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蠅男(はえおとこ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 15:58:08  点击:  切换到繁體中文



   糸子の立腹


 帆村探偵は、どんなにして次の朝を迎えたのかしらない。
 とにかく彼が、室を出てきたところを見ると、普段から蒼白な顔は一層青ざめ、両眼といえば、兎の目のように真赤に充血していた。よほどの苦労を、一夜のうちにめつくしたらしいことが、その風体ふうていからしてしはかられた。
 帆村は、すぐさま村松検事の留置されている警察署へゆくかと思いのほか、彼はその前を知らぬ顔して、自動車をとばしていった。そして到着したところは、阪急の大阪駅乗車口であった。
 彼はそこで大勢の人をかきわけ、大きな声で宝塚ゆきの切符を買った。
 急行電車に乗りこんだ彼は、乱暴にも婦人優先席にどっかと腰を下ろすや、腕ぐみをして眼を閉じた。そして間もなく大きないびきをかきだすと見る間に、隣に着飾った若奥様らしい人の肩にもたれて、いい気持ちそうに眠ってしまった。
 車掌が起こしてくれなければ、彼はもっと睡っていたかも知れない。彼は慌てて、宝塚の終点に下りて、電柱の側らで犬のような背伸びをした。
 それから彼は、太いとうのステッキをふりふり、新温泉の方へ歩いていった。
 でも彼は、新温泉へ入場するのではなかった。彼はその前をズンズン通りすぎた。そして、やがて彼が足早に入っていったのは、池谷医師の控邸だった。それは先に、糸子が訪れた家であり、それよりもすこし前、池谷医師がお竜とおぼしき女と、肩をならべて入っていった家であった。
 入口の扉には、鍵がかかっていなかった。帆村は無遠慮にも、靴を履いたまま上にあがっていった。何を感じたものか、彼は各室を鄭重に廻っては、押入や戸棚を必ず開いてみた。そして壁や天井を、例の太い洋杖ステッキでコンコンと叩いてみるのだった。
 階下が終ると、こんどは階上へのぼって、同じことを繰りかえした。
 でも、格別彼が大きい注意を払ったものもなく、別にポケットへねじ込んだものもなかった。十五分ばかりすると彼はまた玄関に姿を現わした。そして後をも見ず、その邸の門からスタスタと外へ出ていった。
 それから彼は、再び新温泉の前をとおりすぎ、橋を川向うへ渡った。そこには宝塚ホテルが厳然げんぜんそびえていた。彼の姿はそのホテルのなかに吸いこまれてしまった。
 大川司法主任は、糸子の室の前の廊下で、朝刊を一生懸命に読みふけっているところだった。なにしろその朝刊の社会面と来たら、村松検事の殺人事件の記事で一杯であった。村松検事の大きな肖像写真が出ていて「検事か? 蠅男か?」と、ずいぶん無遠慮な疑問符号がつけてあった。
「恩師殺しに秘められたる千古の謎!」などという小表題こみだしで、三段ぬきで組んであった。
「ああ帆村はん。これ、なんちゅうことや。わしはもう、あんまり愕いたもんやで、頭脳が冬瓜とうがんのように、ぼけてしもたがな」
 そういって、大川司法主任は、新聞紙の上を大きな掌でもってピチャピチャと叩いた。
 帆村は、それには相手になろうともせず、室の中をゆびさして、
「どうです。糸子さんは無事ですかネ」と訊いた。
「もちろん大丈夫だすわ。しかし昨夜も、えろう貴方はんのことを心配してだしたぜ。村松はんのことがなかったら二人して貴方はんにおごって貰わんならんとこや。ハッハッハッ」
 大川主任はいい機嫌で哄笑した。
 室のなかに入ってみると、糸子はもうすっかり元気を回復していた。ただ、まだ麻酔薬が完全にぬけきらないと見えて、いく分睡そうな顔つきは残っていたが……。
「まあ帆村はん。さっきの夢のつづきやのうて、ほんとの帆村はんが来てくれはったんやなア」
 糸子は、けさがた帆村の夢を見ていたらしく、帆村の顔を見て小さい吐息をついた。
 糸子があつく礼をいうのを、帆村は気軽に聞きながして、
「さあ、ここでちょっと糸子さんに折入って話をしたいことがあるんです。皆さん、ちょっと遠慮して下さいませんか」
 そういう帆村の申し出に、付き添いのお松をはじめ、看護婦や警官たちもゾロゾロと外へ出た。扉がピタリと閉って部屋には帆村と糸子の二人きりとなってしまった。
 帆村は何を話そうというのだろう。時刻は五分、十分と過ぎてゆき、廊下にたたずんで待っている人たちの気をいらだたせた。
 すると突然、糸子の金切り声が聞えた。扉がパッと明いて、糸子が寝衣ねまきのまま飛び出してきたのだ。
「――帆村はんの、あつかましいのに、うち呆れてしもうた。あんな人やあらへんと思うてたのにほんまにいやらしい人や。さあ、お松。もうこんなところに御厄介ごやっかいになっとることあらへんしい。はよ、うちへいのうやないか」
 お松は愕いて、
「まあ、どないしはったんや。えろう御恩になっとる帆村はんに、そんな口を利いては、すみまへんで――」
「御恩やいうたかて、あんないやらしい人から恩をうけとうもない。一刻もこんなところに居るのはいやや。さあ、すぐ帰るしい。お松はよ仕度をしとくれや」
 何が糸子をいきどおらせたのであろうか。あれほど帆村に対し信頼し、帆村に対してかなりの愛着を持っていたと思われる糸子が、何の話かは知らぬが、突然憤って帆村を毛虫のように云いだしたんだから、一座もどうこれをしずめていいか分らなかった。
 糸子たちがズンズン仕度をととのえているのを見ると、さっきから室の片隅にジッとうずくまっていた帆村は、黙々として立ち上り、コソコソと廊下づたいに出ていった。大川司法主任も怪訝けげんな面持で、帆村の後姿を無言のまま見送っていた。


   秘密を知る麗人


 その夜、道頓堀をブラついていた人があったら、その人は必ず、今どき珍らしい背広姿の酔漢を見かけたろう。
 その酔漢は、まるで弁慶蟹べんけいがにのように真赤な顔をし、帽子もネクタイもどこかへ飛んでしまって、袖のほころびた上衣を、何の意味でか裏返しに着て、しきりと疳高かんだかい東京弁で訳もわからないことを呶鳴りちらしていた筈である。
 もしも糸子が、その酔漢の面をひと目見たら、彼女はあまりの情なさに泣きだしてしまうかも知れない処だった。それは外ならぬ帆村荘六その人であったから。
 なぜ帆村は、こうも性質ががらりと違ってしまったんであろうか。昨日の聖人は今日の痴漢であった。
 村松検事を救う手がないので自暴やけになったのか。蠅男を捕える見込みがつかないで、悲観してしまったのか。それとも糸子に云い寄って無下にしりぞけられたそのせいであろうか。
 道頓堀に真黒なへそができた。その臍は、すこしずつジリジリと右へ動き、左へ動きしている。それは場所ちがいの酔漢すいかん帆村荘六をもの珍らしそうに取巻く道ブラ・マンの群衆だった。
 帆村はポケットから、ウイスキーの壜を出して、茶色の液体をなおもガブガブとラッパ呑みをし、うまそうに舌なめずりをするのだった。そのうちに、うした拍子か、喧嘩をおッ始めてしまった。嵐のような人間の渦巻が起った。帆村は犬のように走りだす。その行方にあたってガラガラガラと大きな音がして、女の金切り声が聞える。
 ――帆村は一軒の果物屋の店にとびこむが早いか、太いステッキで、大小の缶詰の積みあげられた棚を叩き壊し、それから後を追ってくる弥次馬に向って、林檎りんごだの蜜柑みかんだのを手当り次第に抛げつけだしたのである。生憎あいにくその一つが、折から騒ぎを聞いて駈けつけた警官の顔の真中にピシャンと当ったから、さあ大変なことになった。
「神妙にせんか。こいつ奴が――」
 素早く飛びこんだ警官に、逆手をとられ、あわれ酔払いの帆村は、高手小手に縛りあげられてしまった。そのみじめな姿がこの歓楽街から小暗い横丁の方へ消えていくと、あとを見送った弥次馬たちはワッと手を叩いて囃したてた。
 それと丁度同じ時刻のことであったが、本邸に帰った糸子は、何を思ったものか、突然お松に命じて、宝塚ホテルを電話で呼び出させた。
「お嬢はん。なんの御用だっか」
「なんの用でも、かまへんやないか。懸けていうたら、はよ電話を懸けてくれたらええのや」
 糸子は何か苛々いらいらしている様子だった。
 宝塚ホテルが出た。
 お松がそれを知らせると、糸子はとびつくようにして、電話口にすがりついた。
「宝塚ホテル? そう、こっちは玉屋糸子だすがなア。帆村荘六はんに大至急つないどくなはれ」
「ええ、帆村はんだっか。いまちょっとお出かけだんね。十二時までには帰ると、いうてだしたが……」
 と、帳場からの返事だった。
「まあ、仕様がない人やなア。どこへ行ったんでっしゃろ」
「さあ、何とも分りまへんなア」
 糸子は落胆の色をあらわして溜息をついた。
「なんぞ御用でしたら、お伝えしときまひょうか」
 と帳場が尋ねると、糸子は急に元気づき、
「そんなら一つ頼みまっさ。今夜のうちに、こっちへ来てくれるんやったら、例の疑問の人物について、私だけが知っとることを話したげます。明日から先やったら、他へ知らせますから、後からうらまんように――と、そういうておくれやす」
 そこで話を終り、糸子は電話を切った。
 お松は傍で聞いていて、可笑おかしそうに笑った。
「なんや思うたら、もう帆村はんと休戦条約だっか。ほほほほ」
 しかし糸子は、思い切ったことを、帆村に申し入れたものだ。
 かねて糸子は蠅男について誰も外の者が知らぬ秘密を握っていると思われたが、いよいよそれを帆村に云う気になったらしい。しかもそれを帆村だけに与えるというのではなく、今夜来なければ、警察の方に知らせてしまうぞという甚だ辛い好意の示し方をした。まだまだ彼女の帆村に対する反感が残っているらしいことがうかがわれた。
 でも今夜のうちといえば、帆村は果して糸子のもとへ駆けつけられるだろうか。それは出来ない相談だった。帆村はいま、暴行沙汰のため、警察の豚箱のなかに叩きこまれているはずだった。宝塚ホテルの帳場子は、帆村がそんな目に会っているとはつゆ知るまい。あたら帆村も、ここへ来て慎みを忘れたがために、折角糸子が提供しようという蠅男の秘密を聞く機会を失ってしまって、遂にこれまでの苦労を水の泡沫あわと化してしまうのだろうか。


   怪! 怪! 蠅男の正体!


 玉屋本邸は、今宵こよい糸子を迎えて、近頃にない賑やかさを呈していたが、そのうちに午後九時となり十時となり、親類知己の娘さんたちも一人帰り二人帰りして、やがて十一時の時計を聞いたころには、五人の召使いの外には糸子只一人という小人数になった。
 夜は次第に更けるに従って、この広いガランとした邸はいよいよ浸みわたるようなもの寂しさを加えていった。そのうちに、昨日と同じく、風さえ出て、雨戸がゴトゴトと不気味な音をたてて鳴った。
 糸子はお松を寝所へ下らせて、彼女は只ひとり、かつて父親総一郎の殺された書斎のなかに入っていった。
「お父つぁん――」
 糸子は室の真中に立って、今は亡き父を呼んでみた。もちろん、それに応える声は聞かれなかったけれど。
 糸子は父が愛用していた安楽椅子の上に、静かにしなやかな体をなげた。そして机の上にのっている「論語詳解」をとりあげると、スタンドをつけて頁をめくっていった。
 そのうちに、いつしか糸子は本をパタリと膝の上に落とし、京人形のように美しい顔をうしろにもたせかけて、うつらうつらと睡りのなかに誘われていった。
 外はどうやら雨になったようである。
 そのときである。
 天井裏を、何か重いものがソッとひきずられるような気持ちのわるい音がした。――しかし糸子は、何も知らないで睡っていた。
 ゴソリ、ゴソリと、その不気味な物音は、糸子の睡る天井裏をっていった。何者であろうか。召使いたちも、白河夜舟しらかわよふね最中さいちゅうであると見え、誰一人として起きてこない。
 危機はだんだんと迫ってくるようである。
 するとゴソリゴソリの音がパッタリ停った。それに代ってコトリという音が、もっとハッキリ聞えた。それは天井裏についている四角な空気抜きの穴のところで発したものだった。
 そのうちに、なにやら黒いものが、その空気穴のなかから垂れ下ってくるのであった。それはだんだん長く伸びて、まるで脚のような形をしていた。そのうちに、また一本、同じようなものが静かに下って来た。どれもこれも、糸のようなもので吊り下げられているらしい。
 腕のようなものが一本、それからまた一本! ズルズルとすこしスピードを増して垂れ下がってくる。
 この奇怪な有様を、何にたとえたらいいであろう。もしこの場の光景を見ていた人があったなら、この辺でキャッといって気絶してしまうかも知れない。
 ――黒い外套のようなものが、フワリと落ちて来た。それにつづいて、穴からヌッと出てきたのは、意外にも人の首だった。見たこともない三十がらみの男の首で、眼をギョロギョロ光らせている。見るからに悪相をそなえていた。
 その首はスーッと穴から下に抜けた。それにつづいて肩が出て来るのであろうか。しかしあのような六、七寸の穴から、肩を出すことは難かしいであろうと思われた。
 しかるに首はスーッと床の上めがけて落ちていく。首のうしろにつづいているのは、男枕を二つ接ぎあわせたようなブカブカした肉魂。――それでお終いだった。
 首と細い胴の一部だけの人間?
 それでも、その人間は生きているのであろうか?
 ドタリと床の上に痩せ胴のついた首が落ちると、それを合図のように、始めに床の上に横たわっていた長い手や足やが、まるで磁石に吸いつく釘のようにキキッと集まって来た。
 やがてムックリと立ち上ったところを見れば、これぞ余人ではなく、有馬山中を疾風のように飛んでいったあの蠅男の姿に相違ない。組立て式の蠅男? なんという奇怪な生き物もあったものだろう。一体蠅男は人間か、それとも獣か?
 蠅男は大きな眼玉をギロリと動かして、安楽椅子の上に睡る糸子の艶めかしい姿に注目した。
 蠅男はそこでニヤリと気味のわるい薄笑いをして、どこに隠し持っていたのか、一条の鋼鉄製の紐をとりだした。それを黒光りのする両手に持って身構えると、サッと糸子の方にすりよった。……ッ、糸子が危い!
 糸子は死んだようになっていた。蠅男の手に懸って、細首を絞められてしまったかと思ったが、そのとき遅く、かのとき早く、
「――蠅男、そこ動くなッ」
 と、突然大音声があがったと思う途端とたん、寝台の陰からとび出して来た一個の人物! それは誰であったろうか? 警察の豚箱に監禁せられて熟柿じゅくしのような息をふいているとばかり思っていた青年探偵、帆村荘六の勇気凜々りんりんたる姿だった。蠅男は無言で後をふりむいた。
「うふ。――いいところへ来たな。俺の正体を見たからには、最早もはや一刻も貴様を活かしては置けねえ。覚悟しろッ」
「なにをッ。――」
 鬼神「蠅男」と探偵帆村とは、何も知らずに睡っている糸子を間に挟んで、物凄くにらみ合った。
 風か雨か、はた大噴火か。乾坤一擲けんこんいってきの死闘を瞬前にして、身構えた両虎の低い呻り声が、次第次第に高く盛りあがってくる。――


   死闘


 獣か人か。
 怪物蠅男の身体は首の付いた痩せ胴とバラバラの手足から組立てられて居たとは、実に前代未聞の一大驚異である。
 この蠅男の身体に関する秘密は、まだ十分了解することが出来なかったが、決死の青年探偵帆村荘六は脳底から沸き起ろうとする戦慄せんりつを抑えつけて、厳然げんぜんとこの大怪物と睨み合っている。
 傍らの椅子には、これまた絵に描いたような麗人糸子が膝に伏せた本の上にすんなりとした片手を置いて、何ごとも知らず安らかに眠っている。どうやら糸子は帆村の命令に従って睡眠剤をんでいるらしかった。もちろんそれは帆村のやさしき心づかいで、この場の異変にこれ以上彼女の繊細な神経を驚かせたくないという心づかいであったに違いない。
 怪物蠅男は、見るもいまわしい土色の面に悪鬼のような炯炯けいけいたる眼を光らかし、激しき息づかいをしながら、部屋の隅からじりじりと寝台の向うに立つ帆村探偵に向って近付いて来るのであった。
 雨か嵐か、はた雷鳴か。怪人と侠青年との息詰まるような睨み合いが続いた。
「勝負は貴様の負だッ。こうなれば観念して、いさぎよく降参しろッ」
 と帆村探偵は烈々たる言葉を投げつけた。
「なにを言やがる」と蠅男は歯を噛みならし、
「手前こそ息の止らねえうちに、念仏でも唱えろッ。今度こそは手前の土手ッ腹を機関銃で蜂の巣のようにしてやるんだッ。それでもまだ助かるとでも思っているのか」
 そう云って蠅男はじりじりと前進し、垂れている左腕を静かに挙げて、帆村の胸元目がけて突き出した。それは黒光りのする腕のようでありながら、まるでぎこちない銃身のように見えた。
「ははあ、くくり付けの機関銃とお出でなすったね。そんなインチキ銃に撃たれてたまるものか」
「よオし、これを喰って往生しろッ」
 と蠅男の大喝だいかつと共に長い黒マントの肩先がブルブルと痙攣けいれんするより早く、ダダダッと耳をつん裂くような激しい銃声!
「うぬッ――」
 帆村はさっと寝台の蔭に身を沈めた。――と見るよりも早く、蠅男の隙を狙って寝台の下からパッと投げつけた渋色の投網とあみ
 網は空間に花火のように開いて、蠅男の頭上からバッサリ落ち掛ったが、蠅男もさるもの、不意を打たれながらもツツーッと身を引けば、網はかちりと蠅男の左腕の中に仕込まれた機関銃にからいた。
「生意気なッ――」
 と蠅男が気色ばむ所を帆村はすかさず、
「えいッ」
 と大声もろともすかさず投げ付けた丈夫なり麻の投縄――それが見事蠅男の左腕の中程をキリリと締め上げた。
「さあ、どうだッ」
 と帆村は歓声をあげ、気を外さず麻縄の端を寝台の足に通して、それを支えに満身の力を籠めてえいやッと引けば、流石の蠅男も思わずツツーッと前にのめろうとするのを、ウムと堪えて引かれまいと、り身になって抵抗するうち、どうしたはずみかドーンと云う大きな響きを打って蠅男の左腕は肩の附根からすっぽり抜け落ち床の上に転がった。
「あッ、しまった――」
 と蠅男が鉄の爪を持った残りの右腕を伸ばして床の上の抜けた左腕を拾おうとするのを、帆村はそうさせてはなるものかと寝台の上をヒラリと飛び越し、隠しもっていた桑の木刀でヤッと蠅男のあごを逆に払えば、
「ギャッ」
 とさしもの蠅男も痛打にたまらず、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうと床上に大の字になって引繰り返った。闘いは帆村の快勝と見えた。
「おとなしくしろッ」
 と帆村は蠅男のうえに馬乗りになり、いきなり相手の咽喉をグッと締め付けた――それがよくなかった。蠅男にはまだ人間放れのしたもの凄く頑強な右腕の残っていたことを忘れていたのだ。
 キリキリキリと怪音を立てて蠅男の右腕が起重機のように三メートルばかりも伸びたかと思うと、それが象の鼻のようにくるくるッと帆村の背後に曲って来て、大きな鋏のような鉄の爪が帆村の細首目掛けてぐっと襲い掛らんとする――あッ、危い!
 糸子は先程から目を醒ましていた。いくら強い睡眠剤でも、部屋の中で機関銃を撃たれては眠っても居られない。彼女は突然目の前に展開しているもの凄い死闘の光景に呑まれて、魂を奪われた人のように呆然と成行を眺めて居たのである。しかし今愛人帆村の一命に係わる大危機を目の前にしては、どうしてそのまますくんでいられよう。彼女は素早く身辺を見廻し、机の上に載って居た亡き父の肖像入りの額面を取上げるより早いか二人の方に駆け寄り蠅男の顔面目掛けて発止はっしと打ち下ろした。
「うむッ。――」
 と蠅男は呻り声を挙げ、帆村の背後に伸びようとした鉄の爪がわなわなと虚空を掴んだ。
「糸子さん、危いからどいていらっしゃい」
 帆村は糸子に注意をした。そこに一寸の隙があった。それを見逃すような蠅男ではなかった。
「えいやッ――」
 と蠅男は腹の上に乗っていた帆村を下から座蒲団か何かのようにどんと跳ね飛ばした。
 あッと云う間に帆村は宙を一転して運よく寝台の上に叩き付けられたが、若しそこに柔い寝台が無かったら帆村の両眼はぽんぽん飛び出していたかも知れない。
 帆村はくらくらする頭を押えて、撥人形のように寝台を飛び降りた。この時素早く起き直った蠅男は右手を伸べてかたわらのガラス窓を雨戸越しにバリバリと破り、その穴から化け蝙蝠こうもりのようにヒラリと外へ飛び出した。
 帆村が続いて外に飛び出して見ると、蠅男は何処へ行ったものか影も姿もなく、戸外には唯ひっそりかんとした黒暗暗こくあんあんたる闇ばかりがあった。

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