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いよいよ、夜は更けわたった。
月のない、真暗な夜だった。風も無い、死んだように寂しい真夜中だった。
かねて手筈のとおり、工場の門衛番所に、柱時計が十二の濁音を、ボーン、ボーンと鳴り終るころ、組下の若者が、十名あまり、集ってきた。わしは、一と通りの探険注意を与えると、一行の先頭に立ち、静かに、構内を、第九工場に向って、行進を始めたのだった。地上を匍うレールの上には、既に、冷い夜露が、しっとりと、下りていた。
「電纜工場は、夜業をやってるぜ」
「満洲へ至急に納めるので、忙しいのじゃ」
誰かの声に、そっちを見ると、電纜工場だけが、睡り男の心臓のように、生きていた。高い、真黒な大屋根の上へ、鉛を鎔かす炉の熱火が、赫々と反射していた。赤ともつかず、黄ともつかぬ其の凄まじい色彩は、湯のように沸っている熔融炉の、高温度を、警告しているかのようであった。
「組長さん」組下の源太が云った。「おせいさんは、もう身体は、いいのですかい」
おせいは、実は、わしの妾だった、だが、世の中の妾とは違って、昼間は、この工場で働かせ、わしの顔で、電纜の紙捲きという軽い仕事をやらせ、日給は、女性として最高に近いものを、会社から払わせてあった。夜になると、身粧いをして、合宿から抜け出してくるわしを迎えて、普通の妾となった。
「うん、もういいようだ。今夜も、あの電纜工場で、稼いでいる位だァ」
「うふ。組長は、万事ぬかりが、ねえな」
「なんだとォ――」わしは、ピリピリする神経を、やっとのことで抑えつけた。「ちょっと電纜工場へ寄ってくるから、五分間ほど、ここで待っていて呉れ」
わしは、間もなく出てきた。
電纜工場を通りすぎると、その先は、文字どおりに、無人郷であった。
漆黒の夜空の下に、巨大な建物が、黙々として、立ち並んでいた。饐えくさい錆鉄の匂いが、プーンと鼻を刺戟した。いつとはなしに、一行は、ぴったりと寄り添い、足音を忍ばせて歩いていた。
「うわッ!」
建物の軒下を伝い歩いていた男が、悲鳴をあげた。皆は、ギョッと、立ち停った。
「な、な、なんだッ」
「工場に、蟇がえるが出るなんて、知らなかったもんで……」
きまりわるそうな、低い声だった、
「ドーン」
二三間先の、鉄扉が、鈍い音を立てて鳴った。
「ウウ、出たッ!」
「や、喧しいやい!」
わしは呶鳴った。蟇がえるを蹴飛ばした先生は、黙っていた。
ひイ、ふウ、みッつ!
やっと、第九工場の、入口が見える。
ぼッと、丸い懐中電灯の光の輪がぶっつかった。
錠前には、異常がない。門衛から借りてきた鍵で、それを外させた。ガチャリと、錠の開いたのが、骨の崩れる音のようだった。
「さァ皆、懐中電灯を消すんだ」わしは扉の前に突立って云った。「静かに、中へもぐりこんだら、たとえ、どんな吃驚するようなことが起ろうと、声を立てちゃ、ならねえ。よしかッ。懐中電灯も、わしが命令するまでは、どんなことがあっても、点けるなよッ。折角の化物を、遁がしちまうからな。いいかッ」
一同は、それぞれ、肯いた。
重い鉄扉を、細目にあけて、ブルブル慄えている組下連中を、一人一人、押込んだ。最後にわしが入って、扉をソッと閉めた。
工場の中は、油の匂いが、プンプンしていた。そして、鼻をつままれても判らぬほど、絶対暗黒であった。何かしら、闇の中から、大きな手が出てきて、喉首をグッと締めつけられるような気味の悪い圧力を感じたのだった。
誰もが、黙っていた。番号をかけるわけにもゆかない。わしは、戸口のところから、手さぐりに、一人、二人と、人間の身体を数えて行った。彼等は、わしの手が触る度に、非常に驚愕している様子であった。そして、申し合わせたように、隣り同士がピタリと身体を寄せ、手を繋ぎ合わせていた。
「十三人!」たしかに、全員が、入口に近い壁際に、鮃のように、ピッタリ、附着しているのであった。
それから、時が軸の上を、静かに移ってゆくのが、誰にもハッキリと感ぜられた。時の経つのに随って、一秒また一秒と、恐怖の水準線が、グイグイと昇ってくるのだった。
二分、三分、四分、五分――
夢中で、隣りの男の手を、握りしめた。冷い汗が、腋の下に滲み出して、軈てタラリと肋骨を、駆け下りた。
「キィーッ」
一同は、はッと、呼吸をつめた。
「キィーッ、キィーッ」
呀ッ、いよいよ、泣きだしたのだ。彼等はそれを鼓膜の底に聴いた瞬間、板のように全身を硬直させた。
「キィーッ、キィーッ、ぐうッ、ぐうッ」
彼等は、見えない眼を閉じた。
「キ、キ、キ、キ、キィーッ」
もう堪りかねたものか、一行のうちから、サッと、懐中電灯の光芒が、射るように、高い天井を照した。
「がーッ、がーッ……」
一同は、その怪音のする方を、等しく見上げた。
「呀ッ!」
「ク、クレーンが……」
懐中電灯の薄ら明りに、はじめて照し出された怪物は何であったろうか。それはあの巨大な鉄骨で組立てられたクレーンが、物凄じい響きをあげて、呀ッという間に、全速力で一同の頭上を通り過ぎたのであった。
「ひえーッ」
というなり、彼等は、折角手にした懐中電灯も其場に抛り出して、云いあわせたように、ペタペタと、地上に尻餅をついてしまった。
「電灯を、点けろッ」
わしは、クレーンがまだ動いている裡だったが、決心をして、号令をかけた。そして真先に、懐中電灯を照して、一同の方へ向けた。彼等の顔は、いずれも、泣かんばかりの表情をして見えた。
「しっかりしろ、探険は、これからだッ」
わしは、一同を激励した。
皆の懐中電灯が、揃って点くと、大分場内が明るくなって、元気がついたようだった。
「クレーンを動かすスウィッチが、入っているかどうかを調べるんだ。オイ、政はいるかッ」わしは、クレーン係の、若い男を呼んだ。
「へええ」と政は、死人のような顔を、こっちへ向けた。「どうか、その役割は、勘弁しとくんなさい」そう云って、彼は、手を合わせて、こっちを拝んだ。
「莫迦いうな」わしは叱りつけた。「手前が、調べねえじゃ、係りで無えコチトラには訳が判らねえじゃねえか」
尻込みする政を、両脇から引立てて、捜査に取懸った。
「このスウィッチは、開いている」一同が入った入口の側の壁上で、その入口から六、七間奥まったところに大きいスウィッチが取附けられてあった。その硝子蓋の上から指しながら、クレーン係の政が呻った。「このスウィッチが、開いているなら、クレーンの上へ、電気が行きっこ無いんです」
「だが可怪しいぞ」とわしは云った。「クレーンは確かに動いたんだ。クレーンはモートルでしか動けないんだ。このスウィッチが開いていて動く筈はない。開いているようでも何処か、電気が通うようになってるんじゃないか。よく中を開けて調べて見ろ」
カチャカチャと音をさせて、スウィッチの硝子蓋を開いてみたが、それは普通のスウィッチが、明らかに開かれた状態になっていて、外にインチキな接続は発見せられなかった。
「たしかに、このスウィッチは開いています」政は泣き声で云った。
「よし、では念のために、クレーンの上へ昇ってみよう」わしは云った。
「なに、クレーンへ昇る――」
一同は、互に顔を見合わせて、恐怖の色を濃くした。
「政、昇れ!」
「いやァ、救けて下さい」政は、ポロポロ泪を出して、喚くのであった。
「じゃ、わしが先登に昇るから、直ぐうしろから、ついて来い。いいかッ」
わしはそういうなり、壁際へ進んで、クレーンに攀じ昇る冷い鉄梯子へ、手をかけた。
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