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或る日、一つの夢を見た。
乃公は長い廊下を歩いていた。不思議なことに、窓が一つもない廊下なんだ。天井も壁もすべて黄色でね、とても大変長いのだ、両側には、一定の間隔を置いて、同じような形をしたドーアが並んでいた。乃公はそのドーアのハンドルを一つ一つ、眼だけギロリと動かしながら検分してゆくのだ。そのハンドルは皆真鍮色をしているんだったが、五つ目だったか六つ目だったかに、ただ一つピカピカ、金色をしたハンドルがあるのだ、それは確か廊下の左側だったよ。
「金色のハンドル!」
燦然たるハンドルの前までくると、乃公の手はひとりでにそのドーアの方へ伸びてゆくのだった。その黄金のハンドルを握って、グルリとまわして、向うへ押すのだった。無論いつだってそのドーアは向うへやすやすと明いたさ。乃公は吸いこまれるように、その室の中へ入ってゆくのだった。
その部屋は十坪ほどのがらんとした客間だった。真ん中に赤い絨毯が敷いてあってね、その上に水色の卓子と椅子とのワン・セットが載っているのだ。卓子の上にはスペイン風のグリーンの花瓶が一つ、そして中にはきまって淡紅色のカーネーションが活けてあった。
この部屋はたいへん風変りな作りだった。それが乃公の気に入っていたわけだが、奥の方の壁に大きな鏡が嵌めこんであったのだ。それは髪床の鏡よりももっと大きく、天井から床にまで達する大姿見で、幅も二間ほどあり、その欄間には凝った重い織物で出来ている幅の狭いカーテンが左右に走っていた。カーテンの色は、生憎その鏡のある場所が小暗いためよくは判らなかったが、深い紫のように見えた。もちろんその鏡の上には、こっちの部屋の調度などがそのまま反対に映っていた。乃公は部屋に入ると、第一番につかつかとその鏡の前まで進み、自分の顔をみるのが楽しみだった。鏡の位置が奥まって横向きになっていたため、鏡の前へ立たないと自分の顔は見えなかった。――乃公はそこでいつも勇ましい自分の顔を惚れ惚れと見つめるのだった。ヴィクトル・エマヌエル第一世はこんな顔をしていたように思うなどと、私は反身になった。鏡の中の乃公の姿も、得意そうに、反身になったことである。
鏡の前で、さんざん睨めっこや、変な表情や滑稽な身ぶりをして楽しんでいると、背後に突然人声がしたのだった。
「お飲みものは如何さまで……」
それは若い男の声だった。
ふりかえってみると、いつの間にか卓子の上に、銀の盆にのった洋酒の壜と盃とが並んでいた。そして入口のドーアを背にして、いま声を出したのであろう、立派な顔をしたスポーツマンらしい青年が立っている。いやそれだけではない、彼の青年とピッタリ寄りそって、一人の若い女が立っているのだった。彼等はいつの間に、どこから入ってきたのだろう。
その女は、はじめ下を向いていたが、やがてオズオズと顔をあげて、乃公の方を睨むように見たのであった。
(呀ッ)
乃公はいきなり胸をつかれたように思って、はっと眼を外らせた。ああ、その女は乃公の愛人だったのである。若い男となんか手をとりあって入ってきやがってと、乃公の心は穏かでなかった。
だが乃公は、ここで慌てるのは恥かしいと思った。飽くまで悠々と落付きを見せて、卓子の方へ近づき、二人を背にして腰を下ろした。そして洋盃の中に酒をなみなみと注いで、そして静かに口のところへ持っていった。
ひそひそと、若い男女は乃公の背後で喃々私語しているではないか。その微な声がアンプリファイヤーで増音せられて、乃公の鼓膜の近くで金盥を叩きでもしているように響くのであった。
(あいつら、唯の仲じゃないぞ。もう行くところまで行っているに違いない!)
乃公はぐっとこみあげてくるものを、一生懸命に怺えた。でもむかむかとむかついてくる。乃公は目を瞑じて、洋盃をとりあげるなり、ぐぐーっと一と息に嚥み干した。そして空になった洋盃を叩きつけるようにがちゃりと、卓上に置いたのである。――二人の私語ははたと熄んだ。
乃公は慌てないで、じっと取り澄ましていた。(あいつら、なんのために、乃公に見せつけに来たのか?)乃公が気がつかないと思っているのだろうか。それならそれでいい。よおし、こっちもそのつもりで居てやろう。
乃公は震える足を踏みしめて、椅子から立ち上った。そして二人の方を見ないようにして、静かに奥の、大鏡の方へ歩いていった。
乃公はいつの間にか、鏡の真際に寄って立っていた。鏡をとおして二人の男女の様子を見ると、彼等は身体と身体を抱きあわんばかりにして、もつれ合っていた。女の方が挑もうという姿勢をする。と、若い男の方が、僅かに逡巡の色を見せるという風だった。乃公の血は、足の方から頭へ向けて逆流した。
鏡を見ると、自分の顔は物凄いまでに表情がかわっていた。肩のあたりがわなわなと慄えているのが見えた。乃公が鏡の中から監視しているとも識らず、乃公の背後で不貞な奴等は醜行を演じかかっているのだ。乃公はすこし慌ててきた。声を出そうと思ったが咽喉がからからに乾いて声が出てこない。気を落付けなくてはいけない――
乃公は煙草の力を借りようと思ったので、ポケットに手を入れて、そっとシガレット・ケースを引張りだした。そして蓋をあけようと思ったが、どうしたのか明かない。乃公はそれを身体の蔭でやっているのである。顔を動かすこともいまは慎まねばならないときだと思ったので、乃公は鏡に映っているその手を見た。そしてシガレット・ケースを見た。
(おや?)
乃公はちょっと吃驚した。わが手の中にあるのは、シガレット・ケースではなかったから……。
(……ピストル!)
乃公の握りしめているのは、一挺のブローニングの四角なピストルだったではないか。乃公はふらふらと眩暈を感じた。
すると、そのときだった。鏡の中の乃公はそのピストルを持つ手を静かに腹の方から胸へ上げてゆくのであった。そんな筈ではなかったのだが、乃公の意志に反してじりじりと上ってゆくのであった。奇怪なことにも、鏡の中の乃公の手は、乃公の本当の手よりも先にじりじり上へ上ってゆくのだった。ずいぶん気味のわるい話であるが、鏡の中の自分の方が、お先へ運動を起してゆくのだった。乃公はじっとしているのがとても恐ろしくなった。鏡の前に立っている自分が、この儘じっとしているなら、乃公は発狂するかもしれない。鏡の中の自分が動いて、その前に立っている筈の自分が動かないということは、とりもなおさず、鏡の前に立っている乃公の本体が既に死んでしまっているのだという事実を証明することになるではないか。
(……)
切り裂くような大戦慄が全身を走った。乃公は慌てて、鏡の中にうつる乃公のあとを追って、ピストルを持つ腕を胸の方にぐんぐんあげた。だから間もなく乃公は、鏡の中の乃公に追いついた。
(ああ、恐ろしかった!)
乃公は身体中びっしょり汗をかいた。
ピストルは、遂に胸の上いっぱいに持ち上がった。銃口がぴたりと左の肩にあたる。それから左の肩がじりじりと廻転してゆく。半眼を開いて、照準をじっと覘う。狙いの定まったままに、なおもじりじりと左へ廻転してゆく。
「き、き、き、きっ……」
というような声をあげて、何も知らない二人は戯れ合う。
「ち、畜生!」
憎い女だ、淫婦め!
ちらと鏡の中に、自分の顔を盗みみると、歯を剥きだして下唇をぐっと噛みしめていた。口惜しさ一杯に張りきった表情が、必然的に次の行動へじりじり引込んでゆく。引金にかかっている二本の指がぐっと手前へ縮んで……
「どーン」
あ、やった。
「……う、ううーン」
電気に弾かれたように、女はのけぞった。そして一方の手は乳の上あたりをおさえ、もう一方の腕は高く宙をつかんだかと思うと、どうとその場に倒れてしまった。
「人を殺した。とうとう乃公は、人殺しを実演してしまったのだ!」
乃公は、床の上に倒れている女の方へ近づいた。眠ったように女は動かない。見ると衣服の胸の上に、大きな赤い穴が明いて、そこから鮮血が滾々と吹きだして、はだけた胸許から頸部の方へちろちろと流れてゆくのであった。――男はいつの間にか、姿が見えない。ドーアから飛ぶようにして出ていったのであろう。
「ああ、乃公は人を殺してしまった……」
乃公は呟いた。しかし、そのとき、どっかでせせら笑うような乃公の声を聞いたように思った。
「うん、そうだった。いま、乃公は人殺しの夢を見ているんだ。……さあ、あんまり駭くと、惜しいところでこの夢が覚めてしまうぞ。本当に人殺しをしたように、がたがた慄えていなくちゃ駄目じゃないか。もっと怖がるんだ。もっともっと……」
――そうこうしているうちに、乃公はそれから先の記憶を失ってしまった。女を殺した場面は以上のところまでしか覚えていない。
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