海野十三全集 第7巻 地球要塞 |
三一書房 |
1990(平成2)年4月30日 |
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷 |
上海四馬路の夜霧は濃い。
黄いろい街灯の下をゴソゴソ匍うように歩いている二人連の人影があった。
「――うむ、首領この家ですぜ。丁度七つ目の地下窓にあたりまさあ」
と、斜めに深い頬傷のあるガッチリした男が、首領の袖をひっぱった。
「よし。じゃ入れ、ぬかるなよワーニャ」
と、首領と呼ばれた眼玉が魚のように大きい男は、懐中からマスクを出して、目にかけた。
合図の数だけ入口を叩くと、重い木製の扉が静かに内に開いた。
前室を通って、次の部屋にとびこむと、ここはガランとした広間だ。
ガランとしたこの室には、中央に大きな古い卓子が一台。そのほかには隅に背の高い衝立が一つあるばかり。
「おお、――」
と声があって、その衝立のうしろから現われた異様な人物。長い中国服を着、その上に白い実験衣をフワリと着ている猫背の男だった。頭髪も髭ものびっぱなしで、顔の中から出ているのは色の悪いソーセージのような大きな鼻だけだった。両眼の所在は、煙色のレンズの入った眼鏡に遮られて、よくは見えない。服装や身体つきから見ると、中国人らしいところもあるが、大きな鼻や深い髭から見ると西洋人のようでもある。
「やあ、楊博士」とワーニャは、相手を楊博士とよび、「こっちが首領ウルスキー氏だ」
楊博士は、よろめくようにして卓子の縁をつかんで、グッと顔を前につきだした。
「おお貴様だ。さあ盗んだものを早く返せ」
楊博士は髭をブルブルふるわせて叫んだ。
「うむ、これだろう」
と、ウルスキーは上着の下からピカピカ光る人の顔ほどある黄金の環を出して、博士の方に見せた。
「あッ、それだッ」
と、博士が蛙のようにとびついてゆくのをワーニャが横合からとんできて、博士の身体をつきとばした。
博士はドンと尻餅をついて、蟾蜍のように膨れた。
「ど、どっこい、そうはゆかないよ。見かけに似合[#ルビ「にわ」はママ]わず、太い先生だ。これが欲しければ、約束どおり、あれを実験して見せろ。よく話をしてあった筈じゃないか」
博士は膝頭に手をおいて、ヨロヨロと立ちあがったが、
「じゃあ、実験をして見せりゃ、必ず返すというんだナ」
「そうだ。待たせないで早くやらないか」
博士はシブシブと承知の色を示した。
彼は腰を折りまげて、卓子の下を覗きこむと、のろのろした立居振舞とはまるでちがった敏捷な手つきで、一抱えもあろうという大きな硝子壜をとりだして、卓子の上に置いた。その壜は横に大きな口がついて、扁平な摺り合わせの蓋がついていた。
「さあ、こっちへよって、よく見るがいい」
博士は手招きした。
首領ウルスキーは、それッとワーニャに目くばせをして、今のうちに、奥まった隅にある衝立の蔭を見ておけと合図をした。
ワーニャは楊博士が卓子の上の硝子壜に気をとられている間に、衝立のうしろを素早く覗いてみたが、そこには仕切られた土間と壁があるばかりで、外に何物も見えなかった。
ウルスキーはワーニャの答に、安心の色を見せた。怪博士楊羽の魔術?には、これまでに幾度も苦い目にあっていたから。
「さあ、この中を見るがいい。お前たちには何が見えるかナ」
二人の訪問客は、博士の指す硝子壜のなかを覗きこんだが、中は正しく空っぽで、なにも見えなかった。
「なにもないじゃないか」
「そうだ。それでいい」と博士は髭に蔽われた大きな口をひんまげて薄笑いをし「では待って居れ。こうすると何か見えるかナ」
と、博士は壜の胴中についている蓋をひらいて、懐から出した小さな紙袋から二匹の蠅をポンポンと壜の中に追いやり、そして蓋を締めた。
二匹の蠅はブンブン唸りながら、壜のなかを勢よく飛びまわっていた。
「なアんだ。蠅を入れたのじゃないか。それが見えなくてどうする」
ウルスキーは莫迦にされたとでも思ったものか、腹立たしそうに叫んだ。
「蠅が二匹、たしかに見えるというのだナ。それでよしよし」楊博士は軽く肯き「では暫く、この壜の中の蠅をよく見ておれ。よく見ておれば、今になにか異変を発見するじゃろう。そのときは、儂にいってくれ」
「なにか異変を、だって。うむ、ごま化されるものか」
二人は顔を硝子壜のそばによせ、目玉をグルグルさせて、壜の中をとびまわる蠅の行方を追いかけていた。
そのうちに二人は、
「オヤ、――」
と叫んだ。つづいて間もなく、
「オヤオヤ。これは変だ」
と愕きの声をあげた。
「なにか起ったかナ」
「うむ。蠅が二匹とも、どこかに行ってしまった」
「蠅の姿が見えなくなったというわけだナ。どこへも行けやせんじゃないか。密閉した壜の中だ。どこへ行けよう。第一壜に耳をあてて、よく聞いてみるがいい。蠅はたしかに壜の中を飛んでいるのだ。翅の音が聞えるにちがいない」
二人は半信半疑で、大きな硝子壜に耳をつけてみた。
「なるほど、たしかに翅がブーンブーン唸っている。それにも拘らず蠅の姿が見えない。これは変だ」
ウルスキーとワーニャは、互いに顔を見合わせて、怪訝な面持だった。
しばらくして二人は、云いあわせたようにホッと吐息をついた。
「さあ、これで儂の『消身法』の実験は終ったのだ。約束どおり、その金環を返して貰おう」
と、楊博士はウルスキーの手から金環をふんだくった。ウルスキーは呆然としている。
「これだこれだ。この金環だ。ああよくもわが手に帰ってきたものだ。わが生命よりも尊いこの世界の宝物! どれ、よく中を改めてみよう」
黄金の環が、その宝物かと思ったが、博士はその環の一部をしきりにねじった。すると環が縦に二つにパクリと割れた。博士はソッと片側の金環をとりのけた。中は空洞であった。つまりこの金環は、黄金の管を丸く曲げて環にしてあるものだった。
「ややッ。無いぞ無いぞ、大切な宝物がない。オイどうしたのだ。世界一の宝物を早くかえせ」
ウルスキーは気がついて、
「なにを喧しいことをいうんだ。黄金の環はちゃんとお前の手に返っているじゃないか」
「金環が宝物だといってはいないじゃないか。この環の中に入れてあったものを返せ」
「なにも入っていなかったじゃないか」
「嘘をつけ。たしかに入っていた」
「なにをいうんだ。それじゃ一体何が入っていたというんだ」
「毛だ。毛が一本入っていた」
「毛だって? はッはッはッ。そうだ、ちぢれた毛が一本入ってたナ。その毛が何だ。毛なんてものは掃くほどあるじゃないか」
「その毛を返せ。あれは世界の宝物なのだ。十萬メートルの高空で採取した珍らしい毛なんだ。それを材料にして調べると、他の遊星の生物のことがよく分るはずなんだ。世界に只一本の毛なんだ。これ、冗談はあとにして、その毛をかえせ」
「この『消身法』の実験装置ととりかえならネ」
「うむ、そんなことはいやだ」と楊博士は首をふった。
「ええい面倒くさい。話はこれだ」と、首領ウルスキーは懐中からピストルを出して、博士の胸もとにつきつけ「折角かえしてやろうというのに、要らなきゃ黄金の環もこっちへ貰って置く。おいワーニャ。お前はその『消身法』の硝子壜を貰ってゆけ」
「へへえ、この気味のわるい硝子壜をですかい」
そのとき卓子の下から濛々と煙がふきだした。
「ほら、博士の奥の手が始まった。早く引きあげないと、またこの前のようにひどい目に遭う、気をつけろ」
首領の怒鳴っているうちに隙があったものか、博士はヒラリと身を翻して、衝立のうしろに逃げこんだ。
「どこへ逃げる。こいつ、待てッ」
とウルスキーは博士を衝立のうしろに追いこんだ。だが、彼は衝立のうしろに、何にもない空間を発見したに過ぎなかった。そこへ逃げこんだにちがいない博士の姿がまるで煙のように消えてしまったのである。
「ワーニャ、硝子壜をもってすぐ逃げろ。ぐずぐずしていると、生命が危い」
ワーニャは決心して硝子壜を抱えあげた。壜はわりあいに重かった。
二人は出口の方へ向って走りだした。
とたんにガチャンと大きな音がした。
「失敗った」
とワーニャが叫んだが、もう遅かった。彼の抱えていた硝子壜は床の上に墜ちて、粉々になった。
二人はワッといって、外に飛びだした。
どっちへ行ってよいかわからぬ四馬路の濃い霧の中を、二人は前になり後になり、必死に駈けだした。
それでも、とにかく博士の追跡をのがれて、首領ウルスキーとワーニャは、一時間あまり後に仏租界に聳えたつ大東新報ビルの裏口の秘密扉の前に辿りついた。
悪漢ウルスキーなる人物は、マスクを取ると、いま上海国際社交界の大立者として知らぬ人なき大東新報社長ジョン・ウルランドその人に外ならなかった。ウルランド氏は、謹厳いやしくもせぬ模範的紳士として、社交界の物言う花から覘いうちの標的となっていた人物だった。
秘密ボタンを押すと、扉がひらいた。二人はビルの中へ転げこむように入っていった。
奥まった密室の安楽椅子のうえに身体をなげだすと、二人は顔を見合せた。
「おいワーニャ。なんだって、あれほど大切な壜を床の上に落したんだ。大きな苦心を積んで、やっと手に入れたと思ったのに、手前の腕も鈍ったな」
「鈍ったといわれちゃ、俺も腹が立ちまさあ。なアに、あの壜には長紐がついていて、その元を卓子にくくりつけてあったんです。その紐てやつが、やっぱり目に見えないやつだったんで、俺だって化物じゃないから、見えやしません。腕からスポンとぬけて、足の下でガチャンといったときに、ハハア目に見えない紐がついてたんだなと、気がついてたってえわけです。化物でもなけりゃ、はじめから気がつく筈がない。――」
「ワーニャ、愚痴をいうのはよせ。いまさらグズグズいったって、元にかえりゃしない」
ウルスキーは腹立たしそうに、太い葉巻をガリガリと噛んだ。
「ねえ、首領」とワーニャは機嫌をとるようにいった。「楊博士の奴は、ひどく悄気てたじゃないですか。たかが、たった一本の毛のことでねえ。莫迦らしいっちゃないや」
「うん。学者なんてものは、おかしなものさ。だが――」と彼は起き直って「あれがほんとに十萬メートルの上空で採取したもので、火星の生物の毛ででもあったら、こいつは素晴らしい新聞の特種だ。よオし、こいつは儲け仕事だ。オイ、ワーニャ、お前すぐ編集次長のカメネフを電話でよびだせ」
「でも首領」とワーニャは急に不安な顔をして「そいつは大きに考え物ですぜ。あの宝物の毛をなくしたことについて博士は千萬ドルの紙幣を焼かれたようにブルブル慄えて怒っていましたぜ。あいつはきっと復讐せずにいないでしょう。ああそれなのに、あの火星獣の毛のことをうちの新聞に素っぱぬくなんて、彼奴の憤慨の火に油を注ぐようなものですよ。そしてもしか、社長がギャングの大将だと嗅ぎつけられてごらんなさい。そのときは新聞の読者は半分以下に減りますよ。これは考えなおしたがいい」
「なにを臆病なことをいいだすんだ。こんな素晴らしいチャンスを逃がすなんてえことが出来ると思うかい。引込んでいろ」
「だって首領。あの楊博士と来た日にゃ……」
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