海野十三全集 第9巻 怪鳥艇 |
三一書房 |
1988(昭和63)年10月30日 |
1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷 |
南方航路
そのころ太平洋には、眼に見えない妖しい力がうごいているのが感じられた。
妖しい力?
それは一体なんであろうか。
ひろびろとしたまっ青な海が、大きなうねりを見せてなんとなく怒ったような表情をしているのだ。
ときどき、水平線には、一条の煙がかすかにあらわれ、やがてその煙が大きく空にひろがっていくと、その煙の下から一つの船体があらわれる。
それは見る見るどんどんと形が大きくなり、やがてりっぱな一艘の汽船となつて眼の前をとおりすぎる。
黄色の煙突、白い船室、まっ黒な船腹、波の間からちらりとみえる赤い吃水線、すんなりと天にのびた檣――どれもこれも絵のようにうつくしい。見たところ、平和そのものである。
だが、波浪は、なんとなしに、怒った表情に見える。船の舳を噛む白いしぶきが、いまにも檣のうえまでとびあがりそうに見える。どんと船腹にぶつかった大きなうねりが、その勢いで汽船をどしんと空中へ放りあげそうに見える。なにか、海は感情を害しているらしいのだ。
こんな噂もある。
太平洋に、やがて空前の大海戦がはじまるだろう。それは遅くとも、あと半年を待たないだろう。太平洋をはさんだたくさんの国々が、二つに分れ、そしてこの猛烈な戦闘が始まるのだ。そのとき悪くすると、遠く大西洋方面からも大艦隊が馳せさんじて、太平洋上で全世界の艦隊が砲門をひらき、相手を沈めるかこっちが沈められるかの決戦をやることになるかもしれない。そうなると、太平洋というそのおだやかな名は、およそ縁どおいものとなり、硝煙と、破壊した艦隊の漂流物と、そしておびただしい血と油とが、太平洋一杯を埋めつくすだろう。そういう噂が、かなりひろく伝わっているのだ。
太平洋が、ついにそのおだやかな名を失う日が来るのを嫌って、それで怒っているのかもしれない。
実をいえば、世界各国の汽船は、いまやいつ戦争が勃発するかわからないので、びくびくもので太平洋を渡っている有様だった。
ここに和島丸という千五百トンばかりの貨物船が、いま太平洋を涼しい顔をして、航海してゆく。目的地は南米であり、たくさんの雑貨類をいっぱいに積みこんでいる。そのかえりには鉱物と綿花とをもってかえることになっているのだった。この物語は、その和島丸の無電室からはじまる。――
ちょうど時刻は、午前零時三十分。
無電機械が、ところもせまくぎっちりと並んだこの部屋には、明るい電灯の光のもとに、二人の技士が起きていた。
一人は四十を越した赤銅色に顔のやけたりっぱな老練な船のりだった。もう一人は、色の白い青年で、学校を出てからまだ幾月にもならないといった感じの若い技士だった。
「おい丸尾、なにか入るか」
年をとった方は、藤椅子に腰をおろして、小説を読んでいたが、ふと眼をあげて、若い技士によびかけた。和島丸の無電局長の古谷だ。
「空電ばかりになりました。ほかにもうなにも入りません」
と、丸尾とよばれた若い技士は、頭にかけた受話器をちょっと手でおさえて返事をした。
古谷局長は大きく肯くと、チョッキのポケットから時計をひっぱりだして見て、
「ふむ、もう零時半だ。新聞電報も報時信号もうけとったし、今夜はもう電信をうつ用も起らないだろうから、器械の方にスイッチを切りかえて、君も寝ることにしたまえ」
器械というのは、警急自動受信機のことである。これをかけておくと、無電技士が受話器を耳に番をしていなくても、遭難の船から救いをもとめるとすぐ器械がはたらいて、電鈴が鳴りだす仕掛になっているものだ。この器械の発明されない昔は、必ず無電技士が一人は夜ぴて起きていて、救難信号がきこえはしないかと番をしていなければならなかったのである。今は器械ができたおかげで、ずいぶん楽になったわけである。
「じゃあ局長、警急受信機の方へ切りかえることにいたします」
「ああ、そうしたまえ。僕も、すこし睡くなったよ」
丸尾は、配電盤にむかって、一つ一つスイッチを切ったり入れたりしていった。間違えてはたいへんなことになる。
彼は、念には念を入れたつもりであった。さらに念を入れるため、古谷局長の検閲を乞おうとして、局長の方をふりかえった。そのとき局長は、本の頁をひらいたまま藤椅子のうえで気持よさそうに早や睡っていた。睡っているのを起すまでもないと思い、丸尾はそのままスイッチの切りかえを完了したものだった。
ところが丸尾が机のうえを片づけにかかっていると、急にけたたましく電鈴が鳴りだした。
スイッチを切りかえてから、ものの五分とたたない。
遭難船からのSOSだ!
局長は、電気にかかったように藤椅子からはね起きた。
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