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合宿の門を出ると、溝くさい露路に、夕方の、気ぜわしい人の往来があった。初夏とは云っても、遅れた梅雨の、湿りがトップリ、長坂塀に浸みこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。
道では、逢う誰彼が、挨拶をして行った。
向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みを抱えてやってきた。
「お前さん」と其の女は、わしの連れを、チラリと睨みながら、云った。「これから、何処へゆくんだい」
「お前こそ、どこへ行くんだい」
「ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」
「夜業か。まァしっかり、やんねえ」
「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、云った。
「ちょいと、この仁と、用達しに」
「そうかい、あのネ」女は、口を、わしの耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を囁いた。
「……」わしは、黙って、肯いた。
女に別れると、後から、附いてくる横瀬がわしに声をかけた。
「今の若いひとは、なかなか、美い女ですネ」
「そうかね」
「何て名前です」
「おせい」
「大将の、なにに当るんです」
「馬鹿!」
露路を二三度、曲った末に、わし達は、目的の家の前へ来たのだった。
わしは、雨戸を引かれた、表の格子窓に近づいて、家の内部の様子を窺った。幸いこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている袋小路のこととて、人通りも無く、この怪しげな振舞も、人に咎められることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わしは、連れを促して、裏手に廻った。
勝手元の引戸に、家の割には、たいへん頑丈で大きい錠前が、懸っていた。わしは、懐中を探って、一つの鍵をとり出すと、鍵孔にさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。
わしは、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。
障子と襖とを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の体臭が、プーンと漂っていた。壁にかけてあるセルの単衣に、合わせてある桃色の襦袢の襟が、重苦しく艶めいて見えた。
「いいのかね。こう上りこんでいても」
横瀬は、さすがに、気が引けているらしかった。
「叱ッ――」わしは、睨みつけた。
わしは、逡巡するところなく、押入をあけた。上の段に入っている蒲団を、静かに下ろすと、その段の上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、幅一尺ほどの、長方形の、真暗な窖がポッカリ明いた。そこでわしは、両手を差入れて、天井裏を探ぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。手文庫らしい古ぼけた函を一つ抱え下ろしてきたときには、横瀬は呆気にとられたような顔をしていた。
わしは、急製の薄っぺらな鍵を、紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。その中には、貯金帳や、戸籍謄本らしいものや、黴の生えた写真や、其他二三冊の絵本などが入っていたが、わしが横瀬の前へ取出したものは、手文庫の一隅に立ててあった二〇入の硝子壜だった。それには、底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。
「さァ、こいつだ」わしはソッと壜を横瀬に渡した。「最後に、お前さんから、教えて貰いたいのは」
「そうだね、これは――」横瀬は、十燭の電灯の光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。
「判らねえのかい」
「うんにゃ、判らねえことも、ねえけれど」
「じゃ、何て薬だい」
「そいつは、云うのを憚る――」
「教えねえというのだな」
「仕方が無い。これァ薬屋仲間で、御法度の薬品なんだ」
「御法度であろうと無かろうと、わしは、訊かにゃ、唯では置かねえ」
「脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の働きはねえ、人間の柔い皮膚を浸蝕する力がある」
「そうか、柔い皮膚を、抉りとるのだな」
「それ以上は、言えねえ」
「ンじゃ、先刻みせた注射器の底に残っていた茶色の附着物は、この薬じゃなかったかい」
「さァ、どうかね。これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、茶っぽい色が見えるだろう」
「それとも、やっぱりあれは、血のあとか。いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、当座のお礼だ」
そう云って、わしは、十円紙幣を、横瀬の手に握らせ、今日のことは、堅く口止めだということを、云いきかせたのだった。
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