死線を越える時
天井の鉄格子の間から下を見下ろしていた帆村探偵は
「失敗った!」
と叫んだ。首領「右足のない梟」は帆村がひそんでいることに気がついたらしい。ではどうする?
帆村は咄嗟に決心を定めた。彼は鉄格子に手をかけると、エイッと叫んでそれを外した。そして躊躇するところなく、両足から先に入れ、ズルズルと身体をぶらさげ、ヒラリと下の部屋に飛び下りた。無謀といえば無謀だったが、戦闘の妙諦はまず敵の機先を制することにあった。それに帆村は既に空気管の中の模様を見極めているので、この上その中に潜入していることが彼のために利益をもたらすものではないという判断をつけていたからだった。
「ヤッ……」
帆村は四角い卓の死角を利用して、その蔭にとびこんだ。二人の敵はこの大胆な振舞に嚥まれてしまって、ちょっと手を下す術も知らないもののようだったが、帆村が隠れると同時に内ポケットから拳銃をスルリと抜いて、ポンポンと猛射を始めた。狭い室内はたちまち硝煙のために煙幕を張ったようになり、覘う帆村の姿が何処にあるかを確かめかねた。
もちろん帆村はその機会を逃がしてはならぬと思った。しかし室を抜け出すには生憎彼の位置が入口より遠い奥にあるので、たいへん勝手が悪い。といって愚図愚図していると更に不利になるので、彼は遂に肉弾戦に訴えることにした。まず割合近くにいる「右足のない梟」を覘うことにし、射撃の間隙を数えながら、ここぞと思うところで、真っしぐらに突撃した。敵は帆村が手許にとびこんできたのにハッと狼狽して拳銃をとりなおそうとする一刹那、
「エイッ、――」
と叫んで帆村はムズと相手の内懐に組みついた。
「うぬ、日本人め!」
と「右足のない梟」は叫んで、大力を利用してふり放そうとするが、帆村は死を賭して喰い下った。
「折れた紫陽花――早く射撃するのだ。この日本人を生きて出してはいかぬ。構わぬから僕を撃つつもりで猛射したまえ」
「そいつは……」
「いいから撃て! 祖国のためだ、われわれの名誉のためだ、早く撃て!」
敵ながら天晴なことをいった。流石は首領として名ある人物だけのことはあった。――B首領の「折れた紫陽花」は決心をしたものか、その返事の代りに、ズドンズドンと拳銃の銃口を、組みあった二人の方に向けた。
「あッ、――うぬッ」
帆村は低く呻って歯をギリギリと噛みあわせた。左の腕に、錐をつきこんだような疼痛を感じた。
「やられた!――」
と、その次に叫んだのは「右足のない梟」だった。二人の敵味方は、組み合ったままドウとその場に倒れた。
「折れた紫陽花」はこれを見るより早く、バラバラと二人のところへ駈けつけた。
「よォし、いま日本人をやっつける……」
そういって彼は拳銃の口を下に向けた。帆村は撃たさすまいと思って、組み合ったまま其の場にゴロゴロ転がっている。しかし運悪く、股のところを倒れた椅子に挟んでしまった。
「し、失敗った!」
もう身動きがならぬ。さあ、その次は、敵の拳銃の的になるばかりだ。
「折れた紫陽花」はニヤリと意地わるい笑みを浮べると、重い拳銃の口を帆村の背中に擬した。あッ、危い!
その一刹那のことであった。何者とも知れず、覆面の怪漢が砲弾のように飛込んできた。
「待てッ――」
と大喝したその太い声は、いまや引金を引こうとする「折れた紫陽花」の精神を乱すのに充分だった。声にのまれて思わずハッとするところへ、右手が後へねじられて、手首がピーンと痺れた。ゴトリと向うの壁際で鳴ったのは彼の手首を離れて飛んでいった拳銃だったろう。
一体何者だ?
帆村が意外の出来ごとに面喰らっているところへ、怪漢は飛びこんで来た、そして彼の身体を「右足のない梟」から引離すと、そのまま肩に引き担いで、飛鳥のように室を飛び出した。そして入口の扉をピタリと鎖し、ピーンと鍵をかけた。
帆村を背負った怪漢は何処へゆく?
漫画の暗号
怪漢の肩に担がれた探偵帆村は、多量の出血のために頭がボンヤリしていた。ときどき頭が柱か壁のようなものにドカンと衝突すると、ハッと気がつくのであった。あるときは階段をガタガタ駈けのぼっているようだし、あるときは狭いトンネルのような中をすれすれに潜りぬけていたようだった。それ等はほんの瞬間の記憶だけで、あとはまた精神が朦朧としてしまって覚えがない。
「さあ、もう大丈夫!」
そういう声がして、彼はドンと地上に下ろされたところで、再び意識が戻った。たいへんに冷い土の上であった。ピューピューと寒い風が吹きつけるので、彼はワナワナと慄えだした。
「さあ、もう安全なところまで来ましたよ、帆村さん」そういって怪漢は、帆村の破れた服をソッと合わせながら、
「さあ、それでは私はお暇しますよ。では」
「待って下さい」
と帆村は苦痛を怺えながら叫んだ。
「き、君は誰です、僕を助けて下すって……」
「いいえ、お礼はいりませんよ。私は貴方に助けてもらったことがあるので、ちょっと御恩がえしをしただけです。そういえばお分りでしょう」
「分らない、誰!」
「誰でもいいじゃありませんか。私はすぐ姿を隠さねばなりません。――」
「ちょ、ちょっと待って」
と云って帆村は半身を起しかけたが、「あッ痛い」と、またもや地上にゴトリと倒れてしまった。そして昏々として睡ってしまった。
それから後、どの位の時間が流れたかしれない。帆村が再び正気にかえったときにはあたりはもうかなり明るかった。彼は元気を盛りかえして身を起した。激しい疼痛が、彼の神経をチクリチクリと刺戟したが、歯を喰いしばって地上に坐りなおした。――どうやら此処は、大きなビルディングの地下室へ降りる石階段の下であるらしい。どうしてこれを地面と感じたのか、一向にわからない。
不図見ると、いつの間にして呉れたのか、左腕には白い繃帯が厚く厚く巻いてあった。そして脱げた靴が片っ方だけ転がっていた。いやその傍にもう一つ黒いものが転がっていた。それは防弾チョッキだった。それには見覚えがあった。これは確か、最初地下室に忍びこんだときに、既に射殺されようとした猿使いの団員「赤毛のゴリラ」に与えて一命を救ってやったものだった。してみると……、
「うんそうだ。――僕を救い出してくれたのは、『赤毛のゴリラ』だったんだな」
「赤毛のゴリラ」だったら、もっといろいろ尋ねたいことがあったのに……。彼は昨夜の出来ごとを始め、この何日か密偵団の巣窟で起ったことをそれからそれへと、まるで継ぎはぎだらけの映画をうつし出すように想いだしたのであった。
「そういえば、たしか密書を奪ったつもりだったが、あれはどうしたろう?」
帆村はハッと胸を躍らせながら、両手をいそがしくポケットからポケットに走らせた。
「うむ、あったぞ!」
彼は思わず大声をあげた。右のズボンのポケットから出て来たのは、皺くちゃになった折り畳んだ西洋紙だった。
「これだこれだ」
彼は躍りあがりながら、紙片を拡げてみた。そこには最初に空気管の中で確かめたのと同じく、漫画風の変な恰好の水兵が、パクパクとパイプをくゆらせている画がついていた。
「なんだ。これは漫画じゃないか?」
密書と思いきや、こんな無邪気な漫画水兵であるとは……。彼は大きい失望を感じながら、なおも紙面を見つめていたが……、
「おお、これは変なところがあるぞ!」
と、突然呻りだした。
「そうだ、これは一種の暗号で、隠し文字法といわれるものだ。いろんな文字が隠してあるのが見える。ハテこの水兵の胴と脚とはRという字に似ているぞ。おやおや、この靴を見ると、変な形になっているぞ、右がEの字で、左の足はどうやらZらしい。このパイプの煙も妙な形をしている。……これは面白い」
帆村は重傷の事も、あたりが急に明るくなって、このビルディングの小使がゴトゴトと起きだしたことも気がつかない様子で、画面の中から暗号を拾いあげて、いろいろと組み合わせていたが、やがて遂に叫んだ!
「うん、とけたらしい。――八日、デジネフ、ピー、アール、ウェールスか!」
はて、どうしてそんな事になるのであろうか?
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