第六話 雨の日の蠅
(妻が失踪してから、もう七日になる)
彼は相変らず無気力な瞳を壁の方に向けて、待つべからざるものを待っていた。腹は減ったというよりも、もう減りすぎてしまった感じである。胃袋は梅干大に縮小していることであろう。
妻を探しにゆくなんて、彼には、やりとげられることではなかった。外はどこまでも続いた密林、また密林である。人間といえば彼と妻ときりしか住んでいない。食いつめて、虐げられて、ねじけきって辿りついたこの密林の中の荒れ果てた一軒家だった。主人のない家とみて今日まで寝泊りしているのだった。
失踪した妻を探しにゆく気力もなかった。それほど大事な妻でもなかった。結局一人になった方が倖かもしれない。しかし、倖なんておよそおかしなものである。腹の減ったときに蜃気楼を見るようなもので、なんの足しになるものかと思った。
陽がうっすらとさしていたのが、いつの間にやら、だんだんと吸いとられるように消えていった。そしてポツポツ雨が降ってきた。密林の雨は騒々しい。木の葉がパリパリと鳴った。
丸太ン棒を輪切りにして、その上に板をうちつけた腰掛の下から、一陣の風がサッと吹きだした。床に大きな窓が明いているのであった。とたんにどッと降りだした篠をつくような雨は、風のために横なぐりに落ちて、窓枠をピシリピシリと叩いた。密林がこの小屋もろとも、ジリジリと流れ出すのではないかと思われた。
流れ出してもよい。すべて天意のままにと彼は思った。
雨は、ひとしきり降ると、やがて見る見る勢を失っていった。そしてあたりはだんだん明るさが恢復していった。風もどこかへ行ってしまった。
やがてまたホンノリと、薄陽がさしてきた。彼はまだ身体一つ動かさず、破れた壁を見詰めていた。雨が上ったら、どこからか妻がキイキイ声をあげながら、小屋へ駈けこんでくるように感じられた。だがそれは、いつもの期待と同じように、ガラガラと崩れ落ちていった。いつまでたってもキイキイ声はしなかった。
壁を見詰めている彼の瞳の中に、なんだかこう新しい気力が浮んできたように見えた。壁に、どうしたものかたくさんの蠅が止まっている。一匹、二匹、三匹と数えていって、十匹まで数えたが、それからあとは嫌になった。十匹以上、まだワンワンと居た。
(どうして蠅が、こう沢山居るのだろう)
彼はようやく一つの手頃な問題にとりついたような気がした。別に解けなくともよい。気に入る間だけ、舌の上に載せた飴玉のように、あっちへ転がし、こっちへ転がしていればいいのだ。さて、蠅がどうしてこんなに止まっているのか。
(ウン、そうだ……)
そうだ。蠅はさっきまで一匹も壁の上に止まっていたように思われない。蠅が急に壁の上に殖えたのは、先刻の豪雨があってから、こっちのことだ。
(そうだ。雨が降って、それで蠅が殖えたのだ。どうして殖えたのだ?)
窓には硝子板なんてものが一枚も入っていなかった。板で作った戸はあったけれど、閉めてなかった。この窓から、あの蠅が飛びこんできたのに違いない。しかし飛びこんでくるとしても、この夥しい一群の蠅が押しよせるなんて、彼がこの小屋に住むようになった一年この方、いままでに無いことだった。
(なぜ、今日に限って、この夥しい蠅の一群が飛びこんで来たのだ。どこから、この夥しい蠅が来たのだ)
彼の眼は次第に険悪の色を濃くしていった。
どこから来たのだ、この夥しい蠅群は!
「ああッ。――」
と彼は叫んだ。
「この蠅が来るためには、この家の外に、なにか蠅が沢山たかっている物体があるのだ。雨が降って――そして蠅が叩かれ、あわててこの窓から飛びこんできたのだ。そうだそうだ、それで謎は解ける!」
彼は爛々たる眼で見入った。
(だが、その蠅の夥しくたかっている物体というのは、一体なにものだったろう)
彼は急に落着かぬ様子になって、ブルブルと身体を慄わした。両眼はカッと開き、われとわが頭のあたりにワナワナとふるえる両手を搦みつけた。
「ああッ。――ああッ、あれだッ。あれだッ」
彼は腰掛から急に立ち上った。釘をうったように棒立ちになった。ひどい痙攣が、彼の頬に匍いのぼった。
「妻だ。妻の死体だッ」彼の声は醜く皺枯れていた。「妻の死体が、すぐそこの窓の下に埋まっているのだ。それがもう腐って、ドンドン崩れて、その上に蠅がいっぱいたかっているのだ。……先刻の雨に叩かれて、そこにいる蠅の一群が、窓から逃げこんできたのだ。ああ、妻の死体を嘗めた蠅が、そこの壁の上に止まっている!」
彼は後退りをすると、背中を壁にドスンとぶつけた。
「……で、その妻は、一体誰が殺し、誰がそこに埋めたのだろうか」
彼は土の下で腐乱しきった妻の死体を想像した。いまの雨に、その半身が流れ出されて、土の上に出ているかもしれないと思った。
「殺したのは誰だ。この無人境で、妻を殺したのは誰だッ」
そのとき、入口の扉がコツコツと鳴った。誰かがノックをしているのだ。
「あワワ……」
彼は身を翻すと、部屋の隅に小さくなった。まるで蜘蛛の子が逃げこんだように。
コツ、コツ、コツ。
又もや気味の悪い叩音が聞える。
彼は死んだようになって、息をころした。
そのとき扉の外で、ガチャリと音がした。鍵の外れるような音であった。そしてイキナリ、重い扉が外に開いた。その外には詰襟の制服に厳しい制帽を被った巨大漢と、もう一人背広を着た雑誌記者らしいのとが肩を並べて立っていた。
「これがその男です」と、制服の監視人が部屋の中の彼を指して云った。「妻を殺して、窓の外にその死体を埋めてあるように思っている患者です。この男は何でも前は探偵小説家だったそうで、窓から蠅が入ってくると、それから筋を考えるように次から次へと、先を考えてゆくのです。そして最後に、自分が夢遊病者であって、妻を殺してしまったというところまで考えると、それで一段落になるのです。そのときは、いかにも小説の筋が出来たというように、大はしゃぎに跳ねまわるのです。……強暴性の精神病患者ですから、この部屋はこれまでに……」
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