隣組総出
雪子学士の幽霊が再び現われたこと、そして川北先生が幽霊と取組んだまま姿を消したこと――この二つの怪奇きわまる事件は、目撃者である道夫少年の話によって、そこら界隈に驚愕と戦慄の大きな波紋をひろがらせていった。
「ふしぎですなあ。やっぱりこの世に幽霊というものがあるんですかねえ」
隣組の、ある銀行の支店長は、帽子のあご紐をかけながら、顔をこわばらせた。
「この前は、うちの家内の神経のせいじゃろうと、あまり問題にもしないでいましたが、こうたびたび現われるようだと、あれは本当に幽霊かもしれんですなあ」
外出先から帰ってきた雪子の父親武平がさわぎの仲間に加わって、こんな感想をのべた。
「もっとふしぎなことは川北先生の姿が消えてしまったことなんです。あの松の木で完全に姿が見えなくなったんです。一体どういうわけでしょう」
目撃者の道夫は、川北先生のことを問題としてだした。
「どういうわけでしょうね。幽霊が消えるのはわかっているが、生きている人間まで消えてなくなるというのは、さっぱり訳がわからない」
「その川北先生は、幽霊を追いかけて、遠くまでいってしまったんじゃないですか。そのうち先生は、ふうふういいながら、ここへもどってこられるのではないですかな」
いろいろな説がでる。
「いや、川北先生は遠くへいくはずがないんです。先生の足跡は、松の木の下で消えているのです。遠くへいったものなら、先生の足跡がそっちへ続いていなければなりません」
道夫は、遠走り説をうち消した。
「でも、それはあまりにふしぎ過ぎるからねえ。松の下から垣根へぬけて往来へでれば、往来は土がかたいから、そこにはもう足跡がつかないわけでしょう。だから足跡が松の木の下で消えているように見えるのではないですか」
そういったのは、某省につとめる技術者であった。
「いや、そうではないのです。先生の足跡の最後のものがついている地点から、垣根を越えて往来までの距離は、約十メートルもありますよ。その十メートルの間に、どこにも足跡がついていないんです。すると小父さんのお話が本当だとすると、川北先生はこの十メートルの距離を、一度も地上に足をつかないで飛び越えたことになります。十メートルも跳躍することは人間業じゃできないことだと思います」
道夫少年のこの推理の正しいことが、誰にも了解された。が、そうなると、川北先生の失踪の説明は一層つかなくなる。ただふしぎふしぎというばかりであった。
「われわれの手に負えませんなあ。どうです。やっぱりできるだけ早くその筋へ申告して、警視庁の手で調べて貰うことにしてはどうですか」
「そうだ。そうする外、道がありませんねえ」
これで方針が一応おさまるところへおさまったようである。その証拠には、隣組の人たちはもう誰も発言せず、夕暗の迫る中にじっと塑像のように立ちつくしていた。
が、そのときであった。突然、金切り声が一同の鼓膜をつんざいた。女の声らしい。その声の起ったのは、どうやら木見さんの家の中のように思われた。一同ははっとおどろいて互いの顔を見合わせた。
「あ、あれはうちの家内の声のようだ」
武平はそういってかけだした。
「ああ、木見さんの奥さんの声……」
「さあ、皆いってみましょう」
一同は武平のあとを追い、庭をぐるっと廻って、木見邸の表座敷の方へかけだした。
かけつけてみると、それは果して雪子の母親の発した叫び声だとわかった。
「何を見たって、やっぱり雪子の幽霊かッ」
武平は、座敷へ飛び上って、夫人をかかえ起しながら、息せき切ってきいている。
「わたしは、お父さんが外から家へ上って廊下を歩いていなさるのだと思っていたんです。でも、何だか変だから、立っていって廊下の方をすかして見たんですの。廊下はうすぐらくて、よく見分けがつかなかったんですけれど、たしかに黒い人影が向うへ動いていきます。背の低い、熊のようにまっくろな者が離家の方へ。……ああ、こわかった」
「雪子の幽霊なのか、幽霊じゃないのか」
「さあ、どうでしょうか、でも雪子の幽霊なら、その後姿はありありと見える筈なんですがね、ところが今見たのはただまっくろでしたよ」
「よし、そうか。離れの方へいったんだな。皆さん、手を貸して頂きましょう」
武平の言葉に、隣組の人たちはもじもじしながら、それでも上へあがった。そして武平を先にして廊下に一かたまりになって、たがいの身体を押しあいながら、雪子の研究室の方へ忍び足で近づいていったのである。
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