事件は迷宮入り
道夫にとっては、雪子学士が行方不明になったことは、この上もなく悲しく心配であった。
どうかして雪子姉さんが早く帰ってきてくれればいい。もしすぐ帰れないのだとしても、どうか生命は無事で生きていてくれるといいといのらずにはいられなかった。
だがよく考えてみると、雪子姉さんの運命については、よくないことばかりしか耳にしない。
あの日、警視庁などの人がきて、木見さんの屋敷を全部のこるくまなく調べていったそうであるが、その結果として、雪子姉さんの両親へ、係官が話していってくれたところによると、この事件は、よほどの難事件であるということである。もちろん今のところ、この事件の解決について何の手がかりも見つからないのだそうである。
係官の説に三つあった。
一つは、雪子学士が非常にたくみな方法によって、この家からでていったとするものである。たとえば、何かのからくりを使って、部屋の外側より、部屋の内側の扉にさしこんである鍵をまわして扉に錠を下ろし、それからそのからくりを手もとへ取りもどして、家出をしたというようなやり方である。或いは、窓に工夫があるのかも知れない。または本棚のうしろや、機械台の下に、ぽっかりあく秘密の出入口があるのかもしれないともいわれた。
第二は、偶然、その扉の錠が下りたのだという説である。
第三は、雪子学士は家出をしたのではなく、その研究室又は邸内のどこかにいるのではないかというのである。それは、雪子学士が自分の考えによって、わざとかくれているのかもしれないし、或いは、そういう秘密の小屋か地下室かがあり、その中へ用事のため雪子が入ったところ、戸がしまってでてこられなくなったのではないかともいう。
しかしこの三つの説は、今のところ、どれも皆、本当のように思われなかった。
というのは、第一の、部屋の外側より部屋の内側の扉にさしこんである鍵をまわして錠を下ろすという方法は、この研究室ではできないことだった。外国で、それに成功した話はないでもないが、それは糸を使ってやる方法で、扉と床または鴨居の間に、まっすぐに通した隙間がなければできないことだった。雪子学士の研究室の場合は、その隙間がなかったのだ。すなわち扉は外側から額縁みたいな壁体によってぴしゃりと壊し、扉の上下左右にはまっすぐな隙間ができないから駄目であると分った。
また相当厳重な家探しをした結果、秘密の部屋は発見されなかった。
第二の、偶然に錠が下りたと考えるのは、あまりに実際に遠い。そんなことは千に一つも万に一つもあろうはずがない。係官が錠を調べたところ、その錠は完全なもので、決して偶然に錠が下りるような、そんながたがたのものではないと分った。
では第三の説はどうだろう。これも前に述べたように、隠れ部屋も見つからないし、また内側の錠を外からかけることも困難なので、そういう状況の下では雪子学士が、研究室または他の部屋にかくれているとは思えない。
こんなわけで、係官の間にでた三つの説は、どれもあたらないということが一応たしかめられた。煙突からぬけでることは、もちろん駄目であった。煙のでる土管は、内径が二十糎くらいしかなかったのだ。
ただ次のような説が、係官の間に、なんとなくただよっていた。それは雪子学士は誰かの助けを借りて、うまく家をでたのではないか。そして雪子を助けた者として、雪子の両親にまず有力な疑いをかけたい気持があった。しかしそれにしても、密室と思われる中から一体どうして雪子学士は姿を消したか。それはやっぱりできないことではないか。
しかも係官がそれとなくたずねたところでは、この木見家の中に、娘の雪子学士を秘密に家出させなければならないわけはなさそうであった。近所で聞いてみても、木見家では一回も親子喧嘩らしいものが起った話はない。そして親子三人、いずれもしとやかないい人達であるという評判であったから、係官の方でもやっぱりこれは思いちがいかなと考える方が有力となった。
こんなわけで、木見雪子学士の行方不明の謎はとけず、事件はついに迷宮入りの形となった。
係官は、あれほど毎日つづけていた雪子の研究室の捜査をやめてしまった。
そのかわり、雪子の友達や知合いなどの調べを始めるほか、この附近一帯に、何か怪しい出来事があったとか、或いは怪しい人物がうろついていなかったか、というような外部の探偵に移ったのであった。
怪しい影
道夫は、あれ以来、くやしさに煮えかえるような胸をいだいていた。
本当の姉のように思うあの雪子姉さんが、もう一週間も姿を消してしまい、たしかに大事件であるにもかかわらず、係官の捜査が少しも成績をあげず、そればかりかこの頃では、係官たちは雪子姉さんの失踪事件にすっかり熱を失ってしまったように見える。まことにくやしいことだ。
(何とかして、この事件の真相を探しあてたいものだ。そして雪子姉さんを無事にとりかえしたいものだ)
道夫は、いつもそう思っていた。それには一体どうしたらいいのであろう。中学の二年生にできることといったら、大したことではない、おそらく刑事の半人前の仕事もできないであろう。しかし熱心に一生けんめいにやるなら、熱心でない大人よりはいい結果をあげるかもしれないと思った。そこで道夫は、事件についてのいろいろなことをノートに書きつけ、図面も描き、それを見て大人たちの見落し考え落している事件の鍵を発見しようと、小さい頭をひねり始めたのである。
この小探偵の事件研究は、あまりはかどらなかったが、あの事件があってちょうど二週間後の頃から、この事件について新しい一つの話が、この界隈の人の口にのぼるようになった。それは、事件の少し前まで、毎日のようにこの近所をうろついていた老人の浮浪者が、どういうものかあの頃以来さっぱり姿を見せないといううわさだった。
その老浮浪者は、実に風がわりな浮浪者だった。眼が悪いらしく、いつもこい大きな黒眼鏡をかけていた。そんなことよりも風がわりだというわけは、この老浮浪者は、別に貧乏でもないらしいのに、各家庭の裏口へ入りこんで、食をねだることだった。貧乏でもないらしいというわけは、この老浮浪者は、頭には色こそきたなく形こそくずれているが灰色の大きな中折帽子をかぶって、そのつばを下げ、額から耳のあたりから頸のうしろまですっぽりかぶっていた。服は、長いだぶだぶのレーンコートを着ていたが、質はよいと見え、破れている箇所は一つもなかった。そしてコートの奥にはカーキ色の服ともシャツともつかぬものを着ているらしく、はでな赤いネクタイをむすんでいた。靴も、大きなゴム長をはいていて、雨であろうと天気であろうとぬがなかった。彼はポケットから、大きな懐中時計をだしてみることもあり、また時には店へ入りこんで、大きな皮手袋をはめた手の上に十円紙幣などを乗せて塩を買ったり酢を買ったりする。そういうところは、けっして浮浪者ではないように見えた。
「そういえば、あの年寄りの浮浪者は、いつだか、木見さんのお邸のまわりをうろついていたわね」
塀のかげで、三人のお手伝いがこの話をしている。
「そうよ。裏手へまわって、あの空地のあたりから、雪子さんの研究室の方を、のびあがって見ていたわ」
「怪しい浮浪者だわね。そうそうあの人はよくあの裏手の空地にある大きな銀杏の樹の上にのぼって昼寝していることがあったわよ。あたし、それを見て、きゃっといって飛んで帰ったことがあるわ」
「いよいよ怪しいわね。あの浮浪者、どこへいってしまったんでしょうか。雪子さんの事件以来、二度と姿を見かけないわね」
「どこへいってしまったんでしょう。まさか雪子さんをつれて逃げたんじゃないでしょうね」
「まさか、あんな年寄りに」
「でも、分らないわよ。変に気味のわるい人なんですものね」
「ひょっとしたら、あの浮浪者、そのへんにかくれているんじゃない」
「いやあ、そ、そんなことをいっておどかしては……」
こんなふうな会話が、附近一帯でさかんにとりかわされた。誰の考えも、あの気味のわるい高等浮浪者(と町の或る人はうまい名をつけた)が少くとも雪子がきえた頃以来、姿を見せないことに不審の根拠を置いていた。
道夫少年も、この噂は耳にしていた。ひょっとしたら、自分に疑いがかかることを恐れるか何かしてそしてその浮浪者が、昼間だけは姿をかくしているのではないか、そして夜中には近所をうろついているのではないかと思った。それで或る夜、道夫は時計が十二時をうつと、そっと雨戸をあけて外へでた。家のまわりを見まわるためだった。
しかし道夫は、家のまわりにかわったことがないことをたしかめた。もちろんあの老浮浪者の姿もなかった。明るい探険電灯で、高い銀杏の梢をてらしてもみたが、老浮浪者の姿はなく、あるのは雁のような形をした葉ばかりだった。
「大したことはなかった。じゃあ、もう家へもどろう」
と、彼は探険電灯の灯を消し、一ぺん表通りへでるため木見家の裏手を通りかかった。
そのとき道夫は、何気なく、木立越しに、雪子姉さんの研究室の方を見た。
と、その研究室の中に、ぼんやりしたうすあかい灯がついているように思った。
「誰だろう、今頃、あの部屋の中を調べているのは……」
刑事たちではなかろう。では誰か家の人だろうか。雪子姉さんのお父さんかお母さんに違いない。
そうは思ったが、道夫は何だかその灯のことが気になって仕方がなかった。それで彼は思い切って、くぐり戸を開くと、お隣の庭へすべりこんだ。そして研究室の方へ近づいていった。
研究室の窓は高かったので、中を全部見ることはできなかったが、庭石の上に乗ってやっとガラス窓から部屋の一部を見ることができた。その刹那、
「あっ、あれは……」
と、道夫はその場に立ちすくんだ。彼は何を見たか。暗い部屋の中に、宙にうかんでいる女の首を見たのであった。
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