二
それから四、五日経って、ある晩僕は父と母との前に呼ばれた。父の顔にはもう僕を名古屋へ迎いに来て以来の、むずかしそうな筋が一つも出ていなかった。母も僕がはいって行った時にいつもちょっとやる、そのはいって行ったのを知らないような顔つきはよして、にこにこして迎い入れてくれた。
「これからどうするつもりだ。」
父はできるだけ優しく、しかし簡単にただこれだけのことを言った。僕は一人できめていただけのことをはっきりと、しかしやはり簡単に答えた。
「文学はちょっと困るな。」
父は僕の言葉を聞き終ると、ちょっと顔をしかめて首を傾けた。
「文学って何ですの。」
母は心配そうに父の顔をのぞいた。
「それ、あの桑野の息子がやったようなものさ。」
「あの、大学を卒業して、何にもしないで遊んでいる、あの方?」
「うん、あれだ。あんなんじゃ困るからな。」
「そうね。」
僕はその桑野の息子というのがどんな男か知らなかったが、母もそう言われれば、父に賛成するほかはないらしかった。
「とにかく東京へ出して勉強はさせてやるつもりだが、文学というのだけはもう一度考え直して見てくれ。お前も七、八人の兄弟の総領なんだからな、医科とか工科とかの将来の確実なものなら、大学へでもやってやるがね。どうも文学じゃ困るな。」
父はまた顔をしかめて首を傾けた。
「でも、せっかくそうときめたことを今すぐ考え直すというわけにも行きますまいし、もう一日二日考えさして見たらどうでしょう。」
母は父にそう言ってなお僕にも附けたして言った。
「お父さんも東京へ出してやるとおっしゃるんだから、今晩はもうこれで室へ帰って、もっとよく考えて見てごらん。」
僕はそれでもう僕の目的の七、八分は達したものと思って喜んで室に帰った。
その翌日は、たぶん父に頼まれたのだろうと思うが、医学士で軍医の平賀というのが来て、しきりに医者になれと勧めて行った。これは子供の時から僕が始終世話になっている医者で、幼年学校の入学試験の時にも僕の目の悪いのを強いて合格にしてくれた人だった。が、僕にはどうしても医者になる気はなかった。その後外国語学校を出た時にも、今の平民病院長の加治ドクトルが、その息子の時雄君の連れとなってフランスへ行って医学をやったらどうかと勧めてくれたのだが、やはりどうしても医者になる気はなくって断ってしまった。そしてさらにその後、自然科学に興味を持つようになってから、いっそのことあの時に医者になっていればよかったと、時々にそして今でもまだそう思うことがある。
が、そこへ、もう一人、ちょうどいい妥協論者が出てくれた。それは父が大ぶ目をかけていた森岡という若い中尉だった。父はこの中尉にきっと僕のことを相談したに違いなかった。中尉は僕のところに来て、友達のようにして相談に乗ってくれた。
「お父さんはどうしても文学は困ると言うんだが、ほかに何か方法はないものかね。」
中尉はうちの財政上のことからいろんな話をして、僕に再考を求めた。
「そんなら語学校へ行ってもいいんです。」
僕は大学が駄目ならこうという、僕の第二案を打ちあけた。
「それやいい、それならきっとお父さんも賛成する。よし不賛成でも、きっと僕が賛成さして見せる。」
中尉は、僕が語学校と言いだしたので、急に元気づいて賛成した。
当時陸軍では、ことに田舎の軍隊では、再帰熱のように時々起る語学熱が流行っていた。陸軍大学へはいれなくっても、多少語学ができさえすれば、洋行を命ぜられたり要路に就かせられたりして、出世の見込が十分についた。森岡中尉も、やはり幼年学校出身で、フランス語をやっていた。そしてそのフランス語を大成さすべく、しきりに東京へ出て語学校へはいりたがっていたのだ。礼ちゃんの花婿の隅田中尉というのも、これは中学校出身で英語がお得意なので、やはり何とかして東京へ出て語学校へはいりたいと言っていた。父も、以前にはフランス語をやったりドイツ語もやったりしていたが、その頃は新しくまたロシア語をやりだしていた。
そんな時なので、語学校を出れば何になれるのかということなどはごくぼんやりと考えただけで、中尉も[#「中尉も」は底本では「中尉のも」と誤記]父もすぐ僕の第二案に賛成してくれた。が、僕は語学校を出ればすぐ大学の選科にはいれ、その選科からはさらに普通学の試験を受けて本科に移れることをよく承知していたのだった。
とにかく僕はすぐにも上京することを許された。そして自分で元日の朝早く出発することにきめた。
が、この元日には俥屋が行こうと言わないので、仕方なしに翌二日に延ばした。
元日の朝は暖かいいい天気だった。それが昼頃から曇り出して、夕方にはもう霏々として降る大雪の模様になった。その晩の十二時少し過ぎだ。もう三、四尺積もっている雪の中を、僕は橇に乗って二人の俥夫に引かれてうちを出た。
「まあ、あんなに喜んで行く。」
母は一人で玄関のそとまで僕を送りだして、自分もやはり嬉し泣きに泣いていた。
町はずれまではまだよかった。が、町を出るともう橇は一歩も進むことができなかった。俥屋のお神はあらかじめそうと知って、ゆうべの間に一度とめに来たのだ。しかし僕がどうしても聞かないので仕方なしに一番屈強な男を二人選んで寄越したのだが町を出ると、雪ですっかり埋もっている道は、その俥夫の一歩一歩の足を腿まで食いこんだ。そんなことで橇が引けて行けるものではない。それに、橇の上に乗って、僕がその中に坐っている籠は、時々横合いから強い風を受けてひっくり返りそうになる。とうとう俥夫等は立ちどまって、「もうとても駄目です」と言う。
「それじゃ歩いて行こうじゃないか。」と僕は言いだした。「君等の中の一人が真先きに歩くんだ。その足あとを伝って僕が真ん中になって行く。そのあとへまた、君等の中のもう一人が僕の荷物をかついで行く。そして先頭のものとしんがりのものとは時々交代するんだ。僕だって、時には先頭に立ったり、しんがりになって荷物を持ったりしたっていいよ。」
俥夫等はこの提案を喜んだ。
「わしらだって、うちのお神さんや奥様とお約束して、なあに大丈夫でさあって引受けて来たんですからね。今さらとても駄目でしたっておめおめ帰れもしませんよ。」
そして彼等は急いでその橇を近所のどこかへ預けて、僕の言う通りにして歩きだした。
が、道は遠いのだ。北越線の一番近い停車場の新津へ出るのに、新発田からは七、八里あるのだ。そしてその間には、半里も一里もの間家一軒もない、広い野原を幾つも通り抜けなければならんのだ。雪は降る。眼前数歩の先きは何にも見えないほどに、細かい雪がおやみなく降る。降るばかりならまだいい。時々強い風が来ては、足もとの雪を顔に吹きあげる。そんな時には、ただしっかりと踏みとどまって、その風の行ってしまうのを待っているほかはない。そしてまた、ただほかよりは少し小高くなっている道をあてに、一歩一歩腿まで埋まりながら重い雪靴の足を運んで行くのだ。
ちょうど新発田と新津との中間の、水原という町の向うの、一里ばかりの原に通りかかった時には、三人とも疲れと餓えとでへとへとになってしまって、幾度その原の中で倒れかかったか知れなかった。そして五歩歩いては休み十歩歩いては休みして、ようやくその原の真ん中の一軒家に着いた時には、みんなもうまるで死んだもののようだった。
しかし、その一軒家で大きな囲爐裡に火をうんともやして、一時間ほどそのまわりに転がって寝て、そしてあつい粥を七、八はい掻っこんだあとでは、すっかりもとの気分になっていた。
そして夕方近い頃に、一番の汽車に間に合う筈であった新津に、ようやく着くことができた。
東京に着くとすぐ、僕は牛込矢来町の、当時から予備か後備かになっていた退役大尉の、大久保のお父さんを訪ねた。上京のたんびに僕はこの大久保のうちへ遊びに行って、そのすぐ向いに下宿屋のあることを知っていたので、大尉の監督の下にそこへ下宿するように父に申し出てあったのだった。
若松屋というその下宿には、幸いに奥の方に、四畳半の一室があいていた。そして僕は、正月の休みの間に探し歩いた、猿楽町の東京学院へ(今はもうないようだが)、中学校五年級受験科というのにはいって、毎日そこから通うこととなった。そこでは僕は自分の学力の足りないと思った数学や物理化学に特に力を入れて勉強した。そして同時にまた、あるいは四月頃になってからだとも思うが、夜は、その頃四谷の箪笥町に開かれたフランス語学校というのに通った。これは、庄司(先年労働中尉と呼ばれたあの庄司何とか君の親爺さんだ)という陸軍教授が主となって、やはり陸軍教授の安藤(今は早稲田の教授)だの、何とかという高等学校の先生のフランス人だのが始めた学校だった。
こうして僕は、東京に着く早々、何もかも忘れて夜昼ただ夢中になって勉強していた。
が、何よりも僕は、僕にとってのこの最初の自由な生活を楽しんだ。すぐ向いには監督であり保証人である大尉がいるのだが、これはごくお人好の老人で、一度でも僕の室をのぞきに来るでもなし、訓戒らしいことを言うのでもなし、また僕の生活について何一つ聞いて見るというのでもなかった。僕はまったく自由に、ただ僕の考えだけで思うままに行動すればよかったのだ。
東京学院にはいったのも、またフランス語学校にはいったのも、僕は自分の存分一つできめた。そして大尉や父にはただ報告をしただけであった。僕が自分の生活や行動を自分一人だけで勝手にきめたのは、これが初めてであり、そしてその後もずっとこの習慣に従って行った。というよりもむしろだんだんそれを増長させて行った。
僕は幼年学校で、まだほんの子供の時の、学校の先生からも遁れ父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮した新発田の自由な空を思った、その自由が今完全に得られたのだ。東京学院の先生は、生徒が覚えようと覚えまいとそんなことにはちっとも構わずに、ただその教えることだけを教えて行けばいいという風だった。出席しようとしまいと教授時間中にはいって行こうと出て行こうと、居眠りしていようと話していようとそんなことは先生には何の関係もないようだった。そしてフランス語学校の方では、生徒が僕のほかはみな大人だったので、先生と生徒とはまるで友達づき合いだった。一時間の間膝にちゃんと手を置いて、不動の姿勢のまま瞬き一つせずに、先生の顔をにらめている幼年学校と較べればまるで違った世界だった。
僕はただ僕自身にだけ責任を持てばよかったのだ。そして僕はこの自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけただ夢中になっていた。
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