第七話 蠅に喰われる
机の上の、小さな蒸発皿の上に、親子の蠅が止まっている。まるで死んだようになって、動かない。この二匹の親子の蠅は、私の垂らしてやった僅かばかりの蜂蜜に、じッと取付いて離れなくなっているのだ。
そこで私は、戸棚の中から、二本の小さい壜をとりだした。一方には赤いレッテルが貼ってあり、もう一つには青いレッテルが貼ってあった。この壜の中には、極めて貴重な秘薬が入っているのだった。赤レッテルの方には生長液が入って居り、青レッテルの方には「縮小液」が入っていた。これは或るところから手に入れた強烈な新薬である。私はこの秘薬をつかって、これからちょっとした実験をして見ようと思っているのだ。
私は赤レッテルの壜の栓を抜くと、妻楊子の先をソッと差し入れた。しばらくして出してみると、その楊子の尖端に、なんだか赤い液体が玉のようについていた。それが生長液の一滴なのであった。
私はその妻楊子の尖端を、蒸発皿の方へ動かした。そして親蠅がとりついている蜂蜜の上に、生長液をポトンと垂らした。それから息を殺して、私は親蠅の姿を見守った。
ブルブルブルと、蠅は翅をゆり動かした。
「うふーン」
と私は溜息をついた。蠅はしきりに腹のあたりを波うたせている。不図隣りの仔蠅の方に眼をうつした私は、どンと胸をつかれたように思った。
「呀ッ。大きくなっている!」
仔蠅の身体に較べて、親蠅はもう七八倍の大きさになっているのだ。そして尚もしきりに膨れてゆくようであった。
「ほほう。蠅が生長してゆくぞ。なんという素晴らしい薬の効目だ」
蠅は薬がだんだん利いて来たのであろうか。見る見る大きくなっていった。三十秒後には懐中時計ほどの大きさになった。それから更に三十秒のちには、亀の子束子ほどに膨れた。私はすこし気味が悪くなった。
それでも蠅の生長は停まらなかった。亀の子束子ほどの蠅が、草履ほどの大きさになり、やがてラグビーのフットポールほどの大きさになった。電球ぐらいもある両眼はギラギラと輝き、おそろしい羽ばたきの音が、私の頬を強く打った。それでもまだ蠅はグングンと大きくなる。こんなになると、蠅の生長してゆくのがハッキリ目に見えた。私はすっかり恐ろしくなった。
蠅の身体が、やがて鷲ぐらいの大きさになるのは、間のないことであろうと思われた。
(これはもう猶予すべきときではない。早く叩き殺さねば危い!)
なにか適当の武器もがなと思った私は、慌てて身辺をふりかえったが、そこにはバット一本転がっていなかった。友人のところへ猟銃を借りにゆく手はあるんだが、既にもう間に合わなかった。そんなに愚図愚図手間どっていると、この蠅は象のように大きくなってしまうことだろう。
狼狽と後悔との二重苦のうちに、私は不図一つの策略を思いついた。それはすこし無鉄砲なことではあったが、この上は躊躇している場合ではない。――と咄嗟に腹を極めた私は、赤いレッテルの生長液の入った壜をとりあげて栓を抜くと、グッと一と息に生長液を嚥んだのであった。
たちまち身体の中は、アルコールを炊いたような温かさを感じた。と思ったら私の身体はもうブツブツ膨れはじめた。シャボン玉のように面白いほど膨らみ始めた。
あの親蠅はと見ると、先程に比べてなるほど小さく見えだした。これは私の身体が大きくなったのでそう見えるのであろう。室内の調度に比べると、彼の蠅は土佐犬ほどの大きさになっているらしかった。大量の生長液を飲んだせいで私は尚もグングン大きくなっていった。そのうちに親蠅は私の両手でがっちりつかめそうになった。
「よオし、こいつが……」
私はたちまち躍りかかると、親蠅の咽喉を締めつけた。蠅は大きな眼玉をグルグルさせ、口吻からベトベトした粘液を垂らすと、遂にあえなくも、呼吸が絶えはてた。そしてゴロリと上向きになると、ビクビクと宙に藻掻いていた六本の脚が、パンタグラフのような恰好になったまま動かなくなってしまった。私はほっと溜息をついた。
そのときだった。私は頭をコツンとぶつけた。見ると私の頭は天井にぶつかったのであった。何しろグングン大きくなってゆくので、こんなことになってしまったのだ。私は元々坐っていたのであるが、蠅を殺すときに中腰になっていた。このままでいると、天井を突き破るおそれがあるので、私はハッとして頭を下げて、再びドカリと坐った。
「ああ、危かった」
だが、本当に危いのは、それから先であるということが直ぐ解った。私の身体はドンドン膨れてゆく。このままでは部屋の内に充満するに違いない。外へ出ようと思ったが、そのときに私は恐ろしいことを発見した。
「ああッ、これはいけない!」
私は思わず叫んだ。もうこんなに身体が大きくなっては、窓からも扉のある出入口からも外に出られなくなっているのだった。部屋から逃げだせないとしたら、これから先ず一体どうしたらいいのだろう。
恐らく私の身体は壁を外へ押し倒し、この家を壊してしまわないと外へ出られないだろう。だがこの部屋の構造は特別に丈夫に作らせてあるのだ。身体の方が負けてしまうかも知れない。内から生長してゆく恐ろしい力が巌丈な壁や柱に圧された結果はどうなるのだろうか。私の五体は、両国の花火のようになって、真紅な血煙とともに爆発しなければならない。そのうちに肩のところがメリメリいって来た。
私は二度の大狼狽に襲われた。
「これアいかん!」
こうなっては、一秒も争う。私は神を念じ、痛い顎の骨を折って、あたりを見まわした。そのとき天の助けか、目についたのは一個の薬壜だった。青レッテルを貼った縮小液の入った壜だった。
「そうだ。あれを飲めば、身体が小ちゃくなるぞ!」
私は指の尖端に唾をつけて、その青レッテルの壜をへばりつけた。それから爪の先で、いろいろやってみてやっと栓を抜いた。
「さあ、しめたッ」
私はそのひとたらしもない薬液を、口の中へ滴しこんだ。それはたいへん苦い薬だった。
スーッと身に涼風が当るように感じたそのうちに、エレヴェーターで下に降りるような気がしてきた。それと共に身体が冷て、ガタガタ慄えだした。しかし、ああ、私の身体はドンドン小さくなって行く。坐っていて箪笥の上に首が載ったのが、今は箪笥と同じ高さになった。
ますます縮んでいった。立ち上っても、頭が鴨居の下に来た。椅子に坐ってみても丁度腰の下ろし具合がいい。もうこれで元のようになったと感じた。
しかしである。また心配なことが起って来た。元のようになった身体は、まだグングン小さくなってゆくのだった。椅子に腰を下ろしていて、足の裏がいつの間にやら、絨毯から離れて来た。下へ降りようと思うと、窓から下へ飛び降りるように恐ろしくなってきた。私はお人形ほどの大きさになったのである。
それ位に止まるならば、まだよかったのであるが、更に更に、身体は小さく縮まっていった。私はキャラメルの箱に蹴つまずいて、向う脛をすりむいた。馬鹿馬鹿しいッたらなかった。そのうちに、私は不思議なものを発見した。それは一匹の豚ほどもある怪物が、私の方をじっと見て、いまにも飛びかかりそうに睨んでいるのだ。
「なにものだろう!」
私は首を傾けた。そんな動物がこの部屋に居るとは、一向思っていなかったのだ。
しかしよく見ると、その怪物は大きな翅があった。鏡のような眼があった。鉄骨のような肢があって、それに兵士の剣のような鋭い毛がところきらわず生えていた。私はそのときやっとのことで、その怪物の正体に気がついた。
「ああ、こいつは、私の先刻殺した蠅の仔なのだ」
仔蠅にしては、何という大きな巨獣(?)になったのであろうか。
その恐ろしい仔蠅は、しずしずと私の方に躙りよってきた。眼玉が探照灯のようにクルクルと廻転した。地鳴りのような怪音が、その翅のあたりから聞えてきた。蓮池のような口吻が、醜くゆがむと共に、異臭のある粘液がタラタラと垂れた。
「ぎゃーッ」
私の頭の上から、そのムカムカする蓮池が逆さまになって降って来たのだ。私の横腹は、銃剣のような蠅の爪でプスリと刺しとおされた。
「ぎゃーッ。――」
そこで私は何にも判らなくなってしまった。その仔蠅に食われたことだけ判っていた。不思議にも、何時までも何時までも記憶の中にハッキリ凍りついて残っていた。
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