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合宿所の、三階の、廊下を、パタパタと音をさせて、近づいてくる跫音があった。
「組長さん、おいでですか――」
その跫音は、「舎監居間」と書いた木札を、釘で打ちつけてあるわしの室の入口の前で停るが早いか、そう、声をかけたのだった。
「おう。誰かい」
「栗原です。倉庫係の栗原ですて」
「栗原? 栗原が、なんの用だッ」
「へえ、ちょっと工場の用なんで……」
「なにッ。工場の用て、どんなことだか云ってみろ」
「へえ、実は――」栗原は、言い淀んでいる風だった。「先日お持ちになりました乙型スウィッチが、急に入用になりましたんで、いただきに参ったんですが……」
「スウィッチなんか、明日にしろ」
「ところが生憎、工場で至急使うことになったんで、直ぐ持って行かないと困るんでして、実にその……」
「よォし、いま入口を開けるから、ちょっと待て」
暫くして、わしは、入口の扉を、サッと開けた。
「どうも相済みません」栗原は、わしの顔を見るなり、ペコリと頭を下げた。
「お前、この間、そう云ったじゃねえか。このスウィッチは、当分不用だから、いつまでもお使いなさい、とな」
「申訳がありませんです」栗原は、ひどく恐縮している態で、ペコペコ頭を下げた。「組長さんは、スウィッチの図面を書きたいから御持ちになるというので、そんな簡単な御用ならと、栗原は帳簿に書かないで、御貸ししたんです。ところが、今急に、拡張工事係の方から、在庫になっている乙型スウィッチは全部数を揃えて出せという命令なんで。どうも已むを得ず、ソノ……」
「文句はいいや。さア、早く持ってゆけ」
わしは、抱えていた乙型スウィッチを、彼の前に、さしだした。
乙型スウィッチというのは、長さ一尺五寸、幅七寸の、細長い木箱に収められた大きなスウィッチで、硝子蓋を開くと、大理石の底盤の上に幅の広い銅リボンでできた電気断続用の刃がテカテカ光り、エボナイト製の、しっかりした把手がついていた。このスウィッチ一つで、鳥渡したモートルの開閉は充分できるのであった。
「栗原さん、俺が持ってゆくよ」
横の方から、思いがけない、違った声がして、頭髪をモシャモシャにした若い男が、姿を現した。
「だッ、誰だ。手前は……」
わしは、戸口の蔭から、イキナリ飛び出した男に、駭いた。
「こいつは、横瀬といいましてネ」若い男の代りに栗原が弁解した。「この栗原の遠縁のものです」
「何故ひっぱってきたんだ」
「いまお願いして、倉庫で、私の下を働かせて、いただいてるのです。というのは、下町の薬種屋で働いていたのが、馘首になりましてナ、栗原のところへ、転りこんできたのです」
「ふウん、お前さん、薬屋かア」
珍らしそうに、スウィッチの表や裏を、眺めている若い男に、わしは、声をかけた。
「薬屋だったんです」その横瀬は、ぶっきら棒の返事をした。
「どうだろうな。わしは、お前さんに、ちょっと頼みたいことがあるんだが」
「骨の折れねえことなら、手伝いますよ」
「これッ――」栗原が駭いて、横瀬の汚い職工服を、ひっぱった。
「骨は折れねえことだ。じゃ、栗原、お前の若い衆を、ちょいと借りたぜ」
「へえ、ようがす」
栗原は、若い横瀬から、スウィッチの箱をうけとると一人で帰って行ったのだった。
「さあ、こっちへ、入んねえ」
「はあ――」
「わしは、鳥渡、お前さんに、見て貰いてえものがあるんだ」
「俺に、判るかなァ」
「ものは、これなんだ」わしは、机の抽斗しの奥から、新聞紙にくるんだものを、出してきた。
「この硝子で出来たものはなんだね」わしは、それを横瀬に手渡した。
「これは、注射器の一部分ですよ」
「注射器? そうだろうな、わしも、そう思った。それで、何の注射器か、お前さんに判らないかい」
「さァ――」横瀬は、モシャモシャ頭髪を、指でゴシゴシ掻いた。「注射器は判るが、尖端についている針が無いから、見当がつかねえ」
「じゃ、此処んとこを見て呉れ。この注射器の底に、ほんのり茶っぽいものが附いているが、これは、なんて薬かい」
「うん、なんか附いてはいるが――」若い男は注射器を、明り窓の方に透かして、その茶色の汚点に眺め入った。「電灯は点きませんか」
「生憎、この合宿じゃ、六時にならないと、点かないんだ。まだ三十分も間があるよ」
初夏の夕方は、五時半を廻っても、まだ大分明るかった。
「さあ、わかりませんね。こんなに分量が少くちゃ見当がつかない。薬品のようでもあり、血痕のようでもあり……」
わしは、グッと唾を呑みこんだ。
「もう一つ、見て貰いたいものがある」わしは、新聞紙包みの中から、もう一つの品物をとりだした。「これは何かね」
「こんなもの、どっから持って来たんです」横瀬は、ピカピカ光る、その外科道具のようなものを手に取上げ、ニヤニヤ笑いだした。
「何に使う品物かね」わしは、横瀬の質問には答えようとせず、同じことを、聞きかえしたのだった。
「一口に云えば――」と、わしの顔をジロリと見て、「子宮鏡という、産婦人科の道具だね」
「よし、判った」わしは、ピカピカするそれを、横瀬の手から、ひったくるようにして、元の新聞紙の中に、包んでしまった。
「いや、御苦労だった」と、わしは挨拶をした。「ところで、もう一つだけ、お前さんに見て貰いたいものがあるんだが」
「あるんなら、早く出しなせえ」
横瀬は、面倒くさそうに、云った。
「ここには、無いんだ。ちょっと、近所まで附合ってくれ」
「ようがす。ドッコイショ」
横瀬は、「ひびき」を一本、衣嚢から出して口に銜えると、火も点けないで、室内をジロジロと、眺めまわした。
「何を見てるんだ」わしは、訊いた。
「マッチは無いのかね」と彼は云った。
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