城壁の聖者
その夜、するどくとがった新月が、西空にかかっていた。
ここはバリ港から奥地へ十マイルほどいったセラネ山頂にあるアクチニオ宮殿の廃墟であった。そこには山を切り開いて盆地が作られ、そこに巨大なる大理石材を使って建てた大宮殿があったが、今から二千年ほど前に戦火に焼かれ、砕かれ、そのあとに永い星霜が流れ、自然の力によってすさまじい風化作用が加わり、現在は昼間でもこの廃墟に立てば身ぶるいが出るという荒れかたであった。
しかも今宵は新月がのぼった夜のこととて、崩れた土台やむなしく空を支えている一本の太い柱や首も手もない神像が、冷たく日光を反射しながら、聞えぬ声をふりしぼって泣いているように見えた。
一ぴきの狼が突如として正面に現われ、うしろを振返ったと思うと、さっと城壁のかげにとびこみ、姿を消した。いや、狼ではなく、飢えたる野良犬であったかも知れない。その犬とも狼ともつかないものが振返った方角から、ぼろを頭の上からかぶった男がひとり、散乱した円柱や瓦礫の間を縫って、杖をたよりにとぼとぼと近づいてきた。
彼は、たえず小さい声で、ぼそぼそと呟いていた。
「……しっかり、ついてくるんだよ、わしを見失っては、だめだよ。……もうすぐそこなんだ。多分見つかると思うよ。アクチニオ四十五世さ。新月の夜にかぎって、廃墟の宮殿の大広間に、一統と信者たちを従えて現われ、おごそかな祈りの儀式を新月にささげるのだよ。……隆夫、わしについてきているのだろうね。……そうか。おお、よしよし。もうすこしの辛抱だ。わしはきっとアクチニオ四十五世を探し出さにゃおかない」
と男は、杖をからんからんとならしながら、空に向って話しかける。
彼こそ、隆夫の父親の治明博士であったことはいうまでもない。彼は、奇しきめぐりあいをとげた愛息隆夫のうつろな霊魂をみちびきながら、ようやくこれまで登ってきたのである。
隆夫のたましいは、どこにいる?
彼の姿も形も、まるでくらげを水中にすかして見たようで、はっきりしないが、治明博士の頭上、ややおくれ勝ちに、丸味をもった煙のようなものがふわふわとついて来るのが、それらしい。
博士は、杖を鳴らしながら、廃墟の中を歩きまわった。大円柱が今にもぐらッと倒れて来そうであった。宙にかかったアーチが、今にも頭の上からがらがらどッと崩れ落ちて来そうであった。博士は、そういう危険をものともせず、土台石の山を登り、わずかの間隙をすりぬけて、アクチニオ四十五世たちの祈祷場をなおも探しまわった。どこもここも墓場のようにしずかで、祈りの声も聞えなければ、人の姿も見えなかった。
博士は、泣きたくなる心をおさえつけながらもよろめく足を踏みしめて、なおも廃墟の部屋部屋をたずねてまわるのだった。
「あ、あそこだ!」
とつぜん博士は身体をしゃちこばらせた。博士は目をあげて見た。そこは西に面した高い城壁の上であったが、あわい月光の下、人影とおぼしきものが数十体、まるで将棋の駒をおいたように並んでいるのであった。
だが、誰一人として動かない。何の声も聞えて来ない。明かり一つ見えない。
それでも、それがアクチニオ四十五世の一団であることを認めた。博士は急に元気づき、その方へ足を早めていった。博士は、間もなく高い壁に行方を阻まれた。が博士は、すこしもひるむことなく、城壁の崩れかけた斜面に足をかけ手をおいて、登りだした。
時間は分らないが、やっと博士は城壁を登り切った。二時間かかったようでもあり、三十分しかかからなかったようでもあった。
「ああ……」
博士は眼前にひらける厳粛なる光景にうたれて、足がすくんだ。
城壁の上の広場に、約四五十人の人々が、しずかに月に向って、無言の祈をささげている。一段高い壇の上に、新月を頭上に架けたように仰いで、ただひとり祈る白衣の人物こそ、アクチニオ四十五世にちがいなかった。
博士は、すぐにも聖者の足許に駆けよって、彼の願い事を訴えるつもりであったが、それは出来なかった。足がすくみ、目がくらみ、動悸が高鳴って、博士はもう一歩も前進をすることが出来なかったのである。
博士は石床の上にかけて、化石になったように動かなかった。それから幾時間も動くこともできず、博士はそのままの形でいた。博士は気を失っていたのでも、睡っていたのでもない。博士はその間その姿勢ではとても見ることのできないはずの、聖なる新月の神々しい姿を心眼の中にとらえて、しっかりと拝んでいたのだ。
風が土砂をふきとばし、博士の襟元にざらざらとはいって来た。どこかで鉦の音がするようだ。
「顔をあげたがよい」
さわやかな声が、博士の前にひびいた。
はっと、博士は顔をあげた。
「あ、あなたはアクチニオ四十五世!」
ロザレの遺骸
いつの間にか、聖者は博士の前に近く立っていた。ふしぎである。博士は、自分の現在の居場所を知るために、あたりに目を走らせた。依然として、同じ城壁の上に居るのであった。だが、アクチニオ四十五世のうしろに並んで新月を拝んでいた同形の修行者たちはただの一人も見えなかった。残っているのは、聖者ただひとりであった。
「ああ、聖者……」
「分っている。わしについて来れ」
聖者は博士の願いについて一言も聞かず、自分のうしろに従い来れといったのだ。博士は、奇蹟に目をみはりながら、石床をけって立った。聖者は気高く後姿を見せて、しずかに歩む。博士はその姿を見失うまいとして、後を追っていった。そのとき気がついたことは、新月は既に西の地平線に落ちて、あたりは濃い闇の中にあったことである。しかもふしぎに、聖者の後姿と、通り路とは、はっきり博士の目に見えているのだった。
博士は聖者アクチニオ四十五世について城壁の上をずんずんと歩いていくうちに、いつしかトンネルの中にはいっているのに気がついた。うす暗い、そして奥が知れない、気味のわるいトンネルであった。トンネルの道は、自然に下り坂になって、今歩いているところは既に地下へもぐってしまったらしく、ぷーンとかびくさい。
どこからともなく、黄いろのうす明りがさし、トンネルの中の有様を見せてくれる。トンネル内は、通路が主であるが、ところどころそれが左右へひろげられて大小の部屋になっていた。そしてその部屋には、土や石で築いた寝台のようなものがあり、壁にはさまざまの浮き彫りで、絵画や模様らしきものや不可解な古代文字のようなものが刻まれてあった。
聖者はずんずんと奥へはいっていったが、そのうちに、一つの大きな丸い部屋のまん中に見えているりっぱな大理石の階段を下りていった。博士も、もちろんあとに従った。
「あ……」
博士は、階段を途中まで下りて、その下に見えて来た地下房の異様な光景に思わずおどろきの声を発した。
そこには、意外にも、たくさんの人が集っていた。そのほとんど皆が、壁にもたれて立っていた。みんなやせていた。そして燻製の鮭のように褐色がかっていた。
既に下り切っていた聖者が、治明博士の方へふり向いて、早く下りて来るようにとさし招いた。
今は、博士は恐ろしさも忘れ、下りていった。
聖者アクチニオ四十五世は、自分の前において、壁にもたれているミイラのような人間を指し、
「わが弟子たりしロザレの遺骸である。これを汝にしばらく貸し与える」
「えっ、この人を――この遺骸をお貸し下さるとは……」
と、治明博士は、問いかえした。
「今、ロザレの霊魂は他出している。されば後、ロザレの遺骸に汝の子の隆夫のたましいを住まわせるがよい」
「あ、なるほど。すると、どうなりますか……」
「生きかえりたるロザレを伴い、汝は帰国するのだ。それから先のことは、汝の胸中に自ら策がわいて来るであろう。とにかくわれは、汝ら三名の平安のために、今より呪文を結ぶであろう。しばらく、それに控えていよ」
「ははッ」
治明博士は、アクチニオ四十五世の神秘な声に威圧せられて、はッと、それにひれ伏した。
聖者は、不可解なことばでもって、ロザレの遺骸に向って呪文を唱えはじめた。呪文の意味はわからないが、治明博士は、自分の身体の関節が、ふしぎにもぎしぎしときしむのに気がついた。
(汝ら三名の平安のために――と、聖者はいわれた。汝ら三名とは、いったい誰々のことであろう)と、治明博士は、ふと謎のことばを思い出していた。自分と、それから――そうだ、隆夫のことだ。隆夫は、どうしているであろうか。さっき城壁の上に聖者の姿を拝してから、自分の心は完全に聖者のことでいっぱいとなって、隆夫がついて来ているかどうかを確めることを怠っていた。隆夫はどうしているだろうか。――いやいや、万事は、聖者が心得ていて下さるのだ。尊き呪文がなされているその最中に、他の事を思いわずらっては、聖者に対し無礼となるのは分り切っている。慎まねばならない。
呪文の最後のことばが、高らかに聖者の口から唱えられ、そのために、この部屋全体が異様な響をたて、それに和して、何百人何千人とも知れない亡霊の祈りの声が聞えたように思った。治明博士は、気が遠くなった。
「これ、起きよ、目ざめよ。旅の用意は、すべてととのった。これ一畑治明。汝の供は、既に待っているぞ。早々、連れ立って、港へ行け」
聖者の声は、澄みわたって響いた。治明博士ははっと気がついて、むくむくと起上ると、あたりを見まわした。
そこは、はじめ登っていた域壁の上であった。夜は既に去り、東の空が白んでいた。そこに立っているのは治明博士ただひとり……いやもう一人の人物がいた。
「君は」
と、治明博士は、横に立っていた褐色の皮膚を持った痩せた男へおどろきの目を向けた。どこかで見た顔ではあるが……。
「お父さん、ぼくですよ。隆夫ですよ。ぼくは、さっきから、このとおりロザレの肉体を貸してもらっているのです。これで元気になりましたから、早く戻ることにしようよ」
と、そのミイラの如き人物は、博士に向ってなつかしげに話しかけたのであった。
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