猫の実験
見えない人ドクター・ケンプは、一息ついた後で、ふしぎな物語をつづける。
「ものに光があたったとき、その形が見えるのはなぜか。それは光がその物体にあたって反射するからだ。あるいは光が中へはいって屈折するからだ。もし光があたっても、光が反射もしなければ屈折もしなければ、ものガラスの形は全然見えなくなるのだ。……硝子板は透明だが、ちゃんと形が見える。これは反射のない場合でも、光は空気の中よりも硝子の中でひどく屈折するからだ。
その硝子板を水の中につけてみる。と、こんどは前の場合よりずっと見えにくくなる。これは水の屈折率が硝子の屈折率とほとんど同じだから、光は硝子板をまっすぐに通りすぎる。そこで硝子板の形が見えにくくなるのだ。……もし硝子板をこなごなにこわした上で、水の中に入れてみる。するとその硝子の粉は、ほとんど完全に見えなくなる。これが偉大なるヒントだ。だからもし人間のからだの屈折率を、空気と同じにすることができればいいんだ。そして同時に、光を反射もしないし吸収もしないようにする。ああ、すばらしい思いつきではないか。そしてぼくは遂にその偉大なる仕事をやりとげたのだ。ごらんの通りだ。
ここにあるぼくの身体が見えるかい。硝子板は見えるが、ぼくの身体は、どう透してみようが決して見えないのだ。ぼくの身体をこしらえている細胞は、或る方法によって変えられ、空気の中では全く見えなくなっているのだ。しかし細胞を変えるときには前後十時間、死ぬような苦しみをした。説明もなにもできないような苦しみを……」
ごとごとごとと、ビーカーの中の湯が沸騰をはじめた。
「ぼくは、さっきもいったように、第一番に一本の紐を見えないものにした。その次、第二番目には、動物にそれをためして見た。一ぴきの仔猫が、いつも窓の向こうへのぼって日なたぼっこをしていた。ぼくはその仔猫を実験に使おうと思った。ぼくは、そっと硝子窓をあけて、喰いのこした鰊を見せた。仔猫は何なく中へ入ってきた。
仔猫が満腹して、椅子の上で睡りだしたとき、ぼくはモルフィネを注射して、完全に睡らせてしまった。二十四時間は睡りつづけるだろう。ぼくは仔猫を抱きあげて、ダイナモの前においた。それから念入りに装置をしかけ、仔猫の細胞をかえにかかった。五時間を過ぎると、仔猫の身体はだんだん白っぽくなってきた。それから手足の先が、ぼんやりしてきた。七時間目には、仔猫は目をふさいだままだったが、あばれだして、口からものをはきちらした。よほど苦しいらしい。そして一時間たった。遂に仔猫の身体は見えなくなった。しかし手をやってみると、仔猫の身体はちゃんと台の上にあった。
だが仔猫の姿はまだ完全に見えなくなったわけではなかった。うすい青い丸い玉が二つ、台の上三センチばかりのところに宙に浮んでいた。それは猫の眼玉だった。なかなか色のぬけないのは、眼玉のひとみの色と毛の色、それから血の色だった。だから仔猫の眼玉が完全に消えてしまったのは二十時間後だった。
ぼくは手さぐりで、仔猫をゆわえてあるバンドをといた。そして部屋の隅の箱の中に移した。それからぼくは睡った。この実験のために非常に疲れていたから。
長い睡りから目をさました。猫の声がうるさく耳についたからだ。起きあがったが、猫の声はするが、姿は見えない。ぼくは直ぐ気がついた。『しまった、猫を紐でしばっておくんだった』と。ぼくはそれから部屋の中をぐるぐるまわって、猫の声を目あてに追いかけた。だが、なかなかつかまらない。そのうちにぼくは、箒で硝子窓を壊してしまった。猫の声がしなくなったのは、それから間もなくのことだった。見えない猫は、硝子の穴から外へとびだしたのにちがいない。
だからこの世の中に、見えない猫が一ぴき、すんでいるのだ。気をつけて下さいよ、その猫にいきあたったら。いつその猫に、のどをかき破られるか分らないんだ。気が変な猫になっているのだからね。……え、何か今、あなたがたの足の下を走ったって。ああ、あの透明猫かもしれない」
そのとき東助とヒトミは、たしかに猫の声を聞いた。この部屋の戸棚の上に。……だが猫の姿も見えなかったし、語り手の姿も同様に全く見えなかった。二人の前に見えるのは、ビーカーから高くたちのぼっている湯気ばかりだった。
蠅のテレビジョン劇
ふしぎなポーデル博士の、ふしぎな国々への案内はつづく。
東助とヒトミは、ポーデル博士の操縦する樽ロケット艇にのって、ふしぎな旅をつづける。
「博士。こんどはどんなふしぎな国へつれていって下さるんですか」
東助が、顔をかがやかして、きいた。
「こんどは、なかなか深刻なところへ案内いたします」
「深刻なところって、どんなところですの」
ヒトミも座席から、からだをのりだす。
「蠅の社会へ案内いたします」
「あら、蠅の社会が深刻なんですか」
「蠅の考えていること、人類にとってはなかなか深刻あります。これから私案内するところは、蠅が作り、そして蠅が演ずるテレビジョン劇であります。それをごらんにいれます」
「まあ、すてき。蠅でも劇をするんですの。しかもテレビジョン劇なんて、あたらしいものを」
「人類は、人類のこととなるとわりあいによく知っていますが、その他のこと、たとえば馬のこと、犬のこと、兎のこと、毛虫のこと、蠅のことなどについては、あまりに知りません。それ、よくありません。蠅が何を考えているか、それらのこと、よく知っておく、はなはだよろしいです」
ポーデル博士は、いつになく深刻な顔つきになって、そういった。
「その蠅のテレビ劇を見るには、どこへいけばいいんですか」
「ヒマラヤ山の上へのぼります。そして山の上から下界に住む蠅の世界がだすその電波を受信しましょう。ああ、きました。ヒマラヤのいただきです。しずかに着陸します」
博士のいったとおり、樽ロケット艇は気持よく、ゆっくりと着陸した。
「外へでるのですか」
「いや、外はなかなか寒い。今でも氷点下三十度ぐらいあります。蠅のテレビ劇は、この樽の中で見られます。この器械がそれを受けてこの四角い幕に劇をうつします。また蠅のいうことばを日本語になおしてだします」
「蠅のことばが、日本語になるんですの。そんなことができるんですか」
「できます。ものをいうとき、何をいうか、まず自分が心の中で考えます。考えるということ、脳のはたらきです。脳がはたらくと、一種の電波をだします。その電波を増幅して放送します。それを受信して、復語器を使って日本語にも英語にも、好きなことばになおします。わかりましたか」
「わかったようでもあり、わからないようでもあり」と東助は首をふって「それより早く、その蠅の劇を見せて下さい。いや見せて聞かせて下さい。その方が早わかりがします」
「よろしい。すぐ見せます。あなたがた、椅子をこの前において腰かける、よろしいです」
そういって博士は、後向きになって、蠅の脳波を受信するテレビ受信機のスイッチを入れ、たくさんの目盛盤をひとつずつまわしはじめた。
すると、四角い映写幕に光がさして、ぼんやりした形があらわれて、ゆらゆらとゆれ、それからかすかなしゃがれた声が高声器の中からとびだした。
「何かでましたね。しかし何だかはっきりしませんね」
東助はいった。ヒトミも前へのりだす。
「今もうすこしで、はっきりします。お待ち下さい」
なるほど、そのとおりだった。間もなく急に画面がはっきりし、くさったかぼちゃの上に五六ぴきの蠅がたかっているところがうつりだした。
と、声も又はっきりしてきた。羽根の音がぶんぶん、くちばしから、かぼちゃの汁をすう音がぴちゃぴちゃと、伴奏のように聞えるなかに、蠅たちは、しきりにおしゃべりをしている。――
「アナウンスをいたします。これは『原子弾戦争の果』の第二幕です。あまいかぼちゃ酒がたらふくのめる、ごみ箱酒場で、大学教授たちが雑談に花を咲かしています」
「とにかく人類は横暴である。かれらの数は、せいぜい十五億人ぐらいだ。この地球の上では、人類は象と鯨につづいて、数のすくない生物だ。それでいて、かれら人類は、地球はおれたちのものだ、とばかりに横暴なことをやりおる。まことにけしからん」
「まったくそのとおりだ」
「そうでしょう。数からいうと、人類なんか、われわれ蠅族にくらべて一億分の一の発言権もないはずだ。ところが人類のすることはどうだ。蠅叩きという道具でわれわれを叩き殺す。石油乳剤をぶっかけて息の根をとめる」
「まだある。蠅取紙という、ざんこくなとりもち地獄がある」
「ディ・ディ・ティーときたら、もっとすごい。あれをまかれたら、まず助かる者はない」
「あれは、まだ値段が高くて、あまりたくさん製造できないから、人類は思い切ってわれわれにふりかけることができない。まあそれでわれわれは皆殺しにあわなくて助かっているんだが、考えるとあぶないねえ」
「人類は、どこにわれわれ蠅族を殺す権利を持っているんだ。けしからん。天地創造の神は、人類だけを作りたもうたのではない。象を作り、ライオンを作り、馬を作り、犬、猫、魚、それから蛇、蛙、蝶、それからそのわれわれ蠅族、その他細菌とか木とか草とか、いろいろなものを作りたもうた。われわれは神の子であるが故に、平等の権利を持って生れたのだ」
「そうだ。そのとおりだ。人類をのけたすべての生物は、人類に会議をひらくことを申込み、その会議の席でもって平等の権利を、人類にもう一度みとめさせるんだ。そして人類を、小さいせまい場所へ追いこんでしまわなくてはならぬ」
「大さんせいだ。蚊族、蝶族、蜂族などをさそいあわして、さっそく人類へ会議をひらくことをしょうちさせよう」
「それがいい。そうでないと、われわれはほろびる」
「やあ、諸君は、何をそんなに赤くなって怒っているのか」
「おお、君か。おそかったね。さあ、ここに席がある」
「ありがとう。……ちょっと聞いたが、また人類の横暴を攻撃していたようだね」
「そうなんだ。だからひとつ地球生物会議をひらかせ、人類をひっこませようと思うが、どうだ」
「もうそんなことをするには及ばないよ。人類はもうしばらくしたら亡んでしまう。人類は自分で自分を亡ぼしかかっている」
「ほんとかい。そんなことを、どこで聞いてきたのか」
「これは私の推論だ。いいかね、人類は最近原子弾というものを発明した。それは今までにないすごい爆発力を持ったもので、たった一発で、何十万何百万という人間を殺す力がある。そういうすごい原子弾を、人類は競争でたくさんこしらえている」
「ふーん、それはすごい。われわれはもちろん殺されてしまうね」
「それはそうだが、まあ待て。人類は亡びるが、われわれは亡びないんだ。というわけはやがて人類同士でこの次の戦争を始めるとなると、こんどはもっぱらこの原子弾を使う戦争となるわけだ。これはすごいものだぞ。戦う国と国とが、たがいに相手の国へ原子弾の雨を降らせる」
と、ものすごい原子弾炸裂の音響があとからあとへとつづく。そして原子弾をはこぶ無人ロケット艇の音がまじって聞える。また地上からは、死にいく人々のかなしい呻き声がまいあがる。サイレンの音。高射砲の音。無電のブザーの音、聞えてはとぎれ、とぎれてはまた弱く聞えだす。と、また次の原子弾炸裂音が始まる。
「すごいじゃないか。おやおや、さっきまであった大都市が、影も形もないぜ。見わたすかぎり焼野原だ」
「今の爆撃で、五百万の人間が死んだね。生きのこっているのはたった二十万人だ。しかしこの人間どもも、あと三週間でみんな死んでしまうだろう」
「われわれ蠅族も、そば杖をくらって、かなりたくさん殺されたね」
「しかしわれわれの全体の数からいえば、いくらでもない。ところが今殺された五百万の人類は、人類にとっては大損失なのだ」
「なぜだい。人類はもともと数が少いからかい」
「いや、そうじゃない。今殺された五百万人の中には、あの国の知識階級の大部分がふくまれでいたんだ。一度に、知識階級の大部分を失ったことは、たいへんな痛手だ。この国は、もう一度立直れるかどうか、あやしくなった」
と、またもや原子弾の炸裂音と死んでいく人々のさけび声がする。但し、こんどは遠方から聞える。
「やられた、やられた。この国はもう実力を失った。おしまいだ」
「どうしたんだね。どこだい、今の爆撃された場所は……」
「あれはね、この国の秘密の原子弾製造都市だったんだよ。ほら、見える。すごいね。原子弾が地中にもぐって炸裂したんだ、あのとおりどこもここも掘りかえされたようになっている。製造機械も、原子弾研究の学者も製造技師もみんな死んでしまった。この国は、もう二度と原子弾を製造することはできない。おしまいだ」
「没落だね。するとこの国にかわって敵国がいばりだすわけかな」
「さあ、どうかね。この国だって、おとなしく原子弾にやられ放しになっていたわけじゃあるまい。きっと敵国へも攻撃をするにちがいない」
チリチリチリンと電話のベルが鳴る。
「ああ、もしもし」
「ああ、もしもし。ああ君だね。えらいことが起ったよ。こっちの首都は、さっき原子弾の攻撃をうけて全滅となった。それからね、原子弾工場地帯が十カ所あったが、それが一つ残らず攻撃を受けて、器械も技師もみんな煙になって消えてしまったよ。もうこの国はだめだ。生き残っているのは、知識のない人間ばかりだ」
「そうだったか。やっぱりね」
「やっぱりね、とは?」
「こっちの国もそのとおりなんだ。ああ、今ぞくぞく情報が集ってくるがね。こっちのあらゆる都市や地方が、無人機にのっけた原子弾で攻撃を受けているよ。人類の持っていた科学力はことごとく破壊された。知識のある人類は、みんな殺されてしまった。ああ、人類の没落が始った。人類の没落だ。ざまァみやがれ」
「やーい、人類。ざまァみろ。さあ、この機をはずさず、われわれ全生物は人類に向って談判をはじめるんだ」
「そうだ。さしあたり、蠅叩きや蠅取紙を全部焼きすてること。石油乳剤やディ・ディ・ティー製造工場を全部叩きこわすこと。それを人類に要求するのだ」
「窓の網戸をてっぱいさせるんだ。われわれの交通を妨害することはなはだしいからね」
「これから、われわれの仲間を一匹たりとも殺した人間は死刑に処する」
「死刑だけでは手ぬるい。死刑にした人間の死体を、われわれ蠅族だけで喰いつくすんだ。それゆけ」
驚きの曲が鳴りだす。そして……
「アナウンスいたします。このところ一千年たちました」
「はっはっはっはっ」
「うわッは、はッはッ」
「ほほほほ。ほほほほ」
「ははは、愉快だ。もう満腹だ。のめや、うたえや。われらの春だ」
「愉快、愉快。人類も滅亡したし、ライオンも虎も、牛も馬も羊も犬も、みんな死に絶えた。みんな原子弾の影響だ。そしてわれわれ蠅族だけが生き残り、そして今やこの地球全土はわれわれの安全なる住居となった。ラランララ、ラランララ」
「うわーイ。ラランララ、ラランララ。ひゅーッ」
「わが蠅族の地球だ。世界だ。はっはっはっはっ。人間なんかもう一人もいやしない」
終幕の音楽。
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