公開実験の日
ある日、治明博士は、困った顔になって、電波小屋へはいって来た。
レザール聖者――実は隆夫のたましいは、待ちかねていたという風に椅子から立上ってきて、父親を迎えた。
「困ったことになったよ、隆夫」
治明博士は、まゆをひそめて、すぐその話を始めた。
「どうしたのですか、お父さん」
「わしはお前を救うために、こうして日本へ帰って来たんだ。ところが、わしが帰って来たことが広く報道されたため、わしは今方々から講演をしてくれと責められて断るのによわっている」
「断れば、ぜひ講演しろとはいわないでしょう」
「それはそうだが、中にはどうにも断り切れないのがある。心霊学会のがそれだ。あそこからは洋行の費用ももらっている。それにお前のことがもう大した評判なんだ。いや、お前というよりも、聖者レザール氏をわしが連れて来たということが大評判なんだ。ぜひその講演会で、術をやってみせてくれとの頼みだ。これにはよわっちまった」
「それは困りましたね。ぼくには何の術も出来ませんしねえ」
親子はしばらく黙って下を向いていた。やがて治明博士がいいにくそうに口を開いた。
「どうだろうなあ、心霊学会だけに出るということに譲歩して、一つ出てもらえないかしらん」
「出てくれって、ぼくに何をしろとおっしゃるのですか、お父さん」
隆夫のたましいはおどろいて問い返した。
「何もしなくていいんだ。ただ、舞台に出て目を閉じてじっとしていてもらえばいい。何をいわれても、はじめからしまいまで黙っていてもらえばいいんだ。それならお前にもできるだろう」
「それならやれますが、しかしそれでは聴衆が承知しないでしょう。ぼくばかりか、お父さんもひどい攻撃をうけるにきまっていますよ」
「うん。しかしそのところはうまくやるつもりだ。お父さんもやりたくないんだが、心霊学会ばかりは義理があってね、どうにも断りきれないのだ。お前もがまんしておくれ」
こんなわけで、隆夫のたましいは、はじめて公開の席に出ることになった。彼は不安でならなかった。が、「はじめからしまいまで黙っていればいいんだ」という父親との約束を頼みにした。
一畑治明博士の帰国第一声講演及び心霊実験会――という予告が、心霊学会の会員に行きわたり、会員たちを昂奮させた。新聞社でもこの治明博士の帰国第一声を重視して紙上に報道した。だから会場は当日、会員以外に多数の傍聴人が集り、五千人の座席が満員になってしまった。
治明博士の講演は「ヨーロッパに於ける心霊研究の近況」というので、博士が身を多難にさらして、各地をめぐり、心霊学者や行者に会い、親しく見聞し、あるいは共に研究したところについて概略をのべた。それによると、心霊の実在と、それが肉体の死後にも独立に存在すること、そして心霊と肉体とがいっしょになっている、いわゆる生存中も霊魂と肉体との分離が可能であると信ぜられているそうである。更に博士は、一歩深く進んで心霊世界のあらましについて紹介した。
聴衆は熱心に聴講した。会員たちはもちろんのこと、傍聴人たちも深く興味をおぼえたらしい、講演後の質問は整理に困るほど多かった。しかし時間が限られているので、それをあるところで打切って、いよいよ聖者レザール氏をこの舞台へ招くことになった。来会者一同は、嵐のような拍手をもっていよいよ始まる心霊実験に大関心を示した。
治明博士は、聖者を迎える前に、レザール氏の身柄と業績について述べた。これは実は博士のデタラメが交っていたが、一部分はアクチニオ四十五世の下に集っている行者団のことを述べたので、かなり実感のある話として聴衆の胸にひびいた。
舞台には、このとき聖壇が設けられた。白い布で被い、うしろには衝立がおかれ、それには奇怪なる刺繍絵がかけられた。これは治明博士があちらで手に入れたもので、多分イランあたりで作られたらしい豪華なものである。それからその前に、法王の椅子が置かれた。
そのとき舞台の裏で、奇妙な調子の楽器が奏しはじめられた。東洋風の管楽器の集合のようであった。それは音色が高からず低からず、そしてしずかに続いてやむことがなく、聴きいっているうちにだんだん自分のたましいがぬけ出していくような不安さえ湧いて来るのであった。
いったん退場した治明博士が、再び舞台へ現われた。しずかな足取り、敬虔な面持で歩をはこんでいる。と、そのあとから聖者レザール氏の長身が現われた。僧正服とアラビア人の服とをごっちゃにしたような寛衣をひっかけ、頭部には白いきれをすっぽりかぶり、粛々と進んで、聖壇にのぼり、椅子に腰を下ろした。聴衆の間からは、溜め息が聞えた。つづいて嵐のような拍手が起ったが、聖者はそれに答えるでもなく、席についたまま石のように動かず、目を閉じたまま、ただ、とび出た高い鼻を、かぶりものの布がかるく叩いていた。どこからか風が舞台へ吹いて来るものと見える。
さて、いよいよこれより治明博士一世一代の大芝居が始まることになった。果してうまく行くかどうか、千番に一番のかねあいだ。
奇蹟起る
もう度胸をきめている治明博士だった。彼はまず聴衆に向って、これより聖者レザール氏をわずらわして心霊実験を行うとアナウンスし、
「但し、聖者のおつとめはかなり忙しく、こうしているうちにも多数の心霊の訪問を受けて一々応待しなければならないので、只今すぐに実験をお願いして、即座にそれが諸君の前に行われるかどうか疑問である。聖者のおつとめの合間をつかむことができたら、諸君は運よく実験を見ることができるわけだ。その点よく御了解を得たい」
と、巧みにことわりを述べて、伏線とした。
「それでは、まず第一番として、聖者にお願いして、私の肉体と私の霊魂とを分離して頂くことにします」
博士はついに、こういって、実験を始めたのである。これは実は、博士が修業によって会得して来た術であって、なにも聖者をわずらわさなくとも、博士ひとりで出来ることであった。博士としては、これだけは確実に来会者をはっきりおどろかせることが出来る自信があり、これさえ成功するなら、あとの実験はたとえことごとく失敗に終っても、申訳がつくと考えていた。
そこで博士は、うやうやしく壇の前にいって礼拝をし、それから立上った。博士の考えでは、それから聖者に後向きとなって聴衆の方を向いて座し、それから肉体と心霊の分離術に入るつもりだった。
ところが、博士の思ってもいないことが、そのときに起った。
というのは、壇上の聖者レザールが、博士に向って手を振りだしたのである。
「汝は下がれ。あちらに下がれ」
レザールは舞台の下手を指した。
博士はおどろいた。隆夫がなにをいい出したやらと、びっくりした。しかも「汝は下がれ」といったのはギリシア語だったではないか。隆夫がギリシア語を知っているとは今まで思ったこともなかった。
「お前は、だまって、じっと黙っているがいいよ。あとはわしがうまくやるから」
と、治明博士は近づいて、それをいおうとしたのだ。ところがどうしたわけか、博士は声が出せなかった。そして全身がかッとなり、じめじめと汗がわき出でた。
「汝は、しずかに、見ているがよい」
レザールは重ねていった。
と、博士は何者かに両脇から抱えあげられたようになり、自分の心に反して、ふらふらと舞台を下手へ下がっていった。そしてそこにおいてあった椅子の一つへ、腰を下ろしてしまった。
来会者席からは、しわぶき一つ聞えなかった。みんな緊張の絶頂にあったのだ。誰もみな――治明博士だけは例外として――聖者レザールが厳粛な心霊実験を始めたのだと思っていたのだ。このとき、舞台裏で、例の奇妙な楽器が鳴りだした。恨むような、泣くような、腸の千切れるような哀調をおびた楽の音であった。来会者の中には、首すじがぞっと寒くなり、思わず襟をかきあわす者もいた。
今や場内は異様な妖気に包まれてしまった。これが東京のまん中であるとは、どうしても考えられなかった。
そのとき、来会者がざわめいた。
階下の正面の席から、ぬっと立ち上った青年がいた。その青年は、ふらふらと前に歩きだしたのだ。近くの席の者は見た。その青年の目は閉じていたことを。
青年はまっすぐに歩きつづけたので、ついに舞台の下まで行きついた。そこで行きどまりとなったと思ったら、青年の身体がすーッと煙のように上にのぼった。あれよあれよと見るうちに、青年は舞台の上に自分の足をつけていた。
来会者席は、ふたたび氷のような静けさに返った。今見たふしぎな現象について、適確な解釈を持つひまもなく、次の奇蹟が待たれるのであった。かの青年は、亡霊の如くすり足をして、聖者の席に近づきつつあった。
このときの治明博士の焦燥と驚愕とは、たとえるもののないほどはげしかった。彼は席から立って、舞台のまん中へとんでいきたかった。だが、どういうわけか、彼の全身はしびれてしまって、立つことができなかった。そのうちに彼は、重大な発見に、卒倒しそうになった。というのは、客席から夢遊病者のようにふらふらと舞台へあがって来た青年こそ、隆夫にそっくりの人物だったからだ。
「これはことによると、えらいさわぎをひき起すことになるぞ」
治明博士は青くなって、舞台を見入った。
隆夫に似た青年は、ついに聖者の前に棒立ちになった。
すると聖者はやおら椅子から立上った。そして両手をしずかに肩のところまであげたかと思うと、両眼をかッと見開いて、自分の前の青年をはったとにらみつけ、
「けけッけッけ」
と、鳥の啼声のような声をたてた。
そのとき来会者たちは、聖壇の上に、無声の火花のようなものがとんだように思ったということだ。が、それはそれとして、聖者ににらみつけられた青年は、大風に吹きとばされたようにうしろへよろめいた。そしてやっと踏み止ったかと思うと、これまた奇妙な声をたて、そしてその場にぱったりと倒れてしまった。
奇蹟はまだつづいた。このとき聖者の身体から、絢爛たる着衣がするすると下に落ちた。と、聖者の肉体がむき出しに出た。が、それは黄いろく乾からびた貧弱きわまる身体であった。聖者の顔も一変して、猿の骸骨のようになっていた。聖者の身体はすーッと宙に浮いた。と見る間に、聖者の身体は瞬間金色に輝いた。が、その直後、聖者の身体は煙のように消え失せてしまった。
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