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夜泣き鉄骨(よなきてっこつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 6:46:32  点击:  切换到繁體中文


     3


 合宿の門を出ると、どぶくさい露路ろじに、夕方の、気ぜわしい人の往来ゆききがあった。初夏とは云っても、おくれた梅雨つゆの、湿しめりがトップリ、長坂塀ながいたべいみこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。
 道では、逢う誰彼だれかれが、挨拶をして行った。
 向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みをかかえてやってきた。
「お前さん」と其の女は、わしの連れを、チラリとにらみながら、云った。「これから、何処へゆくんだい」
「お前こそ、どこへ行くんだい」
「ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」
「夜業か。まァしっかり、やんねえ」
「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、云った。
「ちょいと、このじんと、用達ようたしに」
「そうかい、あのネ」女は、口を、わしの耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉をささやいた。
「……」わしは、黙って、うなずいた。
 女に別れると、後から、附いてくる横瀬がわしに声をかけた。
「今の若いひとは、なかなか、い女ですネ」
「そうかね」
「何て名前です」
「おせい」
「大将の、なにに当るんです」
「馬鹿!」
 露路を二三度、曲った末に、わし達は、目的の家の前へ来たのだった。
 わしは、雨戸を引かれた、表の格子窓こうしまどに近づいて、家の内部の様子をうかがった。さいわいこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている袋小路ふくろこうじのこととて、人通りも無く、このあやしげな振舞ふるまいも、人にとがめられることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わしは、れをうながして、裏手に廻った。
 勝手元の引戸ひきどに、家の割には、たいへん頑丈がんじょうで大きい錠前じょうまえが、かかっていた。わしは、懐中ふところを探って、一つの鍵をとり出すと、鍵孔かぎあなにさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。
 わしは、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。
 障子しょうじふすまとを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の体臭たいしゅうが、プーンとただよっていた。壁にかけてあるセルの単衣ひとえに、合わせてある桃色の襦袢じゅばんえりが、重苦しくなまめいて見えた。
「いいのかね。こう上りこんでいても」
 横瀬は、さすがに、気が引けているらしかった。
ッ――」わしは、にらみつけた。
 わしは、逡巡しゅんじゅんするところなく、押入をあけた。上の段に入っている蒲団ふとんを、静かに下ろすと、その段の上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、幅一尺ほどの、長方形の、真暗なあなぐらがポッカリ明いた。そこでわしは、両手を差入れて、天井裏をぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。手文庫てぶんこらしい古ぼけたはこを一つかかえ下ろしてきたときには、横瀬は呆気あっけにとられたような顔をしていた。
 わしは、急製の薄っぺらな鍵を、紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。その中には、貯金帳や、戸籍謄本こせきとうほんらしいものや、かびの生えた写真や、其他そのた二三冊の絵本などが入っていたが、わしが横瀬の前へ取出したものは、手文庫の一隅いちぐうに立ててあった二〇※(全角CC、1-13-53)いり硝子壜ガラスびんだった。それには、底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。
「さァ、こいつだ」わしはソッと壜を横瀬に渡した。「最後に、お前さんから、教えて貰いたいのは」
「そうだね、これは――」横瀬は、十しょくの電灯の光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。
「判らねえのかい」
「うんにゃ、判らねえことも、ねえけれど」
「じゃ、何て薬だい」
「そいつは、云うのをはばかる――」
「教えねえというのだな」
「仕方が無い。これァ薬屋仲間で、御法度ごはっとの薬品なんだ」
「御法度であろうと無かろうと、わしは、かにゃ、ただでは置かねえ」
「脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の働きはねえ、人間の柔い皮膚を浸蝕しんしょくする力がある」
「そうか、柔い皮膚を、えぐりとるのだな」
「それ以上は、言えねえ」
「ンじゃ、先刻みせた注射器の底に残っていた茶色の附着物ふちゃくぶつは、この薬じゃなかったかい」
「さァ、どうかね。これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、茶っぽい色が見えるだろう」
「それとも、やっぱりあれは、血のあとか。いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、当座とうざのお礼だ」
 そう云って、わしは、十円紙幣さつを、横瀬の手に握らせ、今日のことは、堅く口止くちどめだということを、云いきかせたのだった。

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