臨床実験のことも、病院の経営のことも、いまや彼女の脳裡から次第次第に離れていった。万吉郎を家から抜けださせないこと、そして他の女に奪われないこと、その二つのことがらを常々心にかけて苦労のたけをつくしていた。
だから、たまたま万吉郎が外出するときなど、他人には到底みせられないような大騒ぎが起った。ここには明細にかきかねるが、とにかくヒルミ夫人は万吉郎の身体に蛭のように吸いついて、容易に離れようともしなかったのである。万吉郎はちょっと髪床にゆくのだというのに、このばかばかしい騒ぎであった。
そんなことが、万吉郎の心をヒルミ夫人からずんずん放していった。それはそうなるのが当然すぎるほど当然のことだったけれどまたたしかに人間の情けの世界の悲劇でもあった。
「あなた、よくまああたしのところへ帰ってきて下すって」
夫が帰ってくると、ヒルミ夫人はひと目も憚らず、潜々と涙をながして、逞しき夫の胸にすがりつくのであった。
そうしたヒルミ夫人の貞節が、万吉郎に響いたのであろうか、ヒルミ夫人の観察によればこの頃夫の万吉郎は、すっかり人が違ったようにすべての行為に関し純真さと熱情とをとりかえしていた。ときにいつもの口調で怒鳴りつけられることもあったが後で室に下ったときには、夫の機嫌はおかしいほど好転するのであった。ヒルミ夫人の考えではやがて昔のような生活の満足感がとりもどされるにちがいないと期待を持つようになった。
或る日のこと、ヒルミ夫人はただひとりで研究室にいた。彼女はその日、なんとはなく疲れを覚えるので、長椅子の上に豊満なる肢体をのせて、ジッと目をとじていた。前にはよくこうして睡眠をとったものである。夫人は久しぶりにしばらくここで睡ってみたいと思った。
ところがいざ目を閉じてみると、どうしたものか、逆に頭が冴々としてきて、睡るどころではなかった。
「――神経衰弱かもしれない」
ヒルミ夫人は微かに頭痛のする額をソッとおさえた。
睡れなくなった夫人は、それでもジッと横になっていた。眼だけパッチリ明いて、動かぬ自分の姿態をながめていると、まるでそこに他人の屍体が転がっているように思えてくる。
ヒルミ夫人は、なんだかますます妙な気持になって来た。脳髄だけが、頭蓋骨のなかからポイととびだしてきそうな気がした。その脳髄にはいろいろな事象が、まるで急廻転する万華鏡のように現れては消え、消えてはまた変って現れるのであった。その目まぐるしいフラッシュ集のなかにヒルミ夫人は不図恐ろしき一つの幻影を見た。それは愛する夫万吉郎そっくりの男が二人、手をつなぎ合って立っている場面だった。
「ああア、もしや本当にそうなのではなかろうか。いやそんなことがあってたまるものではない。――」
ヒルミ夫人は、その恐ろしき幻影を瞬時も早くかき消そうと焦せったが、しかもその幻影ははなはだ意地わるく、だんだんと濃く浮びあがってくるのであった。そのはてには、二人の万吉郎は夫人の方を指してカラカラと笑いころげるのであった。
なんという恐ろしい幻影だろう。
愛する夫が、一人ならず二人もあっていいだろうか。あの水々しい頭髪、秀でた額、凛々しい眉、涼しそうなる眼、形のいい鼻、濡れたような赤い唇、豊な頬、魅力のある耳殻――そういうものをそっくりそのまま備えた別の男があっていいものだろうか。
夫人は急にブルブルと寒む気を感じた。
だが夫人の明徹な脳髄は、一方に於て恐れ戦き、そしてまた一方に於てその意味なき幻影を意味づけようとして鋭き分析の爪をたてた。
「――そうだった。そういう一つの特殊な場合が有り得る。しかもそう考えることは、今日ではもう常識範囲ではないか」
夫人はそこで長大息した。
恐ろしいことだ。恐ろしいアイデアだ。恐ろしい係蹄だ。
夫人をして、恐ろしい係蹄だと叫ばしめたものは何だったか。――それは愛する夫万吉郎が果して真の万吉郎であろうかという恐ろしい疑惑であった。
およそこの世に、顔も姿も、何から何までそっくり同じ人間が二人とあろう筈がない――と、確かにその昔には云えた。しかし今日において、それと同じことが確かに云えるだろうか、同じことが信ぜられるだろうか。いやいや、今日においては――すくなくともヒルミ夫人の田内新整形外科術が大なる成功をおさめてから以来においては、そういうことは全く信じられなくなったのだ。
丁度死面をとるときのように、一つの原型がありさえすれば、それと全く同じ顔はいくつでも簡単にできるようになっているのだ。もちろんそれは、ヒルミ夫人の開いた新外科術の働きなくしては云いえないことだった。
ヒルミ夫人の新外科術が信頼すべきものであることはヒルミ夫人自身が一番よく知っていた。しかもこの場合、夫人自身が創生したその信頼すべき手術学のために、夫人が生命をかけている愛の偶像を、自らの手によって破壊しさらねばならぬとは、なんたる皮肉な出来事であろうか。
わが掌中にしっかり握っていると信じていたわが夫は、はたして真の万吉郎であろうか。はたして万吉郎か、それとも万吉郎を模倣した偽者か。
夫人は自らの作りあげた入神の技が、かくも自らを苦しめるものとは今の今まで考えなかった。もしこんなことがあると知っていたら、もっと不完全な程度にとどめるのがよかった。神の作りたまえる人間と、寸分たがわぬ模写人間を作ろうとしたことが、既に神に対する取りかえしのつかない冒涜だったかも知れない。
ヒルミ夫人の瞼に、二十数年この方跡枯れていた涙が、間歇泉のようにどッと湧いてきた。
夫人は長椅子の上にガバと伏し、両肩をうちふるわせ、幼童のように声をたてて、激しく鳴咽しはじめた。
そのことあって以来、ヒルミ夫人の頬が俄かに痩け、瞼の下に黝んだ隈が浮びでたのも、まことに無理ならぬことであった。
ひとりで部屋のうちに籠っていれば、疳にうち顫う皓い歯列は、いつしか唇を噛み破って真赤な血に染み、軟かな頭髪は指先で激しぐかき
られて蓬のように乱れ、そのすさまじい形相は地獄に陥ちた幽鬼のように見えた。
それにも拘らず怜悧なるヒルミ夫人は、夫万吉郎を傍に迎えるというときは、まるで別人のようにキチンと身づくろいをし、玉のような温顔をもって迎えるのであった。秋毫も夫万吉郎に、かき乱れたる自分の心の中を気どられるような愚はしなかった。
しかもその際ヒルミ夫人は、その温容なマスクの下から、夫万吉郎の容姿や挙動について、鵜の毛をついたほどの微小なことにも鋭い観察を怠らなかった。もしも万一、その夫が真の万吉郎でない証拠を発見したときは、彼女は直ちに躍りかかって、その偽の万吉郎の脳天を一撃のもとに打ち砕く決心だった。
しかし夫は、なかなか尻尾を出さなかった。尻尾を出さないということは、夫とかしずく男が、依然として真の万吉郎であるという証明にもなったが、同時にまたヒルミ夫人は自らの神経を刺戟して、その男が巧みにも真の万吉郎そっくりに化け終せているのではないかと、もう一歩鋭い観察に全身の精魂を使いはたさなければ気がすまなかった。げに無間地獄とは、このような夫人の心境のことをさして云うのであるかもしれない。
煩悶は日毎夜毎につづいていった。疑惑はまた疑惑を生み混乱の波紋は日を追うて大きく拡がっていった。
そしてとうとう最後には、もう紙一重でヒルミ夫人の脳が狂うか否かというところまで押しつめられた。
夫人は、灯もない夕暮の自室に、木乃伊のように痩せ細った躰を石油箱の上に腰うちかけて、いつまでもジッと考えこんでいた。もうここで敗北して発狂するか、それとも思いがけないアイデアを得て辛くも常人地帯に踏みとどまるか。
「あ、――」
夫人は暗闇のなかに、一声うめいた。
天来のアイデアが、キラリと夫人の脳裏に閃いたのであった。
「あ、救われるかもしれない」
リトマス試験紙が、青から赤に変るように、夫人の蒼白い頬に、俄かに赤い血がかッとのぼってきた。
「――素晴らしい着想だわ」
夫人は床をコンと蹴ると、発条仕掛の人形のように、石油箱から飛びあがった。そして傍に脱ぎすててあった手術着をとりあげると、重い扉を押して、広い廊下を夫万吉郎の部屋の方へスタスタと歩いていった。
いつも空腹なヒルミ夫人の冷蔵鞄が、腹一杯にふくれたのは、それから二時間とたたない後のことだった。
その冷蔵鞄というのは、いつもヒルミ夫人の特別研究室に置いてあったものだった。それは最新式の携帯用冷蔵庫であった。夫人は時折、この鞄のなかに、動物試験につかった犬や兎の解剖屍体を入れて外を下げてあるいたものである。
しかし今日という今日は、犬や兎の屍体はすっかり取り出されて、汚物入れのなかに移されてしまった。ひとまず鞄のなかは、綺麗に洗い清められ、そしてそのあとにバラバラの人間の手や足や胴や、そして首までもが、鞄のなかにギュウギュウ詰めこまれた。その寸断された人体こそは誰あろう、他ならぬヒルミ夫人の生命をかけた愛すべき夫、万吉郎の身体であったのである。
上一页 [1] [2] [3] [4] 下一页 尾页