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ヒルミ夫人の冷蔵鞄(ヒルミふじんのれいぞうかばん)
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海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島 |
三一書房 |
1989(平成元)年4月15日 |
1989(平成元)年4月15日第1版第1刷 |
或る靄のふかい朝―― 僕はカメラを頸にかけて、幅のひろい高橋のたもとに立っていた。 朝靄のなかに、見上げるような高橋が、女の胸のようなゆるやかな曲線を描いて、眼界を区切っていた。組たてられた鉄橋のビームは、じっとりと水滴に濡れていた。橋を越えた彼方には、同じ形をした倉庫の灰色の壁が無言のまま向きあっていたが、途中から靄のなかに融けこんで、いつものようにその遠い端までは見えない。 気象台の予報はうまくあたった。暁方にはかなり濃い靄がたちこめましょう――と、アナウンサーはいったが、そのとおりだ。 朝靄のなかから靴音がして、霜ふりとカーキー色の職工服が三々五々現れては、また靄のなかに消えてゆく。僕はそういう構図で写真を撮りたいばかりに、こんなに早く橋のたもとに立っているのである。 レンズ・カバーをとって、焦点硝子の上に落ちる映像にしきりにレバーを動かせていると、誰か僕のうしろにソッと忍びよった者のあるのを意識した。だが―― 焦点硝子の上には、橋の向うから突然現れた一台の自動車がうつった。緩々とこっちへ走ってくる。それが実に奇妙な形だった。低いボデーの上に黒い西洋棺桶のようなものが載っている。そして運転しているのは女だった。気品のある鼻すじの高い悧巧そうな顔――だがヒステリー的に痩せぎすの女。とにかくその思いがけないスナップ材料に、僕はおもいきり喰い下がって、遂にパシャンとシャッターを切った。 眼をあげて、そこを通りゆく奇妙な荷物を積んだ自動車をもう一度仔細に観察した。エンジン床の低いオープン自動車を操縦するのは、耳目の整ったわりに若く見える三十前の女だった。蝋細工のように透きとおった白い顔、そして幾何学的な高い鼻ばしら、漆黒の断髪、喪服のように真黒なドレス。ひと目でインテリとわかる婦人だった。 奇妙な黒い棺桶のような荷物をよく見れば、金色の厳重な錠前が処々に下りている上、耳が生えているように、丈夫な黒革製の手携ハンドルが一つならずも二つもついていた。 棺桶ではない。どうやら風変りな大鞄であるらしい。 婦人は猟人形のように眉一つ動かさず、徐々に車を走らせて前を通り過ぎた。僕はカメラを頸につるしたまま、次第に遠ざかりゆくその奇異な車を飽かず見送った。 「お気に召しましたか。ねえ旦那」 「ああ、気に入ったね」 「――あれですよ『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは――」 「え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?」 僕はハッとわれにかえった。いつの間にか入ってきた見知らぬ話相手の声に―― 「おお君は一体誰だい」 僕はうしろにふりかえって、そこに立っている若い男を見つめた。 「私かネ、わたしはこの街にくっついている煤みたいな男でさあ」 といって彼は歯のない齦を見せて笑った。 「しかしヒルミ夫人の冷蔵鞄のことについては、この街中で誰よりもよく知っているこの私でさあ。香りの高いコーヒー一杯と、スイス製のチーズをつけたトーストと引換えに、私はあのヒルミ夫人の冷蔵鞄のなかに何が入っているかを話してあげてもいいんですがネ」 そういって、若い男はブルブル慄える指を、紫色の下唇にもっていった。
或る高層建築の静かな食堂のうちで、コーヒーとチーズ・トーストとを懐しがる若い男の話―― 「さっき御覧になったヒルミ夫人――あれは医学博士の称号をもっている婦人ですよ。専門は整形外科です。しかしそればかりではなく、あらゆる医学に通暁しています。世にも稀なる大天才ですね。 田内整形外科術――というのは、ヒルミ夫人の誇るべきアルバイトです。ご存知ではないですか。近世の整形外科学は、ヒルミ夫人の手によってすっかり書きかえられてしまったんですよ。どんなに書きかえられたか、それもご存知ないのですか。これからお話してゆくうちに、ひとりでに分ってきましょうが、なにしろここ五ヶ年のヒルミ夫人の努力で、普通にゆけば五十年は充分かかるという進歩をやり上げてしまったのですからネ。まあ政治的文句はそれくらいにして、事実談にうつりましょう。ちょっと事実とは信じられないほどの奇怪なる事件なんですよ」 と、若い男はポツリポツリと語りだした。――
斯界の最高権威となったヒルミ夫人は、一昨年ついに結婚生活に入った。 その三国一の花婿さまは、夫人より五つ下の二十五になる若い男だった。それは或る絹織物の出る北方の町に知られた金持の三男だといいふらされていた。誰もそれを信じている。ところがそれは真赤な偽りなのだ。それを証拠だてるのに甚だ都合のよい話がある。ほんの短いエピソードなのだが。 それは一昨年の冬二月のことだった。 或る下町で、物凄い斬込み騒ぎがあった。 双方ともに死傷十数名という激しいものだったが、その外に、運わるく側杖をくって斬り倒された「モニカの千太郎」という街の不良少年があった。白塗りの救急車で、押しかけて搬びこんだのが外ならぬヒルミ夫人の外科病院だった。 モニカの千太郎は顔面に三ヶ所と肋を五寸ほど斬り下げられ、生命危篤であった。普通の病院だったらとても助からないところだが、ヒルミ夫人は感ずるところあって、特別研究室に入れ、日夜自分がついて治療にあたった。その甲斐あって、病人はたいへん元気づき、面会に来た警察官を愕かせなどしたものだが、そのうち繃帯がとれそうになったとき、千太郎は病院から脱走してしまった。 ヒルミ夫人の届出でに、、警察では愕いて駈けつけたが、厳重だといっても病院のことだから抜けだす道はいくらもある。まあ仕方がないということになった。 そのうちに、また元の古巣へたちまわるにちがいないから、そのときに逮捕できるだろうと、警察では案外落ちついていた。 ところがその後千太郎は、すこしも元の古巣へ姿をあらわさなかった。警察でも不審をもち、東京の地から草鞋をはいて地方へ出たのかと思って、それぞれに問いあわせてみたが、千太郎はどこにも草鞋をぬいでいなかった。そんなわけで、モニカの千太郎は愛用のハーモニカ一挺とともに失踪人の仲間に入ってしまった。 ヒルミ夫人が結婚生活に入ったのが、それから二ヶ月経った後のことだった。 万吉郎という五つも年齢下の男を婿に迎えたわけだが、ヒルミ夫人の見染めただけあって、人形のように顔形のととのった美男子だった。 いずくんぞ知らんというやつで、この万吉郎なるお婿さまこそ実はモニカの千太郎であったのである。 そういうといかにもこじつけ話のように聞えるであろう。いくら千太郎がお婿さまに化けても、顔馴染の警官や、元の仲間の者にあえば、ひとめでモニカの千太郎がうまく化けこんでいやがると気がつくと思うだろうが、なかなかそうはゆかない。今までは顔を見ただけでは全く千太郎と見わけのつかない万吉郎だった。つまり万吉郎なるお婿さまは、モニカの千太郎とは全く別な顔をもっていたのである。千太郎もいい男であつたが、万吉郎の顔は、さらにいい男ぶりであり、しかも顔形は全く別の種類に分類されてしかるべきものだった。 それにも拘らず、万吉郎は千太郎の化けた人間に相違なかったのである。 では、どういうところから、そういう不思議な顔形の違いが起ったのであろうか。その答は簡単である。ヒルミ夫人の特別研究室のうちで、千太郎の顔は新しく万吉郎の顔に修整されてしまったのである。それこそはヒルミ夫人の劃期的なアルバイト、田内整形外科術の偉力によるものだった。 「ワタクシハ予テ世間ニ於テ人間ノ美ト醜トニヨル差別待遇ノ甚ダシイノニ大ナル軽蔑ヲ抱イテイタ」とヒルミ夫人はその論文に記している。「美人ト不美人トノ相違ノ真髄ハ何処ニアリヤト考エルノニ、要スルニ夫レハ主トシテ眉目ノ立体幾何学的問題ニ在ル。眉目ノ寸法、配列等ガ当ヲ得レバ美人トナリ、マタ当ヲ得ザレバ醜人トナル。而モ美醜間ニ於ケル眉目ノ寸法配列等ノ差タルヤ極メテ僅少ニ過ギナイ。美人ノ眼ガ僅カ一度傾ケバタチマチ醜人ト化シ、醜人ノ唇僅カ一糎短カケレバ美人ト化スト云ッタ塩梅デアル。左様ナ一度トカ一糎トカ僅少ノ幾何学的問題ニ一生ヲ棒ニフル者ガ少クナイノハ実ニ嗤ウベキコトデアル。吾ガ整形手術ニ於テハ、夫レ等僅少ナル寸法ヲ短縮スル等ノ技術ハ極メテ容易デアル。凡ソ人体各部ノ整形手術中、人間ノ顔ホド簡単ニ整形形状変更等ヲナシ得ル部分ハ他ニナイ。殊ニソノ整形ノ効果ノ大ナルコト、他ノ部位ノ比デハナイ。若シ本書ニ説述シタ吾ガ田内整形手術ガ全世界ニ普及セラレタル暁ニハ、世界中ニ只一人ノ醜イ人間モ存在シナクナルデアロウ云々」 実に大胆なるヒルミ夫人の所説だった。というよりは、なんという強い自信であろうといった方がいいかもしれない。 医学博士ヒルミ夫人のいうところに随えば、人間の恰好を変えることなんか訳はないというのだった。ことに、大した面積でもない凸凹した人間の顔などは、粘土細工同様に自由にこね直すことができると断言しているのであった。ヒルミ夫人の門に教を乞う外科医がこのごろ非常な数にのぼっているのも、このような夫人の愕くべき手術効果がそれからそれへと云いつたえられたがためであろう。 ヒルミ夫人が、なぜモニカの千太郎の何処に惹きつけられて花婿に択んだのか、それはまた別の興味ある問題だが、とにかく結果として、千太郎は万吉郎と名乗って、年上のヒルミ夫人のお伽をするようになったのである。 当事者を除いては、誰もこの大秘密を知る者はない。もちろん警察でも、まさか千太郎が顔をすっかり変えて、ヒルミ夫人の花婿に納まっているとは気がつかなかった。そこでこの奇妙な新婦新郎は、誰も知らない秘密に更に快い興奮を加えつつ、翠帳紅閨に枕を並べて比翼連理の語らいに夜の短かさを嘆ずることとはなった。 ヒルミ夫人の生活様式は、同棲生活を機会として、全く一変してしまった。彼女は篤き学究であったがゆえに、新しい生活様式についても超人的な探求と実行とをもって臨み、毎夜のごとく魂を忘れたる人のように底しれぬ深き陶酔境に彷徨しつづけるのであった。 「――いくら何でも、これでは生命が続かないよ」 と、いまは心臆した若き新郎が、ひそかに忌憚なき言葉をはいた。
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