戯れ画か密書か?
「ウン、占めたぞ!」
帆村は元気を盛りかえした。穴の縁に手をかけると、ヒラリと飛び上った。そこはやはり孔の中であった。横に伸びた同じような穴だった。しかし今までの穴とは違い、なんとなく、娑婆に近くなったことが感ぜられた。
そこで彼は、何か物音でも聞えるかと、全身の神経を耳に集めて、あたりを窺った。すると、微かではあるが何処からともなく、ボソボソと話し声が聞えてくるではないか。彼の勇気は百倍した。
飛んでもゆきたいところを、帆村は敵に悟られないように注意をして、芋虫のようにソロリソロリとその方向に進んでいった。空気管は、やがてグルリと右へ曲っていたがその角を曲ると、彼は、
「ウム……」
と呻って、石のように固くなった。五メートルと離れないところに、鉄管の一部が明り窓のように黄色く輝いているのだった。よく見ると、それはさっき彼が押し上げたのと同じような円い鉄格子が嵌って居り、そして下から光がさしているのだった。
帆村は再び耳を澄ました。さきほどまで確かに聞えていたと思った話声はもう聞えない。だがどうやら、あの輝く鉄格子の下に部屋があるらしい。――帆村はそこで意を決するとソロソロと格子の方へ躙り寄った。
「おう、部屋――」
果してその下には四坪ほどの小室があった。机や椅子や戸棚などが所狭いほど置かれているところを見ると、事務室であることに間違いがない。格子の真下には大きな事務机があり、その前には空っぽの廻転椅子が一つと、その横にも空っぽの椅子が一つ、抛り出されたように置かれてあった。さっきの話し手は、この一つの椅子に坐っていたものに違いない。ではこの廻転椅子にいたのは誰だったか。またも一つの椅子の客は何者だったろうか? いずれにしてもそれは敵のものには違いない。
そこで帆村は注意深く机の上を隅から隅まで観察した。机上には本や雑誌が散らばっているが、その壁に近く、開封した封筒とその中から手紙らしいものが食み出しているのを見つけた。
それは忽ち帆村の所有慾を刺戟した。
「あれが吾が手に入ったらなァ」
だが鉄格子はどこで打ちつけてあるのか、ビクリとも動かない。だから格子を外して降りようたって簡単にはゆかない。見す見す宝を前にして指を銜えて引込むより外しかたがないのであろうか。帆村は歯をぎりぎり噛みあわせて残念がった。
「焦ってはいけない」と、帆村は自分自身に云いきかした。「それより落着いて考えるのだ。人間の智慧を活用すれば、不可能なものは無い筈だ」
ジリジリとする心を静めて一分、二分、それから考えた。――
「うん、そうだ。……こいつだッ」
何を思ったか、彼は下に着ていた毛糸のジャケツをベリベリと裂いた。そして毛糸の端を手ぐって、ドンドン糸を解いていった。それを長くして、二本合わせると、手早く撚りあわせた。そしてポケットからナイフを取出すと、その刃を出し、手で握る方についている環に、毛糸の端をしっかりと結えた。そうして置いて、ナイフを格子の間からソロリソロリと下に下した。
毛糸を伸ばすと、ナイフはスルスルと下に降りて、遂に手紙の上に達した。
「さあ、これからが問題だ!」
そこで帆村は、釣りでもするような調子で毛糸をちょっと手繰って置いて、パッと離した。ナイフは自分の重味でゴトンと下に落ちて机の上を刺した。それを見ると彼は、注意して毛糸を上に引張った。――果然、机の上の手紙はナイフの尖に突き刺されたまま、静かに上にのぼって来た。
手紙はクルクルと廻りながら、とうとう鉄格子の近くまで上って来た。――彼は指を格子の中へ出来るだけ深くさしこんだ。二本の指先が辛うじて手紙の端を圧えた。
「占めた!」
思わず指先が震えだした。途端に封筒がスルリと脱けて下に舞い落ちた。呀ッと叫ぶ余裕もない。指先には四つ折にした手紙があるのだ。彼は天佑を祈りながら指先に力を籠めて静かに引張りあげた。遂に手紙の端が格子の上に出た。――もう大丈夫!
摘み上げた手紙を、取る手遅しと開いてみれば、こは如何に、そこには唯、水兵が煙草を吸っているような漫画が書き散らしてあるばかりだった。途端に下の部屋にドヤドヤと荒々しい靴の音がした。
危機一髪
帆村が空気孔から見下ろしているとも知らず、突然下の部屋に現われたのは、例の密偵団の覆面をした二人の怪人物だった。その一人は首領「右足のない梟」であることは確かだった。もう一人の人物は、何物とも知れない。
「よく来てくれたねえ」
といったのは首領だった。
「君の非常警報を受信したので、すぐに軽飛行機で高度三千メートルをとって駈けつけてきた。一体どうしたのだ」
といったのは、別の人物だった。
この話から考えると、首領は遂に警報を他の密偵区へ発したものらしい。それで召喚された密偵の一人が早速駈けつけたので、「右足のない梟」が迎えに出たものらしい。
「大変なことが起ったのだよ。『折れた紫陽花』君、例のマッチ箱が日本人の手に渡ったため、わが第A密偵区は遂に解散にまで来てしまった」
「ほう、マッチ箱がねえ」
といったのは「折れた紫陽花」と名乗る他区の密偵だった。
「それは君のところだけの問題でなく全区の大問題だ」
「しかし心配はいらぬ。すぐマッチ箱はマッチの棒とも全部回収した」
「それは本当か」
「まず完全だ。ただマッチの棒の頭を噛んで死んだ婦人の屍体の問題だが、これも今日のうちに盗み出す手筈になっているから、これさえ処分してしまえば、後は何にも残っていない」
「それならよいが……だが日本人はマッチの棒の使い方を感付きやしなかったかナ」
「それは……」と「右足のない梟」はちょっと言葉を切ったが「まず大丈夫だ。恐ろしい奴は帆村という探偵だが、こいつも樽の部屋に永遠の休息を命じて置いたから、もう心配はいらぬ」
「永遠の休息か。フフフフ」と「折れた紫陽花」は笑いながら「マッチの棒の使い方が分ると、われわれの持っている秘密文書はことごとく書き改められねばならない。そうすることは不可能でない迄も、例の地点に於けるわれわれの計画は少くとも三箇月の停頓を喰うことになる」
「マッチの棒は、もう心配はいらぬよ」
「そうあってくれないと困るがネ、ときに早速仕事を始めたいと思うが、僕は何を担当して何を始めようかネ」
「そうだ、もう愚図愚図はしていられないのだ。こんなに停頓することは、われわれの予定にはなかったことだ。そうだ、先刻本国の参謀局から指令が来ていた。それを早速君に扱ってもらおうかなァ」
といって首領は立ち上ると手紙を取るために机の方にいった。
「ほう、本国の指令とあれば、誰よりも先に見たいと思う位だ。どれどれ見せ給え」
「ちょっと待ち給え。――おや、これはおかしいぞ。封筒があるのに、中身が見えない……」
「右足のない梟」はすこし周章気味で、机の上や、壁との間の隙間や、はては机の抽出まで探してみた。だが彼の探しているものはとうとう見付からなかった。彼の顔はだんだんと蒼ざめてきた。
「どうしたというのだネ。指令書は……」
「全く不思議だ。見当らない。この部屋には僕の外、誰も入って来ない筈なのだが……」
「もし指令書が紛失したものなら、これは重大なる責任問題だよ」
「そうだ。紛失したのならネ……。ウム、これはひょっとすると……」
そういって、A首領の「右足のない梟」は、中身のない封筒を摘みあげて、電灯の下で仔細に改めていたがそのうちに、
「ほほう、この鋭い刃物の痕のようなものは何だろう?」
と頭をひねった。
「刃物の痕だって?」
「そうだ、封筒の上に深い刃物の痕がついているが、これは私の知らぬことだ」といいながら机の上に近づいて、その上に拡げられている大きな吸取紙の上に顔をすりつけんばかりにして何ものかを探していたが、やがて「ウン、あったぞ。ここにも刃物の痕がある。こっちの方が痕が浅いところをみると、封筒の上から刃物で刺し透したのだ。誰がやったのだろう。この位置だとすると……」
首領はハッと首をすくめると、懐中から鏡を出して、その中を覗きこんだ。その鏡の底には、丁度真上にあたる帆村の隠れている空気孔の鉄格子がハッキリうつっていた。帆村の危機は迫った。
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