海野十三全集 第11巻 四次元漂流 |
三一書房 |
1988(昭和63)年12月15日 |
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷 |
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷 |
はじめに
この「四次元漂流」という妙な題名が、読者諸君を今なやましているだろうことは、作者もよく知っている。
だが作者は、この妙な題名について、今何よりも先に、それを説明することはしない。だから読者諸君は、ここしばらくの間、この妙な題名についてなやまされるであろう。読者諸君が、さようになやんでいるのを、作者は意地わるい微笑をうかべて、悪魔じみた楽しさを只一人味わいたいつもりではない。いや、それとは反対に、読者諸君の興味を最も大きくしたいために、今はわざと何も説明しないのだ。
この小説が先へ進むに従って、「四次元漂流」という題名の謎は、おいおいと明らかになってくるであろう。そしてその時こそ、諸君はこれまでに聞いたことのない不思議な世界にふみ入っている御自分を発見することであろう。大きなおどろきと、すばらしい魅力とが、科学真理の車体に諸君を乗せ科学推理の車輪をつけて、まっしぐらに神秘の世界へ向って走っているのに気づかれるであろう。それはともかく、この神秘な物語も、その発端は一見平凡な木見雪子学士の行方不明事件から始まる。
学士嬢の失踪
中学二年生の三田道夫は、その日の午後、学校から帰ってきたが、自分の家の近所までくると、何かただならぬ空気のただよっているのに気がついた。
緑あざやかな葉桜の並木、白い小石を敷きつめた鋪道、両側にうちつづいた思い思いの塀、いつもは人影とてほとんど見られない静かな住宅区の通りであったが、今日ばかりはそうでなかった。顔なじみの近所のお手伝いさんが、ほとんど総出の形で、どの家かの勝手口の門の前に三四人ずつかたまって、何かひそひそ話をしながら、通りへ眼をくばっていた。中には、娘さんや奥様の姿もあった。そうかと思うと、この町では全く見なれない人物が、塀の蔭や横丁の曲り角に立っていた。洋服男もあり、和服の人もあり、いずれも鋭い眼付をして、道夫の方をじろじろと見るのだった。
あまりきれいでない自動車が二台、道夫の家の前に停っていた。いや、道夫の家の前ではない。お隣の木見さんの家の前らしい。そのそばに、警官の姿を発見したとき、道夫ははっきりと何か事があるなとさとった。
「あ、何かかわった出来事が起ったんだな」
それは一体どんな出来事であろうか。誰かが伝染病にでもかかったのであろうか。それとも火事でもだしたのであろうか。いや、火事ではなさそうだ。消防署の自動車の姿もなければ、道も水にぬれていない。
「ひょっとしたら、強盗事件かな。まさか……」
もし強盗が木見さんの家をおそったものなら、夜中に叫び声が聞えそうなものだ。それとも強盗が明け方までがんばったのだろうか。それなら道夫が今朝学校にでかける頃には、もうたいへんなさわぎになって近所へ知れていなければならない。ところが、そんなこともなかった。では、どうしたのであろうか。道夫は自分の家の勝手口へ通ずる小門までくると、それを開いて入った。そのとき、お隣の前に停っている二台の自動車の一方に、警視庁の文字があり、他の車には警察署の文字があるのを見た。
道夫は、植込の間をぬけて内玄関へ急いだが、往来にはどの家でも誰か顔をだしているのに、道夫の家だけは誰もでていないことに気がつき、何だか異変は自分の家にもありそうな気がして、胸がわくわくしてきた。
「只今。お母さん……」
格子戸を明けるが早いか、道夫は悲鳴に近い声で、母を呼んだ。
「あ、道夫かい。おかえりなさい」
母の声がすぐ聞えた。それは別に取乱した声ではなかった。それで道夫は、ふうっと大きな溜息をついて、(まあよかった)と思った。事件は我家に起ったのではないらしい。
道夫は靴をぬぐのももどかしく、中にむかって声をかけた。
「お母さん。どうしたの、お隣の木見さんの前に、警視庁なんかの自動車がとまっていますよ」
「ああ、そうかい。さっき自動車の音がしたと思ったが、そうだったのね」
「どうしたのよ、お母さん。木見さんのお家では……」
道夫は、鞄を肩からとって、手にさげたまま、茶の間からでてきた母親にむかいあった。
「それがね、よく分らないけれど、木見さんの雪子さんが、どこへいかれたか、行方不明なんですってよ」
「へえ、雪子姉さんが……」
道夫は大きく目を見はった。道夫の勉強のめんどうをよく見てくれる雪子姉さん、弟のように道夫をかわいがってくれる雪子姉さん、背の高い色の白い上品なすがたの雪子姉さん。――婦人ながら医学士と理学士であり、自分の家にかなりりっぱな研究室をもっている木見雪子嬢、年齢は二十五歳だがそれより二つぐらいふけてみえる木見学士、高い鼻の上に八角形の縁なし眼鏡をかけている美しい若い研究者――その木見雪子が突然行方不明になったというのである。道夫の驚きは大きかった。彼が心の中でひそかに予想したうちでの最も大きい不幸な事件であったではないか。
「雪子姉さんは、いつから行方不明になったの。いつお家をでていったの」
道夫は、母親を茶の間へ追っていきながらたずねた。
「さあ、それがね道夫さん、どうも変てこなのよ」
「変てこって」
「つまり、雪子さんはお家からでていったように思われないんですって、お家には、雪子さんの靴を始め履物全部がちゃんとしているの。だのに、家中どこを探しても雪子さんの姿が見えないの。変てこでしょう」
母親は道夫のために小箪笥からおやつの果物をとりだして、紫檀の四角いテーブルのうえへならべながらいった。
「じゃあ、雪子姉さんは、はだしで家をでたんでしょう」
「ところが、そうとも思われないのよ。なぜってね、雪子さんは昨夜おそくまで自分の研究室で仕事をしていらしたの。そして研究室には内側からちゃんと鍵がかかっていたんですって、今朝木見さんのお父さんが雪子さんの部屋をおしらべになったときにはね。だから雪子さんは、研究室の中に必ずいなさらなければならないはずなのに、実際は、扉をうち破って調べてみても、雪子さんの姿がないのですってよ」
「へえ、それはふしぎだなあ」
内側から鍵をかけた密室の中から、雪子姉さんの姿が完全に消えてしまうなんて、そんなことがあっていいであろうか。
「ああ分った。窓からでていったんでしょう」
「いいえ、窓も皆、内側から錠が下りていたのよ」
「じゃあ、研究室の外から鍵をかけて、でていったんじゃないかしら」
「ところがね、研究室の扉の鍵は、内側からさしこんだまんまになっているんだから、外から別の鍵をつかうわけにはいかないんですって」
「ふうん。それじゃ雪子さんは、煙になって煙突からでていったとしか思われませんね」
道夫は、ついにわけがわからなくなって、そんな無茶なことをいってみるしかなかった。
「さあ、煙突のことは、まだ聞かなかったけれどね、まさかあの煙突からはね……」
茶の間から植込と塀越しに、お隣の古風な煉瓦造りの赤いがっちりした煙突が見える。しかしあの煙突から雪子姉さんがでられるとは思われなかった。冬、石炭をもやすと煙が二条になってでてくるところから考えて、あの煙突の上は、あまり太くない土管が二つ平行に煙の道をあけているのに違いない。そうだとすれば、その土管は鼠か猫ならばともかく、人間が通り抜けることはできないであろうに。考えれば考えるほど、ふしぎな雪子学士の行方不明だった。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页