5
爬虫館の鴨田研究室の裡へツカツカと入って行った帆村探偵は、そこに鴨田氏が背後向きになり、ビーカーに入った茶褐色の液体をパチャパチャ掻き廻しているのを発見した。外には誰も居なかった。
帆村の跫音に気がついたらしく、鴨田は静かにビーカーを振る手をちょっと停めたが、別に背後を振返りもせず、横に身体を動かすと、硬質陶器でこしらえた立派な流し場へ、サッと液体を滾した。すると真白な烟が濛々と立昇った。どうやら強酸性の劇薬らしい。なにをやっているのだろう。
「鴨田さん、またお邪魔に伺いました」帆村はぶっきら棒に云った。
「やあ!」と鴨田は愛想よく首だけ帆村の方へ向いて「まだお話があるのですか」とニヤニヤ笑い乍ら、水道の水でビーカーの底を洗った。
「先刻の御返事をしに参りました」
「先刻の返事とは?」
「そうです」と帆村は三つの大きな細長いタンクを指して云った。「このタンクを直ぐに開いていただきたいのです」
「そりゃ君」と鴨田はキッとした顔になって応えた。「さっきも言ったとおり、これを直ぐ開けたんでは、動物が皆斃死してしまいます」
「しかし人間の生命には代えることは出来ません」
「なに人間の生命? はッはッ、君は此のタンクの中に、三日前に行方不明になった園長が隠されているのだと思っているのですね」
「そうです。園長はそのタンクの中に入っているのです!」
帆村はグンと癪にさわった揚句(それは彼の悪い癖だった)大変なことを口走ってしまった。それは前から多少疑いを掛けていたものの、まだ断定すべきほどの充分な条件が集っていなかったのだ。怒鳴ったあとで大いに後悔はしたものの、不思議に怒鳴ったあとの清々しさはなかった。
「君は僕を侮辱するのですね」
「そんなことは今考えていません。それよりも一分間でも早く、このタンクを開いていただきたいのです」
「よろしい、開けましょう」断乎として鴨田が思切ったことを云った。「しかし若しもこのタンクの中に園長が入っていなかったら君は僕に何を償います」
「御意のままに何なりと、トシ子さんとあなたの結婚式に一世一代の余興でもやりますよ」
この帆村の言葉はどうやら鴨田理学士の金的を射ちぬいたようであった。
「よろしい」彼は満更でない面持で頷いた。「ではこの装置を開けましょうが、爬虫どもを別の建物へ移さねばならぬので、その準備に今から五六時間はかかります。それは承知して下さい」
「ではなるべく急いで下さい。今は、ほう、もう四時ですね。すると十時ごろまでかかりますね。警官と私の助手を呼びますから、悪しからず」
「どうぞご随意に」鴨田は云った。「僕も今夜は帰りません」
帆村はその部屋から警官を呼んだ。副園長の西郷にも了解を求めたが、彼も今夜はタンクが開くまで、爬虫館に停っていようと云った。
しかし帆村は、彼等と別なコースをとる決心をしていた。丁度そこへ助手の須永がやってきたので、万事について、細々と注意を与え、爬虫館の見張りを命じてから、彼一人、動物園の石門を出ていった。既に秋の陽は丘の彼方に落ち、真黒な大杉林の間からは暮れのこった湖面が、切れ切れに仄白く光っていた。そして帆村探偵の姿も、やがて忍び闇の中に紛れこんでしまった。それからは時計のセコンドの響きばかりがあった。午後五時、六時、七時、それから八時がうっても九時がうっても、帆村の姿は爬虫館へ帰ってこなかった。九時半を過ぎると多勢の畜養員や園丁が檻を担いで入って来て無造作にニシキヘビを一頭入れては別の暖室の方へ搬んで行った。仕事は間もなく終った。助手の須永は、先ほどから勝誇ったように元気になってくる鴨田理学士の身体を、片隅から睨みつけていた。やがて爬虫館の柱時計がボーン、ボーンと、あたりの壁を揺すぶるように午後十時を打ちはじめた。人々は、首をあげてじっと時計の文字盤を眺め、さて入口をふりかえったが、どうやら求める跫音は蟻の走る音ほども聞えなかった。
「帆村さんはもう帰って来ないかも知れませんよ」
鴨田理学士が両手を揉み揉み云った。
「いつまで待って居たって仕様がありませんから、この儘閉めて帰ろうではありませんか」
警官と西郷副園長とが、腰を伸して立ち上った。須永も立ち上った。しかし彼は鴨田の解散説に賛成して立ったわけではなかった。
「もう少し待って下さい。先生は必ず帰って来られます」
須永は叫んだ。
「いや、帰りません」
鴨田は尚も云った。
「それでは――」と須永は決心をして云った。「先生の代りに僕が拝見しますから、このタンクを開けて下さい」
「それはこっちでお断りします」
憎々しい鴨田の声に、須永が尚も懸命に争っている裡に、いつの間に開いたか、入口の扉が開かれ、そこには此の場の光景を微笑ましげに眺めている帆村の姿があった。
「皆さん大変お待たせをしました」と挨拶をした後で、「おや蟒どもは皆、退場いたしましたね、では今度は私が退場するか、それとも鴨田さんが退場なさるか、どっちかの番になりました。ではどうか、あれを開いていただきましょう、鴨田さん」
「……」鴨田は黙々として第一のタンクの傍へ寄り、スパナーで六角の締め金を一つ一つガタンガタンと外していった。一同は鴨田の背後から首をさし伸べて、さて何が現れることかと、唾を呑みこんだ。
「ガチャリ!」
と音がして、タンクの上半部がパクンと口を開いた。が、内部は同心管のようになっていて、鱶の鰭のような大きな襞のついた其の同心管の内側が、白っぽく見えるだけで、中には何も入っていなかった。
「空虚っぽだッ」
誰かが叫んだ。
鴨田研究員は第二のタンクの前へ、黙々として歩を移した。同じような操作がくりかえされたが、これも開かれた内部は、第一のタンクと同じく、空虚だった。
失望したような、そして又安心したような溜息が、どこからともなく起った。
遂に第三のタンクの番だった。流石の鴨田も、心なしか緊張に震える手をもって、スパナーを引いていった。
「ガチャリ!」
とうとう最後の唐櫃が開かれたのだった。
「呀ッ!」
「これも空虚っぽだッ!」
帆村は須永に目くばせをして彼一人、前に出た。彼の手には自動車の喇叭の握りほどあるスポイトとビーカーとが握られていた。
彼は念入りに、白い襞のまわりを獵って、何やら黄色い液体をスポイトで吸いとり、ビーカーへ移していた。
だがそれは大した量でなく、ほんの底を潤おす程度にとどまった。
帆村は尚もスポイトの先で、弾力のある襞を一枚一枚かきわけ、検べていたが、
「呀ッ」
と叫んで顔を寄せた。
「これだッ。とうとう見付かった」
そう云って素早く指先でつまみあげたのは長さ一寸あまりの、柳箸ほどの太さの、鈍く光る金属――どうやら小銃の弾丸のような形のものだった。
一同は怪訝な面持で、帆村が指先にあるものを眺めた。帆村はその弾丸のようなものを鴨田の鼻先へ持っていった。
「貴方はこれをご存知ですか」
鴨田は腑に落ちかねる顔付で、無言に首を振った。
「貴方はご存知なかったのですね」
帆村はどうしたのか、ひどく歎息して云った。
「これはですね――」
一同は帆村の唇を見つめた。
「――これは露兵の射った小銃弾です。そして、これは三十日から行方不明になられた河内園長の体内に二十八年この方、潜っていたものです。云わば河内園長の認識標なんです。しかも園長の身体を焼くとか、溶かすかしなければ出て来ない終身の認識標なんです」
「そんな出鱈目は、よせ!」
鴨田が蒼白にブルブルと慄えながら呶鳴った。
「いや、お気の毒に鴨田さんの計画は、とんだところで失敗しましたよ。貴方は園長を殺すために、医学を修め、理学を学び、スマトラまで行って蟒の研究に従事せられた。そして日本へ帰られると、多額の寄附をしてこの爬虫館を建て、貴方は研究を続けられた。七頭のニシキヘビは貴方の研究材料であると共に、貴重な兇器を生むものだった。私どもはよく医学教室で、犬を手術し、唾液腺を体外へ引張り出して置いて、これにうまそうな餌を見せることにより、体外の容器へ湧きだした犬の唾液を採集する実験を見かけますが、貴方は生物学と外科とにすぐれた頭脳と腕とで、蟒の腹腔に穴をあけ、その消化器官の液汁を、丹念に採集したのです。それは周到なる注意で今日まで貯蔵されていました。そして又ここに並んでいるタンクは、巧妙な構造をもった人造胃腸だったんです」
あまりに意外な帆村の言葉に、一同は唖然として彼の唇を見守るばかりだった。
「鴨田さんは三十日の午前十一時二十分頃、園長をひそかに人気のない此の室に誘い、毒物で殺したんです。そこで直ちに園長の軽装を剥いで裸体とし、着衣などは、あの大鞄に入れ其の夕方、何喰わぬ顔で園外に搬び去りましたが、それは後の話として、鴨田さんは園長の口をこじ開けるや、蟒の消化液では溶けない金歯をすっかり外して別にすると、もうこれで全部が溶けるものと安心して此の第三タンクに入れました。そこで永年貯蔵して置いたニシキヘビ消化液をタンクへ入れて密封をすると、電動仕掛けで同心管――それは襞をもった人造胃腸なんですが、その胃腸を動かし始めたんです。適当な温度に保ってこれを続けたものですから、鴨田さんの研究によると、今夜の八時頃までに完全に園長の身体はタンクの中で、影も形もなく融解してしまうことが判っていました。
鴨田さんにその自信があったればこそ、この時間になってタンクを開くことを承知されたのです。そして尚も計画をすすめて、タンクの中の溶液を、そのまま下水へ流してしまうことにしました。急いで流せば、こんな静かなところだからそれと音を悟られるので、排水弁を半開とし、ソロソロと園長の溶けこんだタンクの内容液を流し出したんです。しかしそれは一つの大失敗を残しました。流出速度が極めて緩慢だったために、園長の体内に潜入していた弾丸は流れ去るに至らず、そのまま襞の間に残留してしまったんです。この弾丸というのは、園長が沙河の大会戦で奮戦の果に身に数発の敵弾をうけ、後に野戦病院で大手術をうけましたが、遂に抜き出すことの出来なかった一弾が身体の中に残りました。その一弾が皮肉にも棺桶ならぬ此のタンクの中へ残ったわけなんです。本当に恐ろしいことですね。なお附け加えると、園長の金歯は、大胆にも私の見ている前でビーカー中の王水に溶かし下水道へ流しました。万年筆や釦は鴨田さん自身が撒いたもので、これは犯罪者特有のちょっとした掻乱手段です」
「出鱈目だ、捏造だ!」
鴨田は尚も咆哮した。
「では已むを得ませんから、最後のお話をいたしましょう」帆村は物静かな調子で云った。「この犯行の動機は、まことに悲惨な事実から出て居ます。話は遠く日露戦争の昔にさかのぼりますが、河内園長が満州の野に出征して軍曹となり、一分隊の兵を率いて例の沙河の前線、遼陽の戦いに奮戦したときのことです。其のとき柵山南条という二等兵がどうした事か敵前というのに、目に余るほど遺憾な振舞をしたために、皇軍の一角が崩れようとするので已むを得ず、泪をふるって其の柵山二等兵を斬殺したのです。これは、軍規に定めがある致方のない殺人ですが、それを見ていた分隊中の或る者が、本国へ凱旋後柵山二等兵の未亡人にうっかり喋ったのです。未亡人は殺された夫に勝るしっかり者で、そのときまだ幼かった一人の男の子を抱きあげて、河内軍曹への復讐を誓ったのです。その男の子――兎三夫君は爾来、母方の姓鴨田を名乗って、途中で亡くなった母の意志を継ぎ、さてこんなことになったのです」
帆村は語を切った。しかし鴨田学士は、今度は何も云わずに項低れていた。
「もう後は云う必要がありますまい。最後に御紹介したい一人の人物があります。それはこの話のヒントを与えて以後私の調べに貢献して下すった故園長の古い戦友、半崎甲平老人であります。この老人は同郷の出身ですが、衛生隊員として出征せられていたので、後に園長がX線で体内の弾丸を見たときにも立合い、また戦場の秘話を園長から聴きもした方です。鴨田さんの亡き父君のことも知ってられるんですから、此処へお連れしました。いま御案内して参りましょう」
そういって帆村は立上ると、入口の扉をあけた、が、其処には老人の姿は見えなかった。向うを見ると、爬虫館の出入口が人の身体が通れるほどの広さにあき、その外に真黒な暗闇があった。
「呀ッ、鴨田さんが自殺しているッ」
そういう声を背後に聞いた帆村は、もう別にその方へ振返ろうともしなかった。
そして彼の胸中には、事件を解決するたびに経験するあの苦が酸っぱい悒鬱が、また例の調子で推し騰ってくるのであった。
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