第四話 宇宙線
宇宙線という恐ろしい放射線が発見されてから、まだいくばくも経たないが、人間は恐ろしい生物だ、はや人造宇宙線というものを作ることに成功した。あのX光線でさえ一ミリの鉛板を貫きかねるのに、人造宇宙線は三十センチの鉛板も楽に貫く。だから鉄の扉やコンクリートの厚い壁を貫くことなんか何でもない。人間の身体なんかお茶の子サイサイである。
どこから飛んでくるか判らない宇宙線は、その強烈な力を発揮して、人間の知らぬ大昔から、人体を絶え間なくプスリプスリと刺し貫いているのだ。或るものは、心臓の真中を刺し貫いてゆく。また或るものは卵巣の中を刺し透し、或るものはまた、精虫の頭を掠めてゆく。こう言っている間も、私たちの全身は夥しい宇宙線でもってプスリプスリと縫われているのだ。
一体、そんなにプスリと縫われていて差支えないものか。差支えないとは云えない、たとえば、精虫が卵子といま結合しようというときに、突然数万の宇宙線に刺し透されたとしたらどうであろう。お盆のように丸くなるべきだった顔が、俄然馬のように長い顔に歪められはしまいか。
私はこの頃人造宇宙線の実験に没頭しているが、いつもこの種の不安を忘れかねている次第である。人造が出来るようになってからは宇宙線の流れる数は急激に増加した。ことに私どもの研究室の中では、宇宙線が霞のように棚曳いている。恐らく街頭で検出できる宇宙線の何百倍何千倍に達していることだろうと思う。私はこうして実験を続けていながらも、何か駭くべき異変がこの室内に現われはしまいかと思って、ときどき背中から水を浴びせられたように感ずるのだ。そんなことが度重なったせいか、今日などは朝からなんだか胸がムカムカしてたまらないのである。
読者は、私が科学者である癖に、何の術策を施すこともなく、ただ意味なく狼狽と恐怖とに襲われているように思うであろうが、私とても科学者である。愚かしき狼狽のみに止まっているわけではない。すなわち、ここにある硝子壜の中をちょっと覗いてみるがいい。この中に入っているものは何であるか御存知であろう。これは蠅である。
この蠅は、最初壜に入れたときは二匹であったが、特別の装置に入れて置くために、だんだん子を孵して、いまではこのとおり二十四五匹にも達している。この蠅の一群を、私は毎日毎日、丹念に検べているのだ。しかし私はいつも失望と安堵とを迎えるのが例だった。なぜならば、蠅どもは別に一向異変をあらわさなかったから……。
だが、今日という今日は、待ちに待った戦慄に迎えられたのだ。それは、この壜の中に一匹の怪しい子蠅を発見したからである。その子蠅は、なんという恐ろしい恰好をしていたことであろうか。それははじめは気がつかなかったが、すこし丈夫になって、壜の上の方に匍いあがってきたところを見付けたのであるが、一つの胴体に、二つの頭をもっていたのだ! 言わば双つ頭の蠅である。こんな不思議な蠅が、いまだかつて私共の目に止まったことがあろうか。いやいやそんな怪しげなものは見たことがなかった。おそらく、どこの国の標本室へいっても、二つ頭の蠅などは発見されないであろう。ことに目の前に蠅の入った壜を置いてあって、その中にこのような怪しい畸形の子蠅を発見出来るなどいうことは、著しい特別の原因がなくては起り得るものではない。――その原因を、わが研究室の宇宙線に帰することは、極めて自然であると思う。無論読者においても賛成せられることであろう。……
*
――さて、前段の文章は、途中で切れてしまったが、まったく申訳がない。実は急に胸元が悪くなって、嘔吐を催したのだ。そして軽い脳貧血にさえ襲われた。私は皆の薦めで室を後にし、別室のベッドに寝ていたのだ。それからかれこれ三時間は経った。やっと気分もすこし直って来たので、起き上ろうかと思っていると、其所へ友人が呼んでくれた医師が診察に来てくれた。
その診察の結果をこれからお話しようと思うのであるが、読者は信じてくれるかどうか。多分信じて貰えまいと思う。といってこれが話さずにいられようか。
いま私は起き上って、蠅の入った壜を手にとって見ている。あれから三四時間のちのことであるが、二つ頭の蠅が、俄然五匹に殖えている。異変は続々と起っているのだ。そして生物学的にみて、何という繁殖の凄じさであろうか。何という怪奇な新生児であろうか。
私がもし生物学者であったとしたら、蠅が卵を生み始めた頃直ぐに、重大なる事柄に気がつかねばならなかったのである。随って、近頃の私自身の気分の悪さについても、早速思いあたらねばならなかったのであるが、幸か不幸か、私には蠅の雌雄を識別する知識がなかったのである。
実は私は――理学博士加宮久夫は、本日医師の診察をうけたところによると、奇怪にも妊娠しているというのである。男性が妊娠する――なんて、誰も本当にしないであろうが、これは偽りのない事実である。ああなんという忌わしき、また恐ろしいことではないか。男性にして妊娠したというのは、私が最初だったであろう。なぜ妊娠したか。その答えは簡単である。――この研究室に棚曳いている宇宙線が私の生理状態を変えてしまって、そして妊娠という現象が男性の上に来たのだ。
私が生物学者だったら、この壜の中の蠅が卵を生んでいるときに、既に怪異に気がつくべきだった。何となれば、その卵を生んでいる蠅は、いずれも皆雌ではなく、実に雄だったのである。そしてその雄から、あの畸形な子蠅が生れてきたのだ。
ああ、私は果して、五体が満足に揃った嬰児を生むであろうか。それとも……。
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