ここは何処
ここまで書いてくると、賢明なる読者は、怪しい隆夫のふるまいのうしろに何が有るかを、もはや察せられたことであろう。
そのとおりである。
名津子を見舞に来た隆夫は、その肉体はたしかに隆夫にちがいないが、その肉体を支配している霊魂は、隆夫の霊魂ではないのだ。それは例の霊魂第十号なのである。
前夜隆夫は、とつぜん霊魂第十号の訪問をうけ、そして肉体を半年ほど借りたいから承知をしろと申入れられた。隆夫は、それをことわった。すると隆夫は、とつぜん首をしめられ、人事不省に陥ったのだ。
その直後、どういう手段によったものか分らないが、隆夫の肉体から隆夫の霊魂が追い出され、それにかわって霊魂第十号がはいりこんだのである。まさにこれはギャング的霊魂だといわなくてはならない。
とにかくこんなわけだから、翌日隆夫が三木家をたずねたとき、とんちんかんのことばかりいい、家人から不審をかけられたのだ。つまり第十号としては、隆夫の霊魂に入れ替ったものの、すべて隆夫のとおりをまねることはできなかったし、また隆夫の記憶や思想をうまく取り入れることは一層むずかしかった。
だが、第十号としては、すこしぐらい人々から怪しまれることは、がまんするつもりだった。それよりも、彼がねらっていることは、名津子に近づくことだった。名津子の霊魂にぴったり寄りそっていたいばかりに、彼はこの思い切った行動を起したのだ。しかしながら、彼の筋書どおりに、万事がうまくいくかどうか、それはまだ分らない。
それはそれとして、一方、霊魂第十号のために肉体から追い出された隆夫の霊魂は、一体どうなったのであろうか。
彼の霊魂は、肉体と同じに、一時もうろう状態に陥っていた。いや、時間的にいえば、肉体の場合よりもはるかに永い間にわたってもうろう状態をつづけていた。第十号が、彼の肉体にはいりこんで、三木健の家を訪問してぺちゃくちゃしゃべっているときにも、隆夫の霊魂は、まだもうろうとして、はてしなき空間をふわついていた。
彼のたましいが、われにかえったのは、それから十四日ののちのことだった。
たましいが、われにかえるというのは、おかしないい方であるが、肉体の中にはいっているときでも、たましいというやつは、よく死んだようになったり、生きかえったりするものである。ねむりと目ざめ。不安におちいることと大自信にもえること。人事不省と覚醒。酔っぱらいと酔いざめ。そのほか、いろいろとあるが、このようにたましいというやつは、いつも敏感で、おどおどしており、そして自分からでも、また他からの刺戟によっても、すぐ簡単に状態を変える。
とにかく、彼のたましいがわれにかえったとき、「おやおや」と起きあがってあたりを見まわすと、見なれないところへ来ていることが分った。
そこは、枯草がうず高くつんであるすばらしく暖かな日なただった。ゆらゆらと、かげろうが燃え立っていた。その中に、隆夫の霊魂は立っているのだった。彼の霊魂も、かげろうと同じように、ゆらゆら動いているような気がした。
前方を見ると、美しい大根畑が遠くまでひろがっていた。まるでゴッホの絵のようであった。
うしろの方で、モーという牛の声がした。うしろには小屋が並んでいた。そのどれかが牛小屋になっているらしい。
かたかたかたと、いやに機械的なひびきが聞えてきた。ずっと西の方にあたる。その方へ隆夫の霊魂はのびあがった。トラクターが動いているのだった。土地を耕している。それは遥かな遠方だった。
「広いところだなあ。一体ここはどこかしらん」
すると、彼の前へ、とつぜんパイプをくわえ、肩に鍬をかついだ農夫が姿をあらわした。そして農夫の顔を見たとき、隆夫のたましいは、あっとおどろいた。
「ややッ、ここは日本じゃないらしい」
農夫は白人だった。
白人の農夫がいるところは、日本にはない。しばらくすると、小屋のうしろから、若い女の笑い声が聞えて、隆夫のたましいの前へとび出して来たのは、三人の、目の青い、そして金髪やブロンドの娘たちだった。
「たしかにここは日本ではない。外国だ。どうして外国へなど来てしまったんだろう」
そのわけは分らなかった。
隆夫のたましいは、農夫たちの会話を聞いて、それによってここがどこであるかを知ろうとつとめた。彼らの話しているのは、外国語であった。それはドイツ語でもなく、スラブ語でもなかったが、それにどこか似ていた。ことばとしては、隆夫はそれを解釈する知識がなかったけれど、幸いというか、隆夫は今たましいの状態にいるので、彼ら異国人の話すことばの意味だけは分った。
そして、ついにこの場所がどこであるかという見当がついてきた。それによると、ここはバルカン半島のどこかで、そして割合にイタリアに近いところのように思われる。ユーゴスラビア国ではないかしらん。もしそうなら、アドリア海をへだててイタリアの東岸に向きあっているはずだった。
どうしてこんなところへ来てしまったんだろう。
霊魂の旅行
だんだん日がたつにつれ、隆夫のたましいは、たましい慣れがしてきた。はじめは、どうなることかと思ったが、たましいだけで暮していると、案外気楽なものであった。第一食事をする必要もないし、交通禍を心配しないで思うところへとんで行けるし、寒さ暑さのことで衣服の厚さを加減しなくてもよかった。そして、睡りたいときに睡り、聞きたいときに人の話を聞き、うまそうな料理や、かわいい女の子が見つかれば、誰に追いたてられることもなく、いく時間でもそのそばにへばりついていられた。もっとも、そのうまそうな御馳走を味わうことは、たましいには出来なかったが……。
そういうわけで、隆夫のたましいは、一時東京の家のことや母親のことや、それから友だちのことなどもすっかり忘れて、気軽なたましいの生活をたのしんでいた。
いつも寝起きしていた枯草の山が、トラックの上へ移しのせられ、どこかへはこばれていく。それを見た隆夫のたましいは、いっしょにそのトラックに乗って行ってみようと思った。
その日は、天気が下り坂になって来て風さえ出て来たので、農夫たちは急いで枯草を車へのせ、その上をロープでしっかりしばりつけた。それから荷主の農夫が、パイプをくわえたまま、トラックの運転手にいった。
「とにかくカッタロの町へはいったら、海岸通のヘクタ貿易商会はどこだと聞けば、すぐに道を教えてくれるからね」
「あいよ。うまくやってくるよ」
トラックは走りだした。
隆夫のたましいは、枯草の中へ深くもぐりこんで、しばらく睡ることにした。車が停ったら、起きて出ればよいのだ。そのときはカッタロの町とかへ、ついているはずだ。
たましいは、ぐっすり寝こんだ。
運転手の大きな声で、目がさめた。枯草をかきわけて出てみると、なるほど町へついていた。古風な町である。が、町の向うに青い海が見える。港町だ。
港内には、大小の汽船が七八隻碇泊している。西日が、汽船の白い腹へ、かんかんとあたっている。
トラックが、また走りだした。
港の方を向いて走る。隆夫のたましいは、車上からこの町をめずらしく、おもしろく見物した。革命と戦火にたびたび荒されたはずのこの港町は、どういうわけか、どこにも被害のあとが見られなかった。そしてどこか東洋人に似た顔だちを持った市民たちは、天国に住んでいるように晴れやかに哄笑し微笑し空をあおぎ手をふって合図をしていた。婦人たちの服装も、赤や緑や黄のあざやかな色の布や毛糸を身につけて、お祭の日のように見えた。
そのうちにトラックは、海岸通へ走りこんで、ヘクタ貿易商会の前に停った。枯草は、この商会が買い取るらしい。そのような取引を、隆夫のたましいは見守っていたくはなかった。彼は、今しも岸壁をはなれて出港するらしい一隻の汽船に、気をひかれた。
彼は燕のように飛んで、その汽船のマストの上にとびついた。ゼリア号というのが、この汽船の名だった。五百トンもない小貨物船であった。
それでも岸壁には、手をこっちへ振っている見送り人があった。船員たちが、ハンドレールにつかまって、帽子をふって、岸壁へこたえている。煙突のかげからコックが顔を出して、ハンカチをふっている。隆夫のたましいが、つかまっているマストの綱ばしごにも、二三人の水夫がのぼって、帽子を丸くふっていた。かもめでもあろうか、白い鳥がしきりに飛び交っている。その仲間の中には、隆夫のたましいのそばまで飛んできて、つきあたりそうになるのもいた。
「港外まで出ないと、ごちそうを捨ててくれないよ」
「早く捨ててくれるといいなあ。ぼくは腹がへっているんだ」
かもめは、そんなことをいいながら、この汽船が海へ捨てるはずの調理室の残りかすを待ちこがれていた。
隆夫のたましいは、久しぶりにひろびろとした海を見、潮のにおいをかいで、すっかりうれしくなり、いつまでも眺めていた。白い航跡が消えて、元のウルトラマリン色の青い海にかえるところあたりに、執念ぶかくついてきた白いかもめが五六羽、しきりに円を描いては、漂流するごちそうめがけて、まい下りるのが見られた。
船の舳が向いている方に、ぼんやりと雲か島か分らないものが見えていたが、それは陸地だと分った。左右にずっとのびている。そうだ、あれだ、イタリア半島なのだ。するとこの船はイタリア半島のどこかの港にはいるのにちがいない。一体どこにつくのだろうか。
隆夫のたましいは、もうすっかり大胆になっていたので、マストをはなれて下におりてきた。
そして船橋へとびこんだ。そこには船長と運転士と操舵手の三人がいたが、誰も隆夫のたましいがそこにはいってきたことに気のつく者はいなかった。
その運転士が、航海日記をひろげて、何か書きこんでいるので、そばへ行って見た。その結果、この汽船は、対岸のバリ港へ入るのだと分った。
やがてバリ港が見えてきた。
小さな新興の港だ。カッタロ港とは全然おもむきのちがった港だった。そのかわり、町をうずめている家々は、見るからに安普請のものばかりであった。戦乱の途中で、ここを港にする必要が出来て、こんなものが出来上ったらしい。殺風景で、いい感じはしなかった。
入港がまだ終らないうちに、隆夫のたましいは汽船ゼリア号に訣別をし、風のように海の上をとび越えて、海岸へ下りた。
不潔きわまる場所だった。見すぼらしい人たちが、蝿の群のように倉庫の日なたの側に集っている。隆夫のたましいは、ぺッと唾をはきたいくらいだったが、それをがまんして、ともかくも彼らの様子をよく拝見するために、その方へ近づいていった。
一人の男が、ぼろを頭の上からまとって棕梠の木にもたれて、ふところの奥の方をぼりぼりかいていた。隆夫のたましいは、その男の顔を見たとき、
「おやッ」
と思った。どこかで見た顔であった。
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