奇怪なる発狂者
「帆村君、君は本官を揶揄うつもりか。そこにじっと立っていて、なぜ、あの怪紳士の行方が分るというのだ」
大江山捜査課長は真剣に色をなして、帆村に詰めよった。さあ一大事……。
「冗談じゃない、本当なのですよ、大江山さん」と、帆村は彼の癖で長くもない頤の先を指で摘まみながらいった。「これは雁金検事さんにも聞いていただきたいのですけれど、実は今群衆の中に、私の助手である須永が交って立っていたのです。そこへ怪紳士があの早業をやったものですから、すぐさま須永に暗号通信を送って怪紳士を追跡しろと命じたのです。彼はすぐ承知をして、列を離れました。間もなく知らせてくるから、一切が分りますよ」
「なんだ、そうだったのか」と雁金検事は横から笑いかけながら、「しかし暗号通信というのは、どんなものかね」
「そいつは私たちの間だけに通用する指先の運動ですよ。こんな風に、頤の下で動かすんです」
と帆村は五本の指を器用に動かして、
「いま動かしたのが、(屍体を早く解剖にした方がよろしい)という文句を暗号に綴ったんです」
「ふふん。中々口の減らない男だな」と検事は苦が笑いをして、「大江山君、その婦人の屍体を早く法医学教室へ送って解剖に附してくれ給え。ことに胃の内容物を検査して貰うんだよ。いいかね」
「承知しました」
と、大江山課長は帆村にやりこめられたのを我慢してそれを部下に命令を下した。そこで婦人の屍体はすぐ真白な担架の上に移され、鋪道の傍に待っていた寝台自動車にのせて、送りだされた。物見高い群衆は、追い払えど、なかなか減る様子もない。
「帆村君」と大江山課長が近づいて「怪紳士の行方が分るのは幾時ごろかね。十日も二十日も懸るのなら、こんなとこに立っていては風邪を引くからね」
「イヤ課長さん。そうは懸らないつもりですよ。まず早ければ三十分、遅くても今夜一杯でしょう」
「そんなに懸るのかネ。では一応本庁に引上げて、君にビールでも出そうと思うよ」
そういうと、大江山は検事と相談して、検察隊一行の引揚げを命じたのだった。
警視庁へ引上げた一行は、とうとう夕飯が出るようになっても、帆村の助手の報告を聞くことが出来なかった。それに引き替え、大学の法医学教室からは、婦人の死因について第一報が入って来た。
「婦人ノ推定年齢ハ二十二歳、目下姙娠四箇月ナリ、死因ハ未ダ詳カナラザレド中毒死ト認ム」
この報告は捜査本部の話題となった。
「姙娠四箇月とは気がつかなんだねえ」
「中毒死とすると、誰に薬を呑まされたんだろう」
「自殺じゃないかネ」
「それは違う。帆村探偵も云っていたが、自殺とは認められん」
「須永という男は名前のように気が永いと見える。早く帰って来んかなァ。もう七時だぜ」
しかしその七時が八時になっても愚か、十二時を打っても須永は帰って来なかった。
須永に限り、こんなに遅くなることはない。遅くなりそうだったら、途中から電話か使いかを寄越す筈だった。それが何も云って寄越さないのだから不審だった。といって須永を探しにゆくにも手懸りがなかった。
遂に夜が明けてしまった。
帆村には、もう大江山課長の揶揄も耳に入らなかった。
「須永は、どうしたんだろう?」
彼は痺れるような足を伸して、窓際に行った。そして本庁の前を漸く通り始めた市内電車の空いた車体を眺めた。
そのときだった。二人連れの警官が一人の男を引張ってこっちへ来るのが見えた。男は、ズボン一つに、上にはボロボロに裂けたワイシャツを着ていた。よほど怪力と見えて、やっと懸け声をして腕をふると、二人の警官は毬のように転がった。それで自由になったから逃げだすかと思いの外、彼の若者は路上でどこかのレビュウで覚えたらしい怪しげな舞踊を始め、変な節で歌うのであった。可哀想に彼の若者は気が変になっているらしかった。
帆村は気の毒そうにその人の舞踊をみていたが、どうしたのか、ハッと顔色をかえると、顔を硝子窓に擦りつけて叫んだ。
「うん、あれは確かに須永に違いない。どうして気が変になってしまったんだろう」
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