……」
僕が肺の悪いことを聞いて先生は不思議がっていた。そして先生発明の曲伸法という運動方法を勧めてくれた。最近に僕はこの曲伸法で獄中で大たすかりをした。
先生はもう五十をよほど越しているのだろうが、昔僕が知っている三十幾つかの頃の、小造りであるがまんまると太った、色つやのいい顔の先生そのままでいる。そして今でも、小石川のその修養塾のそばに道場を造って柔道の先生をし、また夏は子安辺で水泳の先生をして、毎年の冬隅田川で寒中水泳を催している。
この柔道から少し遅れて、撃剣も教わりに行った。昼の柔道の時間をその方へ廻したのだ。流儀の名は忘れたが、先生は今井先生と言った。
先生は大兵肥満の荒武者で、大きな竹刀の中に電線ほどの筋がねを三、四本入れていた。一種の国士といったような人で、昔星享が遊説に来た時、車ごと川の中へほうりこんだとかいう話もあった。最近にも大倉喜八郎の銅像の除幕式の時、そこへ飛びこんで行って大倉をなぐるのだと言って意気ごんでいたそうだが、みんなにとめられて果さなかったそうだ。
僕はそこで荒っぽい、竹刀の使いかたの大きな撃剣を教わったので、その後幼年学校にはいって、おもちゃのような細い竹刀でほんのこて先きだけでチャンチャンやるのが実にいやだった。
学校では器械体操とベースボールとに夢中になっていた。そしてこうして一日とび廻っては、大飯を食っていた。
十三の正月から十四の正月までに、背が五寸延びた。そうして十四から十五までに四寸延びて五尺二寸何分かになった。
四
中学校の校長は、先年皇子傅育官長になって死んだ、三好愛吉先生だった。
僕等は先生を孔子様とあだ名していた。それは先生が孔子様のような髯をはやしていたばかりでなく、何かというとすぐに孔子様孔子様と先生が言っていたからでもあった。先生は真面目な謹厳そのもののような顔をしていた。そして主として論語によって倫理の講義をしていた。
たしか二年の初め頃だった。ある日先生が、倫理の時間に、みんなの理想し崇拝する人の名を尋ねた。秀吉も出た。家康も出た。正成も出た。清麿も出た。そしてだんだん順番が廻って僕の番になった。
僕にはまだ、実は、理想し崇拝するというほどの人はなかった。それにいいかげんに誰かの名を言うにしても人の言った名をまた言うのはいやだった。誰にしようか、と考えて見てもちょっと新しい名が浮んで来なかった。そこへ僕の番が来たのだ。僕はすっかり困ってしまった。
が、とにかく立ちあがった。するとふいに、最近に買って読んだ、誰だかの西郷南洲論を思いだした。僕はいい見つけものをしたつもりで、「西郷南洲です」と答えた。
先生は一と廻りしてしまったあとで、みんなの答えたそれぞれの人についての批評をした。
「なるほど西郷隆盛は近代の偉人だ。あるいは、日本の近代では一番の偉人であるかも知れない。が、彼は謀叛人だ。陛下に弓をひいた謀叛人だ。そしてこの謀叛人であるということに、よしそれがどんな事情からであったにしろ、またほかにどんな功労があったにしろ、とうてい許されることはできない。いわんやその謀叛人を理想し崇拝するなぞとは、もってのほかだ。」
先生の僕の答に対する批評は大たいこんな意味だった。そして最後に先生は、みんなの理想し崇拝しなければならぬ人物として例の孔子様をあげて大いにその徳を頌した。
僕はこの批評が非常に不平だった。僕が読んだ本では彼の謀叛は陛下に弓をひいたのではない、いわゆるその何とかの下にかくれている姦臣どもを逐い払うための謀叛だとあった。僕もそう信じていた。しかし先生にこう言われてからは、そんなことはもうどうでもよくなった。許されようが許されまいがそんなことはもう問題ではなくなった。とにかく彼は偉かったんだの一点ばりになった。そして家へ帰ってまた西郷南洲伝を読み返して彼をすっかり好きになってしまった。
この西郷南洲伝はさらに僕を吉田松陰伝や平野国臣伝に導いた。そしてそのどんなところが気に入ったのか忘れたが、とにかく平野国臣は何だか非常に好きだったように覚えている。
三好先生は深田先生というのを教頭に連れて来た。小柄の綺麗な顔に頬髯を一ぱいにはやした先生だった。
先生は一年の時の倫理と英語を受持った。倫理には、長い間続けて郡司大尉の千島行の話を聞かされた。先生の英語は、声が綺麗で、今までの小学校や私塾の英語の先生のとはまるで違った、いい発音だった。
博物や理化の先生もやはり学士であったが、意地わるなので、僕等はその学科に興味を持つことができなかった。
お爺さんだった習字の先生は、いつも僕に、よく手本を見て書けばうまく書けるのだから、ぞんざいに書いてはいけないと言って注意してくれた。が、僕には、どうしてもお手本の一点一劃をその通りに見て書くということができなかった。そしてこのぞんざいのお蔭で、今でもまだろくに字の恰好をとることができない。
図画は最初鉛筆画で、あとで毛筆画になったが、一年から二年までの間に数えるくらいしか描いたことがなかった。まるで描けないし、それに大嫌いだったのだ。
学校の勉強はまるでしなかったが、成績は英語が一ついつでもいいくらいなもので、あとはみな乙ぞろいだった。そして三分の一ほどの席順にいた。
僕が一年から二年へ越える時に、虎公が高等小学を終えた。
虎公の家は、虎公とお婆さんと二人きりで、どうして食っていたのか知れないが、相変らず貧乏だった。虎公はしきりに中学校へはいりたがっていたが、どうしても駄目らしかった。僕は虎公が可哀そうで堪らなかった。そしてとうとう一策を案出してそれを虎公に謀った。それは僕が使った本はみな虎公にやるから、虎公はその伯父さんから月謝だけ出してもらって、学校へ行くがいいというのだった。
虎公は非常に喜んで、すぐそれをお婆さんに話して、伯父さんに相談に行った。伯父さんというのは典獄を勤めていた。
が、虎公の運命はもう、そのよほど以前にきまっていたのだった。彼は伯父さんの家から泣いて帰って来た。中学校へはいりたいなぞという非望を叱られて、近々に函館のある商店へ小僧に行くようにと命ぜられて来たのだ。
僕は虎公のこの運命をどうともすることができなかった。二人は相抱えて泣いた。そして僕は大将になるから、君は大商人になり給えと言って、永久の友情を誓った。
虎公と僕とは記念の写真を撮った。そして僕は母にねだって、暖かそうなフランネルのシャツとズボン下とを作ってもらって、それを餞別に送った。
僕は大将になり損ねたが、虎公ははたしてどうしているか。彼の本名は西村虎次郎と言った。
虎公が行ってしまってからすぐ僕は幼年学校の入学試験を受けた。そして虎公にも誓ったように、自分の写真の裏には未来の陸軍元帥なぞと書いていたが、試験のための勉強はちっともしなかった。そして見事に落第した。
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